祖母が青白い顔で、何かに堪えるようにかたちのいい小さな唇の下を歯で噛み
締めるようにして、玄関の中へ戻ってきたのは、数分ほど経ってからのことだっ
た。
外に出ていく前と、完全に表情が一変しているのが、僕にもはっきりとわかっ
た。
何かがあった。
電話の相手が誰なのか?
僕が考えられるのは竹野しかないもだが。
座卓の前に力なく座り込んだ祖母は、箸を手にして、まるで目の前に孫の僕が
いないかのように無視して、黙々と口を動かせていた。
今夜またスマホの要チェックだな、と頭の中で独り言ちながら、ご馳走さまの
声を残して、僕はそそくさと室に引き込んだ。
昼間に苦労して編集をし終えたパソコンを、すぐには開ける気になれず、畳に
ゴロンと寝転びながら、スマホの小さな画面に目を向けていた。
夏休みも後、十日あまりか。
スマホの画面とは、まるで違うことが妙な感慨になって、年齢的にもそうだが、
まだ人間として何もかもが未成熟で、経験不足な僕の頭の中をぐるぐると巡りだ
していた。
台所のほうで、また祖母のスマホが鳴るのが聞こえた。
虫や蛙の鳴き声だけで、家の中全体が奇妙な静寂に包まれている。
徐に僕は畳から起き上がって、横に置いたパソコンの起動スイッチを押した。
祖母のことは、ようわからん、と関西弁を真似て一人呟きながら、日付順に整
理しておいた、おそらくあの祖母が書き記したものであろう、日記の整然とした
文字の羅列を、投網を手繰るように、僕は目で追いかけていった。
最初に何となく目に留まっていたのは、一年前の夏の、八月三日の日付だ。
人の気配のない本堂の、腰高の障子戸を開けて、私は驚き慄いた。
「こ、これはっ…」
思わず声を漏らし、背後にいた竹野のほうに顔を向けた。
屋根全体の長い庇のせいで陽の入り込まない、薄暗い畳の間の中央に、本来こ
こにあるはずのない、白いシーツの布団が敷かれいたのだ。
「あっ…」
強い視線で、憤怒の言葉を続けようとした私の肩にいきなり手を伸ばし、突き
飛ばしてきたので、不意を突かれた私の身体はよろけ、敷かれていた布団の近く
で、膝を崩すように倒れた。
倒れ込んだ私の近くへ、つかつかと歩み寄ってきた竹野の口から、
「畏れ多く厳かなここで、仏様に見守ってもらいながら、あんたとしたいって
思ってな」
という信じられない言葉が出て、私は愕然とした。
「な、何を馬鹿なっ」
強く一喝する私を、まるで無視するかのように、竹野は腰を下ろしてきて、い
きなり頭の袖頭巾を引き剥がしてきて、休むことなく二本の手で法衣の両襟を掴
み取り力まかせに左右に拡げてきた。
瞬く間に私の剃髪された頭は晒され、法衣の襟ははしたなく乱れ、片方の肩の肌
が露わになっていた。
「い、いやっ…や、やめてっ」
背の丈は私よりも低い竹野だったが、男の分だけ力は強く、手足を激しく振りな
がら抗うだけの私は、数分もしないうちに、法衣も襦袢も両肩から剥ぐように脱が
されてしまっていた。
いつの間にか私は布団の上に、衣服をこれ以上ないくらいに乱されて転がされて
いた。
私の顔のすぐ真上に、額に汗を滲ませた竹野の赤ら顔が迫ってきていた。
荒く息を吐く竹野の味噌っ歯の間から、酒臭い息が私の顔に当たってきている。
ここへ来る少し前に、昼間から盗み酒をして顔を赤らめていた竹野を、私は強く
叱責していた。
このまるで不意打ちのような竹野の暴挙は、そのことへの逆恨みなのか、いきな
りの豹変だった。
竹野の酒臭い唇で、私の唇は苦もなく塞がれ、口の中一杯にもっと強い酒の臭い
と噎せ返るような口臭が充満してきた。
昨夜も遅くまで私の身体を恥ずかしく蹂躙し、屈服させている竹野の性欲は、今
のこの場にまで継続しているかのように、唇での貪るような愛撫は激しく執拗だっ
た。
そして私の淫乱な身体は、これまでと同じように、やがてまた竹野に屈服し、淫
猥な声を挙げて、はしたなく悶えていくのだ。
だが、淫猥で淫靡であっても、ゆかしく荘厳に鎮座する御仏の前での性交は、毎
日一度は経を唱え、御仏の教えを乞う、僧侶の身の私には死にも値する大それた愚
行だ。
断固たる拒絶の意思を貫かればならない、僧侶の端くれである私の聖地だった。
しかしそんな私の思考など意にも介さないように、酒を煽った状態の竹野は益々
獰猛になってきているようで、私の身体から衣服の全てを剥ぎ取り、全裸に剥いて
てきた。
剥き出しになった私の乳房を、竹野が荒々しくわし掴んできた時、瞬間的に身体の
どこかが疼いた気がして、私は咄嗟な狼狽えを覚え、心をどぎまぎさせた。
この兆候が、私の女の身体の黄信号だということは、これまでの恥ずかしい体験の
幾つかで、私自身が知り過ぎるほど知っているのだ。
身体と心の狼狽をおし隠して必死に抵抗してのだが、そのことを意識すればするだ
け、竹野の狡猾で荒々しい責めに屈していく自分があって、自身の拒絶の思いとは逆
の症候が出てきてしまっているのが悲しかった。
いつの間にか自分も法衣を脱ぎ去っている、竹野の背中に爪を強く立てていた。
「ああっ…こ、こんなところで…だ、だめっ」
まだ心のどこかに、かすかに残っている理性の欠片のようなものに縋り、頼りなげな
声で拒絶の思いを告げる私だったが、体内にはもう牝の欲情が蔓延し出しているのがわ
かっていた。
竹野の身体が私の下半身に移っていた。
両足を腕で高く持ち上げられ、竹野の顔が私の股間に深く埋まっているのを知る。
竹野の舌が私の股間の付け根でずるりと這う。
「ああっ…か、感じるっ…いいっ」
私の身体と心と理性の破壊の始まりだった。
「ひ、ひどい…人っ」
「ふん。いいながら、お前…感じてやがる」
「こ、こんなところで…わ、私」
竹野がつらぬいてきた瞬間、私は多分、十何秒かの間、意識を失くしていたよう
な気がしている。
ここが荘厳で神聖なお寺だという感覚が、意識のどこかに残っていて、そこでの
あらぬ行為の不浄さに、私は竹野につらぬかれながら、恥ずかしくも酔い痴れ、恍
惚の深い渦の中に堕ちたのだと思う。
盗み酒の酔いのせいもあったのか、それとも竹野自身も神聖な場所での不浄な行
為に、私と同じような歪んだ恍惚を感じていたのかも知れなかった。
これまで何度となく私を辱め、虐げてきた竹野自身の目も、異常にぎらついてい
るように、私にも見えたのだ。
そして私の身体を抑え込み、つらぬく力もいつもとは違うくらいに激しく強かっ
たような気がした。
私の乳房の右側が、左と較べて異様なくらいに、感度よく反応することを知って
いる竹野は、痛いほどの力でそこを集中的に責め立てながら、これまでにはないよ
うな獣的な呻き声を、間断なく吐き続けたのだった。
夏の日の昼下がり、屋根の長い庇のせいで、陽光も入らない薄暗い、しかも人間
の生死を優しく見守る御仏の前で、
「ああっ…す、好きっ」
と、ただはしたない喜悦の声を挙げて、竹野の背中にさらに強く、爪を立ててい
った…。
ここまでの、とても単なる日記とは思えない、長すぎる文章を読んで、元来、読
書は嫌いではない僕も、パソコンの画面から目を背け、大きなため息を三度吐いた。
これを書き綴った背の高い尼僧のあの人は、一体どういう人なのだろうか?
自然にそういう疑問が、僕の胸に湧いた。
嘘は書いてはいないのだろうが、単なる生々しい独白日記とも思えない、妙な読
後感が、十六歳というまだまだ人生の駆け出しの僕でも思った。
もしかして、これは誰かに読ませるためか、読んでもらうためのものではないの
か?
僕はもう一度パソコンの画面に目を戻し、その日より以前の日記を、画面スライド
を早めながら流し読んだ。
やはりあった。
竹野が尼僧に命じて、人には話すことのできない二人の秘密の行状を、克明に描写
して残せ、という命令が、去年の三月のある日の記述に、そのことが書かれていたの
だ。
そういえば思い当たることがあった。
以前に祖母のスマホの、竹野とのやり取りで、竹野は祖母にも少し逸れに似たよう
なことをさせていたのである。
少し解せない歪な感はあるが、竹野という人物は、どうやら文字を書いたり読んだ
りすることは、嫌いではないようだ。
だから竹野は、自分が奴隷のようにしている尼僧にも、祖母の時と同じような命令
を出し、それを後で自分で読むかどうかしていうのだろうと、僕は思うことにした。
その割に…祖母のメールで見た竹野の文章は、高校生の僕から見ても、稚拙で下品
なだけにしか見えなかったのだが。
そういうことなのか、と妙な納得をしながら、息を大きく吐いて、去年の八月三日
の尼僧の日記の続きを読むことにした。
八月三日の本堂はまだ終わってはいないのだ…。
続く
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