M女性にも様々なタイプがあると思っています。
愛美の設定ですが・・・
愛美は、過去にレズ経験があって、その際にアナルを舐められた経験があります。
その為、アナルが感じることをすでに知っています。しかし、肛門と言う「汚い」「穢らわしい」器官で性的な快感を得てしまうことに、強い罪悪感を抱いているが故に、アナルオナニーをしたい!と言う気持ちを持ちながらも、軽くアナルを触ったり、ウォシュレットで刺激する程度のことはしていましたが、指を入れる、と言う行為まではしたことがありません。
しかし、ホモセクシャルの男性たちが、アナルでの性交によって快楽を得ていることを知識として知っているので、指を含めて異物を入れて快感を得たい!と言う気持ちがありました。
ですが、そもそも良家の子女であり、両親から厳しい躾を受けていた為、オナニーをすることにも強い罪悪感を感じてしまう女性です。
また、思春期にSM系の漫画を読む機会があり、自分がMであると言う自覚もありました。しかし、それを素直には認めることが出来ませんでした。
その後、酷い便秘に悩んでいた時、イチジク浣腸をする方法を知り、試すことになります。
これであれば、アナルに異物を入れてオナニーをするのではなく、便秘という症状を解消する医療行為だから・・・と言う理由を付けて、浣腸をすることになります。
細いノズルが肛門に入っていく感覚や、冷たい浣腸液が入っていく感覚は、まさにアナルを責め嬲られている!と言う強い被虐感を抱いただけではなく、最終的には大きくて恥ずかしい脱糞する姿を見られ、羞恥と屈辱に塗れてしまう自分を想像し、ますます愛美のM性は強くなっていきます。
しかし、あくまでも愛美は、自分は肛門で感じてしまうような変態ではない!羞恥や屈辱的な行為に興奮してしまうマゾ女なんかではない!!と、心の中では強く抵抗しています。
心ではそう思いつつも、被虐願望はどんどん強くなっていく。
そうした経緯を経て、自分が「アナルマゾ」であることを、認めざるを得なくなるのですが、どうしてもそれを素直には受け入れられない。
そして浣腸オナニーをする際にも、あくまでも自分が性犯罪者によって陵辱される哀れな被害者を演じるようになります。
それどころか、心の中で必死に抵抗すればするほど、自分の中の被虐感が強く感じられることに気付いてしまう。
もちろん、過酷で執拗なアナル責めを受け、最終的には心が折れてしまったり、アナルで逝ってしまうことになったとしても、それでも愛美は、その現実を受け入れようとしません。
すでに物語の中にも書いていますが、過酷な責めに自分が屈服してしまえば、二度とまともな社会性生活できなくなるような、マゾ地獄に墜ちてしまう!それだけは受け入れられない。
幼い頃から、両親から受けた厳しい躾を受けた自分が、本当の自分であり、マゾ女としての自分は、悪魔の囁きの誘惑に負けそうになっている弱い自分の一部でしかない!!と思っている。
この物語の最終章に近い場面では・・・
「愛美は、過酷なアナル責めでしか快感と興奮が得られない変態のアナルマゾです。どうか、さらなる責め苦を、愛美にお与えください!」
と言う台詞を言うことになります。
しかし、これは華蓮から命じられ、仕方なく言わされているだけで、心の中ではそれが事実であると認めつつも、最後の最後まで抵抗し続けます。
これは、あくまでも強制的に言わされているだけで、本心ではない!!・・と。
愛美は、こうして心ではMであることを断固として認めず、抵抗することによって、自分の中の被虐感を掻き立てる。
悲劇のヒロインが、どのような拷問を受けようとも、清い心を持ち続け、最後には殺されることになっても、決して失われることのない。こうした清純さを持ち続ける聖女でありたい。
つまり、そうした清い心を持ち続けるが故に、羞恥や屈辱的な責め苦は、普通の人よりも過酷な責めとなるけれど、そうした心の抵抗があってこそ、強い被虐感が味わえる。
それを知っているだけに、頑として屈服しようとはしません。
こうした抵抗によって自分の中のMとしての被虐感を、最大限に感じることが出来るからです。
SM界の巨匠と言われる団鬼六氏の小説では、高貴な女性が数多くヒロインとして描かれています。
彼女たちには気品があり、決して屈しない強い意志を持っています。だからこそ、淫らな責め苦を受けた際には、気が狂うほどの羞恥と屈辱に塗れ、心を茨の鞭で打たれるような苦痛を感じます。
しかし、そんな責め苦を受けても堪え続け、自分を失ってはならない!と健気に抵抗し続ける姿にこそ、マゾ女の美しさがある!・・・と、思っています。
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