三十分ほど前の、祖母の静かな口調での語りかけは、僕の心臓をぐさりと
抉った。
暫くは声を出すことも、手の一本を動かすことも出来ずに、正しく氷のよ
うに、僕は固まってしまった。
悪戯を見つかった子供のように、僕はすごすごと室に引き籠るしかなかっ
た。
やがて時間の経過が、単純な自分の心を回復させ、少しばかり申し訳なさ
げな表情で、祖母の室の襖戸の前に僕を立たせていた。
「は、入っていい?」
半分以上は本心の恐る恐るの声で、僕はいった。
「どうぞ」
祖母の短い了承の声が終わって、三秒後に僕は襖戸をゆっくりと開けた。
六畳の室は、中央に敷かれた布団の脇のスタンドの灯りだけで、天井のほ
うは薄暗かった。
見ると、この前は布団が二つ並べて敷いてあったのが、真ん中の一つしか
なかった。
祖母は薄明るいスタンドから、少し離れたところの畳に小さな身体の背筋
を伸ばすようにして正座していた。
白地に濃紺の花柄模様の入った寝巻姿だ。
色白の小さな顔の半分ほどに影が差していたが、かたちのいい唇の赤さだ
けが、僕の目には際立って見えた。
室に二歩ほど足を踏み入れた僕の鼻先を、この室の祖母の身体から発酵さ
れた、あの興奮と奇妙な懐かしさを織り交ぜた匂いが、強くくすぐるように
漂い、心地のいい刺激を与えてきていた。
「寒くない?」
蒼白めいた顔を僕のほうに少し向けて、祖母の気遣う声でいってきた。
うん、とだけ短く応えて、僕は布団を挟んで向き合う位置に静かに胡坐を
かいて座り込んだ。
布団の上に、枕が二つ並んでいることに気づき、僕の心に小さな安堵が宿
った。
あの…と、僕が昨日の恥ずかしい行状の詫びをいおうとした時、
「あのね、この室に入ったら、婆ちゃんって呼ぶのは無しよ」
と祖母が遮るようにしていってきた。
「な、何て呼べばいいのさ?」
口を少し尖らせて僕は応酬した。
自分より遥か年上の人を、名前で呼び捨てにもできないだろうに、と心密
かに思っていたら、
「そんなことはあなたが考えなさい」
と祖母はぴしゃりと決めつけるようにいって、
「で、何を聞きたいの?」
と続けて二の矢を放ってきた。
話のペースは完全に、老練な大人のペースになっている。
悪いことしてるのそっちだろ、という思いを槌み込んで、
「こ、古村と…」
といいかけると、
「古村さんと私のこと、疑ってるのね?」
とまた遮られてしまった。
「あの人とは、何でもないわよ」
と断言的にいわれたので、負けじと僕は、
「え、駅前で、肩組んで…」
と反論したのだが、結果としては僕のほうの完敗という事態になったのだ
った。
ここで新たに登場してきた人物がいた。
吉野という、あの寺での衝撃の夜に古村と一緒に参加していた、六十代の
白髪の紳士然とした男である。
結論を先にいうと、祖母が僕の目を盗むようにして、隣村に出かけ、会っ
ていたのは、古村ではなくて吉野だったのだ。
祖母と吉野の間には、七カ月という、僕の全く知らない深い交際期間が存
在していたのである。
吉野という人の人物歴を、要約的に説明すると、年齢は六十七歳で、何年
か前に最愛の妻を交通事故で亡くしている。
夫婦の間に子供はなく、吉野はずっと独居生活を続けていたのだが、五、
六年前に都会のマンション生活に区切りをつけ、奥多摩のこの村に移住して
きたとのことのようだ。
吉野は若い頃に小さな精密機械工場を起こし、何年か後に、精密機械部品
の何かで特許取得したものが、永続的な利益を生み出す結果となり、それを
機に自分の会社を他人に譲渡して、悠々自適の生活者になっていた。
最愛の妻を交通事故であっけなく亡くした後、吉野は自分の人間性が、自
分でも驚くほどに豹変したとのことだ。
この吉野という人物の詳細な遍歴は、ここでは割愛し、祖母から聞いた話
やその他の資料を参照に、詳報したいと思っているが、この夏休みに思わぬ
かたちで見聞きした、大人の愛欲の事象を遥かに凌駕した生々しさや毒々し
さがあり、十六の少年の僕には踏み入れられない箇所が幾つもあるようだ。
祖母が七カ月に渡って密かに交際していたという吉野だが、現状の話をい
うと、彼は今、腎臓癌にかかっていて、ステージ4とかで余命六ヶ月の宣告を
受けていると、祖母から聞かされた時、僕は声には出さなかったが大きな驚
きを受けた。
吉野は、普通なら入院治療が当然のところを、今、自分が一人で住んでい
る家を、終の棲家としたいと、医師に強烈に申し入れ薬物治療にしてもらっ
ているとのことだ。
家政婦を雇っての自宅療養だが、今のところは気分がいいと散歩に出たり
とかが出来ていて、この前の寺での僕にしたら驚愕の、大人の愛欲交換の場
にもどうにか参加できたということだった。
そういえば、とあの時、盗み見していた僕も思い出していた。
古村や竹野は、祖母の身体を求め、身体も能動的だったが、吉野のほうは
見て楽しむほうに、専念していたような気がしないでもなかった。
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