祖母の指定した十時までの時間は、僕には意外に長い時間ではなかった。
いつもの時間に風呂に入り、室に戻ったのが八時半過ぎだった。
残りの一時間半をどう過ごしたのかというと、何故かパソコンには一切手を
触れず、文庫本で何度も読み返した山本周五郎の「さぶ」を最初のページから、
一字一句を拾い出すようにして、丁寧に読んだり、スマホから尾崎豊のバラー
ドを何曲かイヤホンで聴いたりしたのだが、そのどれもが目や耳から体内に入
っても、僕の心の中に何も響いたり届いてきたりはしていないようだった。
喉が渇いてきて台所の冷蔵庫に行こうとしたが、祖母との鉢合わせが何故か
嫌だったので我慢した。
家の中はテレビの音も聞こえず、外からの虫や蛙の鳴き声がいつも以上に耳
にはっきりと聞こえるだけだ。
孫の僕にきっとした態度で、あれだけのことをいった祖母は、逆に今どうし
ているのか、ふと考えた。
浴室のドアの開け閉めの音が十分ほど前にした。
今はやはり、僕と同じで室に引き込んでいるのだろうか。
それともう一つ、僕が一番気にしている疑問があった。
話があると、あの時祖母は語気を強めていった。
そして、七時過ぎのこの時間では早いともいった。
何故、居間ではなく、自分の室に僕を呼ぶのか?
「さぶ」を呼んで、尾崎豊を聴いて、それらの疑問を考えていたら、もう九
時五十分を過ぎていた。
幾つかの疑問に対する答えは、僕が意外に腹が座っているのかどうかわから
なかったが、深くは考えようとはしなかった。
祖母の口からなり、態度で答えは明確に出ると思うのだ。
いつもなら、祖母が用意してくれている夏用のパジャマは着て寝ないのだが、
今夜はさすがにパンツとランニングシャツという訳にはいかないと思い、パジ
ャマの上下を身につけて、僕は十時きっかりに祖母の室の襖戸の前に立った。
「入っていい?」
「どうぞ…」
襖を開けると最初に驚いたことがあった。
室に布団が二人分、並べて敷かれていたのだ。
目を見張らせ、一瞬足の止まった僕に、
「話が遅くなりそうだから…」
と祖母は、僕が想像もしていなかった穏やかな声で、こともなげにいうのだ
った。
「あ、そう」
強がった声で僕がいうと、
「座って…」
と白い歯を覗かせて、普段の声でいってきた。
灯りは祖母の枕元のスタンドだけだった。
その少し心もとなげな灯りでも、赤く紅を引いた祖母のかたちのいい唇が鮮
明に見えた。
今頃になって、祖母の室の化粧と体臭の見事に調和した匂いが、僕の鼻孔を
強く刺激してきた。
「少し…恥ずかしいけれど…わ、私から話すわね」
心もとない灯りの中で、祖母は化粧した小さな顔を俯けるようにして、息を
もう一度大きく吸ってから、澱みのない冷静な声で話し出した。
そこでもまた、僕は驚愕の淵に突き落とされたのだ。
「お盆前の…あなたがここに来てから十日ほど過ぎた日の夜。もっとはっき
りいうと、私が夜に、着物を着てお寺へ出かけた時があったでしょ?…そうい
えば雄ちゃん、わかるでしょ?」
俯いたまま祖母は話していた。
祖母の言葉の最後のフレーズに、僕は反応し忽ちに動揺していた。
「…あ、あの場に…あ、あなたはいたのよね?」
祖母のその声は悲しげだった。
「こ、こうして…ね。あ、あなたの前に…い、いること自体が、私には資格
がないの…ご、ごめんなさいね…こんな婆ちゃんで」
祖母が泣いているのが、顔を見なくてもわかった。
「と、年甲斐もなく…ね。は、恥ずかしくて、みっともなくて…こ、こうし
てね…ま、孫のあなたなんかと…話してなんかいられないんだわ」
涙声はまだ続く。
「あ、あの…お寺のお守り役している…名前は竹野っていうんだけど…あ、あ
の人に最初…私、襲われて…犯されてしまったの。…そ、そして」
「ば、婆ちゃん…」
そう呼びかけるのが精一杯だった。
「ば、婆ちゃんにはね…あ、あなたには、あんな恥ずかしいところを見られて、
生きていく資格なんてないの」
「ぼ、僕も悪いことしてる…だ、だから」
これ以上もう話さなくていいよ、と僕はいうつもりだった。
「ううん…あなたに…私の恥ずかしいところ、汚いところを見られた…あなた
には…婆ちゃんのことみんな話せるから…聞いてほしいの」
祖母はそれまで俯けていた顔を上げて、薄暗い灯りの中で、何かを強く決意し
たような思いつめた目で、僕の顔を正面から見つめてきていた。
小さなスタンド一つだけの灯りの、芳香な匂いの漂う六畳間の空気が、ピンと
引き締まるような気迫を、祖母の切れ長の目の奥に感じた僕は、もう何もかける
言葉はないと思い、祖母の話に耳を集中させることにした…。
続く
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