市営住宅団地の三階の、このドアの前に立つのは、これで何度目なのかわからなかったが、真
由美には決して慣れるということはなかった。
薄暗い階段灯の灯りの下で、真由美はやはり躊躇いの気持ちを大きくしていて、目の前のチャ
イムボタンに手を添えられずにいた。
そのボタンを押せば、中には確実に何もかもを燃え尽くすような地獄が、手ぐすねを引いて待
っている。
このドアの前に来ると、真由美はいつも思う。
最初に毅然とした姿勢と、強固な意志を相手に翳すべきだったと。
若い浩一の姦計に嵌り、睡眠薬を知らぬ間に飲まされ、意識を失くして、真由美は自分より三
十以上も年下の浩一に犯され、一度目は意識のないままだったのでわからなかったが、二度目の
つらぬきを受けた時、六十を超えた女の身体が、不覚にも燃え上ってしまった女の官能に、理性
の心を失くし、恭順と迎合と屈服のすべてを相手に与え晒してしまったのだ。
弁解と弁明の余地は何一つ、自分にはないと真由美は思っている。
そこまでの道理がわかっていながらも、真由美は今日、誕生日の祝いまでしてくれた、息子の
雄一を一人残して、ドアの外に出た時、身体のどこかに蝋燭のような、妖しい灯りが小さく点っ
たのを感じていたのだ。
何度目になるのかわからないが、今夜も同じように、悪魔の住むこの室の重々しげなドアの前
で、真由美は官能の炎と理性の心を戦わせていた。
団地の階段はメゾネット方式になっていて、玄関と玄関が隣同士で向かい合っている。
その隣の玄関の中のほうで何かの物音が聞こえた。
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