団地の住人の青木浩一から、ゴミ当番の件で相談があると乞われ、人のいい母は雄一に、申し
訳なさそうな表情を見せて、着替えもせずに出掛けて行った。
一人残された雄一は六畳の居間で、点けたテレビを観るともなしに観ながら、母の真由美のこ
とを考えていた。
最近の、少なくともここ一、二ヶ月ほど前からの、いつも明るく快活な母の様子が、微妙に変
わってきていることに、息子の雄一は薄々ながら気づいていた。
何かに思い悩んでいる顔だった。
台所に立っている時でも、野菜を刻んでいる手を止めて窓のほうに目を向けていたり、洗い
物をしていて、ガラスのコップを落として割ってしまったりとか、これまでの母にはないような、
気の抜けた行動が、親子でもあまり一緒にいることのない、雄一にもわかるくらいに目立ってい
た。
一人居間でぽつねんと座り込んで、焦点の定まらない目で、何かを見つめていたりしているの
を見たこともあったりした。
「母さん、何かあったの?」
と訝って尋ねると、
「ううん、何もよ」
とか、
「うん、職場のことでね、色々あって」
といつもはぐらかされてしまったりするのだ。
そして今日のレストランでの出来事も、雄一の胸にも脳裏にも大きく残っていた。
それまで明るい笑顔で話してた、母の顔が、ある人物が傍を通り過ぎた時、まるで子供が泣き
出す寸前の顔のように、明から暗へと激変していたのだ。
あの時の母の顔には驚愕もあったが、それよりもはっきりと窺い見えたのは、大きな恐怖の表
情だった。
雄一には、その人物は背中越しで遠くにしか見えなかったが、三十代半ばくらいの髪の毛の短
い痩身の男ということくらいしかわからなかったが、色白の母の顔が見る間に蒼白になったのが
見て取れたのだ。
男は派手な色のツーピースを着た、女性と一緒のようだったが、その時の母の動揺しきった目
と表情は、男がどういう人物であることを、知り尽くしているような感じに見えた。
母の動揺と狼狽が静まったのは帰路の車に乗った時で、レストランで食後のコーヒーを飲む時
にも手がひどく震えていたのも、雄一の気持ちを訝らせた要因の一つになっていた。
ふいに座卓の上に置いていた、雄一のスマホが鳴り響いてきた。
カーペンターズのイエスタデイワンスモアの着メロで、相手が誰なのかすぐにわかった雄一は
慌てた動作でスマホを耳に当てた。
「もしもし、僕だ。今、話せるかい?」
もう一週間ほども聞いていない声だったが、
「い、いいわよ」
雄一は嬉しさ一杯の声を震わせて応えていた。
「久し振りだね。まだ北陸の福井にいる。君の声が聞きたかった」
落ち着いた低いバリトンの声で、相手の男がいった。
「わ、私もよ。ずっと連絡くれるの待ってたわ」
上擦った声で話す、雄一は女言葉に変わっていた。
三年ほども深い交際を続けている、雄一の恋人の北野孝という、五十二歳の男性だった。
「もう、一週間も会っていないのよ」
「そうだったか。仕事が立て込んでてね、まだ三日ほどはこちらにいなきゃならない」
「寂しいわ…早く会って」
「ん…?会ってどうするって?」
「は、早く会って、あなたに抱かれたい」
「そりゃ、僕も同じだよ。会って君を虐めたい」
「私は抱いてもらえたら、それだけで…」
「鯖江って街に来てるんだよ。新作の眼鏡の製造契約の件でね」
「お疲れ様です。お身体のほうは何ともないのですか?」
「身体だけは、君から若いエキスをもらっているから大丈夫だよ。ところで…」
「はい?」
「こ、この前会った時頼んでおいた、き、君のお母さんの下着だけど…」
北野のバリトンのいい難そうな声だった。
「あ、ああ…ごめんなさい、忘れてました。」
北野と母との間には直接の面識はなかったが、彼も過日の市の広報を見て、それを雄一が
自分の母親だと少しばかり自慢げに話したら、俄然、興味を示し、母の穿いている下着が是
非とも欲しいということだったので、渋々ながら雄一は、愛する男の頼みを引き受けていた
のだった。
北野は今風の言葉でいうと、バイセクシャルで、両性愛者だった。
結婚も普通にしていて、妻と二人の子供がいる。
雄一との交際のきっかけは、ネットでのメール交際からで、初めて身体を許した時、北野
の何もかもを承知の上で、雄一は交際を続けているのだった。
さらに北野は、所謂、SMの嗜好者で、温厚な顔立ちん似ず、嗜虐的な性格の持ち主で、雄
一を抱く時も、縄で縛りつけたり、蝋燭で炙りつけてきたりしてきて、逆に被虐性の勝る雄
一とは、嗜好の面でも肌の合致するところがあったのだ。
北野はある大手商社の取締役員をしていて、雄一と会うのも月に二度あればいいほうだっ
た。
「あなた…私の母までどうにかしようと?」
母の下着を渡す約束をさせられた時、雄一は意を決して北野に問い質した。
「僕がバイセクシャルだということは、君も知ってることじゃないか。嫌だというのなら
いいよ」
と逆に恫喝的にいわれ、
「わ、わかりました。あなたのいう通りにするから、私のこと嫌いにならないで…」
雄一はそういって、北野の命令を承諾していたのである。
また連絡するよ、と優しいバリトンの声で電話は切れた。
もっと長く聞いていたい声だったが、玄関のドアの開くような音がしたので、雄一は無意
識にスマホをシャツの胸ポケットに仕舞い込んだ。
「お帰り」
そういって母の顔を見ると、少し疲れたような顔をしていたが、色白の顔の化粧も整って
いたので、
「風呂沸すの忘れてたから、今から入れるね」
そういって、浴室のほうに向かった。
母の真由美は真由美で、階段の踊り場の薄暗い灯りの下でし直した化粧が気になっていた
ので、雄一と目を合わすことなく台所で、水道水をコップに入れて飲み干した。
真由美と雄一の母子は、この日、それぞれなりの官能的な思惑を抱いて布団に入った。
二十六歳という若さと体力だけで、いつもならもっと荒々しく真由美を蹂躙してくる浩一
が、室を訪ねた最初の時の、真由美の憤怒に気後れでもしたのか、浩一は思いも寄らず短い
時間で介抱してくれた。
卑劣な姦計に嵌り、散々な屈辱を受けた若い浩一を許す気持ちは、真由美にさらさらなか
ったが、それ以降も幾度かの呼び出しを受けての凌辱に、女としての身体のほうがいつの時
からか、悔しくも馴染んでいってしまっているのを、最近の真由美は心ならずも自覚してし
まう時があった。
年齢で三十以上も年下の男の、乱暴で若者的な荒さの際立つ、浩一の性技に屈しているの
では断じてなかったが、若い浩一なりの必死さのようなものを、時折、良さとして勘違いし
てしまって、つい身体が反応してしまい、彼の山のような身体に本気でしがみついてしまう
ことがあるこの頃になっていた。
若さだけの浩一を思い浮かべていた真由美の脳裏に、ふいに反面的に、今日の雄一とのレ
ストランでの会食の時、予期も予想もまるでしていなかった今井洋二の、剃刀の刃のような
精悍な顔が思い浮かんできていた。
今井の浅黒く日焼けして、研ぎ澄まされたような顔がプロローグとなって、真由美の脳裏
だけでなく、全身に暗雲になって覆い被さってきていて、どす黒い記憶がフラッシュバック
のように蘇ってきて、思わず掛け布団を頭の上まで引き上げてしまっていた。
二年以上前のことだ。
今井は真由美の勤める老人ホームへ、食材を納入する食品会社の配送員として、毎日のよ
うに出入りしている男だった。
それまでに納入していた会社が倒産して、新しく契約を結んだ会社の従業員で、施設長の
真由美も調理場付近で、幾度か顔は見たことがあった。
暫くして、真由美の勤務する施設内で、ある男女交際で噂が立ち、施設長の真由美の耳に
も届いてきた。
施設職員でケアマネージャーをしている、北野玲子という五十二歳の既婚女性と、食材納
入会社の配送員との不倫の噂だった。
ケアマネの玲子は真由美とは、仕事も含めて家族同士の付き合いもある大切な友人同士で
ある。
男女の交際については、職場は年配の大人が大半ということもあり、プライバシー侵害の
観点もあり、細かな規定や規則はなかったのだが、玲子のほうが既婚者で、子供も娘が二人
いるということもあって、職場の長として看過できない状況になって、真由美が友人の玲子
に事情を尋ねるという事態になったのだ。
ある日、仕事帰りの夕刻、真由美は玲子を自宅へ食事に誘った。
一人息子の雄一が、会社の出張で県外へ一泊で出かけていた時た。
不倫という内容では、事務所内では話しにくいだろうという、真由美なりの友人への配慮
だった。
真由美の居宅の玄関を入った時から、玲子はもう沈鬱な表情で恐縮しきりの体だった。
真由美のほうは、酒は一滴も飲めないのだが、玲子は女性にしては酒豪のほうで、酒なら
何でも飲める口だったので、缶ビール半ダースと日本酒五合瓶一本を冷蔵庫に用意してあっ
た。
缶ビール三本と日本酒が二合ほどなくなった頃、その酔いのせいもあってか、玲子の姿勢
も真由美への話しぶりも崩れ出し、本音か本心に近い台詞が饒舌に出出していた。
「…で、新しい食材屋さんに変わった時にね、そこの営業課長とかいう人に連れられて、
今井が来たわけ。その時は私も何とも思わなかったんだけどね、毎朝、調理室で顔を合わせ
ているから、話す機会も多くなって…施設長も知ってるでしょ?あの通りのイケメンで、ス
タイルも痩せて引き締まってるし、あの人、中学の頃から空手やってて、今は三段の免許持
ってるらしいの…」
明らかに酒の酔いのせいで、玲子は不倫相手と目されている、今井という男のことを話す
時は、憧れの俳優のことを話すようにうっとりとした顔で喋り続けてくるのだった。
玲子は五十二歳で、三つ年下の夫がいて子供も二人いるのだが、普段はほとんど化粧っ気
なしで、素顔に近い面立ちをしていて、肌の色の白さのせいもあってか、実年齢よりはもう
少し若く見える外見だった。
身体つきは中肉中背で、十日ほど前にあった健康診断時で、身長は百五十七センチで体重
は五十三キロと、少しふっくらとした体型をしている。
くるっとした丸い目が愛らしく見え、つんと小さく尖った鼻と、艶やかな唇が特徴的で、
どことなく男好きのような感じで、性格も明るく職場での仕事ぶりもテキパキとこなし、施
設長である真由美が、最も信頼できる同僚だと思っていた。
それだけに、今回のケアマネでもある玲子の不倫騒動は、職場内にも少なからぬ波紋を投
げかけることになり、ついに事務所の社長から、施設長の真由美に騒動の終結命令が出たの
だった。
玲子の友人としても心苦しいことだったが、不倫相手の勤務する会社の上司にいって厳重
注意とかしてもらえればと、真由美は安易に考えていたのだが、事は存外に根深いところに
あった。
「施設長だから正直に話しますね。彼とは確かに男女の関係になってます。これまでに五
回ほどホテルに誘われて…亭主も子供もいて、この歳でほんとに恥ずかしいと思ってるんだ
けど…だ、だめなのよね、女って弱い」
玲子の顔が急に悲し気になり、話も微妙なところに入ってきていた。
「お金をね…これまでにも会うたびにせがまれて、ちょこちょこと渡してたんだけど、段
々と額も大きくなってきて。お金ができないなら亭主に話すって…」
「それなら、間違いなく恐喝じゃない?恥ずかしいことかも知れないけど、警察にいうべ
きじゃない?」
真由美も憤慨した顔で、玲子に向かって言った。
玲子のほうに多少の泥が跳ね飛んでくるかも知れないが、恐喝行為で罪になれば、相手との
縁は間違いなくそこで切れるのだ。
だが、それを言おうとした真由美を制するように、
「こ、この前にね、私もそのことを今井に向けて、はっきりといったの。でも、そんなこと
には相手は少しも動じないの。俺はどうせ前科持ちだし、刑務所暮らしも慣れてるから平気だ
って」
と玲子は酒の酔いのせいでとろんとなった目を、悲しそうに沈み込ませて、諦めたような口
調で言ってきた。
そしてついに、真由美は、
「私が会って話をつけるわ」
と強く決断したのだった。
数日後の夕刻、真由美は玲子と連れ立って、待合場所である駅前のシティホテルのロビーで、
件の今井洋二と向かい合っていた。
今井は濃紺のジャケット姿で、浅黒く日焼けした顔に色の薄いサングラスをかけて、真由美
たち二人が座っているソファーの前で、長い足を組んで、薄い唇の端に小さな笑みを浮かべて
座っていた。
真由美はこれまでにも、職場で何回も今井の顔は見ていたが、こうして間近に向かい合って
会うのは初めてだった。
会って瞬間的に感じたことは、サングラスの奥でこちらを見てきている切れ長のやや薄い目
に、何者にも歯向かっていくような鋭さと、獲物を狙う蛇のような粘さを連想させる、薄気味
の悪さだった。
最初に合わせた目を、先に逸らせたのは真由美のほうで、内心で気を緩めてはならない相手
と思い、真由美は改めて背筋を伸ばし気を引き締めた。
真由美の隣に座っている玲子のほうは、すっかり気持ちを沈ませてしまっていて、やや丸み
のある身体を、手を合わせながら縮込まらせていた。
「ま、話が話だから、ツインの室をリザーブしておいたから、そこへ行こうや」
室の鍵を手にぶらつかせて、精悍な顔には似合わないような、高い声で今井は言って、ソフ
ァーから腰を浮かしかけた。
男と一緒に室に入るといういきなりの難題を、こともなげな口調で言ってきた今井に目を向
けて、それから横で身体を丸く竦めている玲子を見た真由美だったが、ここでおめおめと引き
下がるわけにはいかないし、こちらは頼りないといえ玲子との二人である。
男が暴力に訴えてきたら、二人で力を合わせてホテル従業員を呼べばいいと、真由美は自分
で決断し、
「玲子さん、行きましょ。今日で決着つけるのよ」
と玲子の丸く竦んだ背中に手を当てて促した。
駅前の、それも名の知れたシティホテルだから、不測の事態のセキュリティもそれなりにし
っかりとしているだろうという読みもあって、真由美は玲子の肩を抱くようにしてエレベータ
ーホールに向かった。
五階のツインルームの室に入った途端のことだった。
二人で寄り添いながら室のドアの中に入ってすぐに、前にいた今井が振り返ってきたかと思
うと、玲子の身体を真由美から強引に引き離してきて、そのまま窓側のベッドのほうに、引き
摺るように連れていき、真由美の腹部の辺りへ、いきなり拳をめり込ませた。
玲子は、うっと短く呻いてそのまま、ベッドの一つに意識を失くして倒れ込んだ。
あまりに素早い今井の動きに真由美はついていくことができず、壁に背をつけ、口に手を当
てたまま茫然と立ち竦んでいた。
「これで二人っきりってわけだ。ゆっくりと楽しもうぜ」
今井はそういうが早いか、敏捷な動きで真由美を目がけて飛びかかってきた。
避ける間もなく、真由美は肩の上から今井に抱き竦められ、玲子と同じように、もう一つの
ベッドの上に投げ倒された。
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