何度か書くが、これまでの僕は友達もいなくて内向的で、引き込み思案の
陰気な性格というイメージが先行しがちのようだが、存外、本人自身はそれ
ほどネガティブな思考や、マイナーな気持ちでいつもいるとは思ってはいな
い。
身体的にも、身長百七十五センチ、体重六十一キロのまだまだ成長盛りの、
普通の高校生でだと思っていて、ロック音楽やバラード曲も幅広く聴いたり
するし、歴史小説に嵌ったかと思えば、漫画のスラムダンクにも一時期夢中
になったことがあったりで、それほどには自分を異質な人間とは全然思って
いなかった。
それがこの夏休み、祖母の住むこの奥多摩の、限界集落と揶揄される山村
に恒例的に遊びに来て、ふとしたきっかけで何もかも全てが新しい発見と、
青天の霹靂のような興奮の世界に、まるで時速三百キロで走る新幹線に乗っ
たような速さで、僕は身体と頭と心の中に、同じ年代の人間の大半以上が体
験でき得なかった世界の渦の中へ、間違いなく突入しようとしているのだ。
いや、もうこの何日かで、僕は終着駅のわからないレールの上に乗ってい
て、驚愕の関門の幾つかを、この目と頭で体験してしまっているのだ。
高明寺の裏庭で目にした大人の男女、熟れた年齢のつつましやかな尼僧と、
四十代のどこといって特徴のない風采の、寺の下男的なお守り役の男との、
淫靡で刺激的過ぎる、肉体と肉体の交わりを図らずもこの目と意識の中深く
へ入力してしまっているのだ。
四方を山に囲まれた集落の日没は早いようだ。
祖母が仕事から帰ってきたのは、五時半過ぎだったが、縁側の庭先はもう
陽射しはとっくになく、薄闇のような空気に包まれていた。
僕は今日の午前中の高明寺での、驚愕と興奮の出来事との遭遇など、当然
のように億尾にも出すことはなく、夕食までの間、ちらちらと様子を窺い見
るだけだった。
夜の秘密の外出を控えている祖母だったが、表情には何一つ変わったとこ
ろはなく、夕食時の僕との会話でもさりげなく淡々としていた。
「雄ちゃん、あなた夏休みの宿題とかしてるの?」
「やってるよ」
「家にいると、お父さんやお母さんにうるさくいわれるから、ここに来て
るんじゃない?」
「違うよ」
「こんな不便なだけの田舎に毎年来てくれて、婆ちゃんは嬉しいんだけど
ね」
「ここは空気がおいしい」
と祖母と孫の普通の会話で夕食が終わった時、流し台に食器を運びながら、
祖母が急に何かを思い出したような声で、
「忘れてた。今夜また寄り合いだった」
と、テレビを観ていた僕のほうに向けていってきた。
「あ、そうなの」
と僕はわざと気のないような返事を返し、大人って…と小声で呟いた。
それから約一時間弱、外は完全に夜が更けた頃、祖母が自分の室から出て
きたのだが、僕の目は多分、点になっていたのではないかと思う。
祖母は何と着物姿だったのだ。
白に近い灰色の夏用の薄手の生地のようで、黒の細い線が縦に等間隔に入
っていて、裾のあたりに水墨画風に花が目立たないように描かれている。
帯は着物よりも少し濃い灰色だ。
「何それ?」
僕は驚きの思いを胸に隠して、普通に訝るような声でいった。
「き、今日はね、椎茸栽培の組合が出来て五周年らしくてね。人数は少な
いんだけど、細やかな祝杯を上げようってことになってるの」
話しながら祖母の視線が、向いていないのがわかったが、
「奇麗だよ、婆ちゃん。センスあるね」
と普通に誉め言葉を送った。
この時の僕の頭の中に浮かんでいたのは、今日の午前の寺での尼僧の法衣
姿だった。
そんな気持ちでいると、祖母の赤い唇が際立って見えるような化粧の顔が、
僕にはひどく欲情的に見えた。
「じゃ、行ってくるわね。留守番お願いね」
下足箱から着物用の履物を出して、祖母は落ち着いた足取りで玄関を外に
出た。
幸いなことに外は月夜のようだった。
それから二十分ほど、観るともなしに観ていたテレビを消して、僕も玄関
に出た。
月の明かりが煌々としていた。
祖母は懐中電灯を持って出たが、朝に下調べも済ませている僕には、この
月明かりだけで充分だった。
何種類かの虫の音や蛙の鳴き声を背中に聞きながら、僕は苦も無く目的地
に辿り着き、杉木立ちの間をぬって、明かりの点いている窓が全部見える位
置にゆっくりと座り込んだ。
二つの引き違い窓と一つの嵌め殺し窓で、そのどれもに網戸があり、全て
の窓が開け放たれている。
六畳間が二間続いているようで、外にいる僕から向かって右側に今夜の出
席者が今は集まっているようだった。
この家の住人の竹野という坊主頭の男が、盛んに右往左往しているのが見
えた。
他に男が二人いるようで、室の中央の少し大きめのテーブルで向かい合っ
て座っている。
当然に僕には、二人とも知らない顔の人物だ。
一人は六十代半ばくらいの白髪頭で、もう一人は頭の前のほうが大きく禿
げ上がっていて、縁の太い眼鏡が特徴的な四十代後半に見える男だ。
白髪の男はでっぷりとした体格で、ポロシャツに黒のジャージーという軽
装だったが、眼鏡の男はネクタイを締めたスーツ姿である。
二人ともこの村の者ではないというのが、何となくわかった。
そして着物の祖母の姿は床の間を背にした、細長いテーブルの短いところ
にあって、色白の小さな顔を伏せ気味にして静かに正座しているのだった。
テーブルの上にはビール三本ほどと、二つ三つの肴用の小皿や小鉢が置か
れていた。
僕のいる位置と家の窓の距離は十メートルもなく、竹野やそこにいる男た
ちの声も途切れ途切れに聞こえたが、もう少し近づきたいという思いに駆ら
れ、僕は思いきって窓下の壁にまで身体を進めた。
杉木立ちのほうからの虫の音に混じって、家の中の声が鮮明に聞こえた。
「山野さんは、その…いつ頃から、こういう世界というか、SMに興味とい
うか、関心を持たれたのですか?」
この低い声は白髪の初老の男の声だ。
盗み聞きしている、僕のほうも知りたいと思っていた質問が出て、自分の
胸が小躍りするのが分かった。
「………」
祖母からの返事はなかなかなかったのだが、
「お客さんに聞かれたことは、何でも応えるんだ」
と、これは竹野のような声だった。
「は、はい……」
祖母の小さな声がして、
「あ、あの…も、もう何年も前に亡くなっている夫に……」
と蚊の鳴くような言葉が続いた。
「ほう……で、旦那さんが亡くなってからは?」
「た、竹野さんと……二、二年ほど前に知り合って…また」
「あなた、そんなにお奇麗なのに、再婚のお話とかなたったんですかな?」
「な、何回かはいただきましたが…」
「私も三年前に妻を病気で亡くしていましてね。いやあ、もう少し早くお会いし
たかったですな。お幾つでしたかな?」
「…ろ、六十四です」
「ふーむ、とても見えないくらいにお若い」
白髪の男との会話はいくらでも続きそうだったが、遮るようにそこで竹野から声
が出た。
「そろそろドラマの作成に入りたいと思いますので、ご準備をお願いします」
ん?と小首をかしげるような竹野の言葉だったが、その理由は間もなくわかった。
予め台本のようなものが作られていて、竹野を含めた四人で、SMドラマを作ってビ
デオ撮影をしようというのだった。
「役名の確認をもう一度しますね。吉野さんがサラ金会社の社長で、古村さんが、
そこの会社の悪徳社員で、私が返済不能になった債務者で、彼女が私の妻というこ
とです。台詞はその時々でアドリブでいいですから、皆さん、役になりきって下さ
いね」
祖母の思いも寄らない告白とか、祖母を辱め甚振るのを目的としたドラマ撮影と
かいったあまりのことの展開に、窓下に屈んでいる僕の気持ちのほうがそれこそ右
往左往させられる展開だったが、ここまできたらもう逃げるわけにはいかないとい
う開き直りの気持ちで、僕は見聞の意識を高めることに専念しようと決めた。
煌々とした明るい月が僕の頭の上にあった…。
続く
※元投稿はこちら >>