僕がこの村にやってきても、祖母は孫である僕に特段にべたべたするのでは
なく、自分はせっせと畑や椎茸栽培の小屋に出掛けたりして、さしたる干渉を
してこないのですが、これは毎年のことで、逆に適度な距離をおいてくれてい
る空気感がほどよくて、村のあちこちを勝手に散歩しようと、何もせずぼんや
りと室に一日室に籠っていようと、変に気遣って詮索してきたりもせずにいて
くれるのだ。
ここ二、三日でいうなら、寧ろ僕のほうが祖母をあれこれ詮索し、探索しま
くっているのが実情だ。
自分の心の中で何か殻のようなものが壊れ、何か違うものが生れ出ようとし
ている。
妙にもどかしく、変に少しばかり怖いような予感めいたものが、僕の頭の中
で蠢き出してきているのだ。
一人、室の中だだらだらとしていた僕は、冷蔵庫にミネラルウオーターがな
いのを知っていたので、駅前の雑貨屋目指して外に出た。
雲一つない青空に、真夏の太陽は容赦なく降り注いでいた。
山の斜面の細い道から少し広い県道に出ると、二、三十メートルほど前方に、
白い小さな日傘をさして、小さな歩幅で歩いている着物姿の女性が見えた。
人の通りのあまりない、うらさびれた村の景色にはそぐわないような雰囲気
が、距離のある所から見ても窺い知れるくらいの上品そうな後ろ姿に、僕は暫
く足を止めて見とれた。
女性にしては背が高い感じで、身体つきも細かった。
旅行か何かで都会から、この村をたまたま訪れて来てる人なのだろうと思い
ながら、僕はまた歩き出したのだが、その女性が例の雑貨店に入っていくのが
見えたので、僕は首を傾げながらその店に近づいて行った。
店の前に来て中を見ると、その女性が店主と妙に親しげな雰囲気で話し込ん
でいるのが見え、僕の訝りはさらに大きくなった。
女性のほうを見ると、頭に白い布を被り、夏の盛りだというのに着物の上に
薄い紫色の羽織のようなものを着込んでいたので、尼僧だというのがすぐに分
かった。
僕の頭の機転が素早く効いた。
もしかしてその尼僧の人は、あの高明寺の女住職では?
きっとそうに違いない、と僕は確信的に思いながら、五メートルほど前にい
る尼僧の人の顔を凝視した。
肌の色は僕の祖母と同じくらいに白い。
背はやはり普通の女性以上に高い。
背丈の割に顔のつくりは小さく、目鼻立ちがくっきりとしていて、つんと鼻
が上品な感じに高いのが目立っている。
化粧はほとんどしていない感じだが、嫌味に思えない気品が滲み出ている。
身長はおそらく百七十センチ前後で、年齢は若輩の僕の見立てでいうと、四
十代半ばから五十代前半くらいに見えた。
雑貨屋から少し離れた道の脇で、僕はおそらくポカンとした顔で立ち竦んで
いたのだと思うが、やがてそのしとやかという言葉がよく似合いそうな尼僧の
人が、雑貨屋の店主に丁寧にお辞儀して店を出ていくのに気づいた僕は、何故
か顏を隠すように立ち止まったまま俯いていた。
そして、これまでの引っ込み思案で内向的な性格の僕なら、先ず出来っこな
い行動に出ていた。
徐に雑貨店に入っていき、他に人がいないのを幸いに、店主の前に立つと、少
し緊張しながら声をかけた。
「あ、あの…今の尼僧さんって、あの高明寺のご住職さんですか?」
店主のほうも僕からのいきなりの問いかけに、少し驚いたような顔を舌が、僕
の顔を覚えていてくれていたらしく、すぐににこやかな表情になり、
「あ、あぁ、あの人かい?そうだよ、あの人が住職代行。何年か前に旦那と死
別してね」
「そうなんですか」
「あの人、俺の小学校、中学校の同級生でね。バレーボールやってて、俺らの
マドンナみたいな人だったんだよ。歳は当然俺と同じで五十五歳…あ、これは余
分か、ハハ」
陽気そうな店主は屈託のない、明るい声ではなしてくれた。
お礼の気持ちもあって、一本でいいミネラルウォーターのペットボトルを、単
純な僕は三本買って、妙に気持ちを明るくして帰路を小走りに急いだ。
帰宅して自分の室に引き込みながら、僕はまたつたない頭で漠然とした思考に
耽った。
何か自分の知らないところで、何かに向けて運命的な流れのようなものが、小
川の水の流れのように、ひたひたと音を立てて近づいてきている予感を、僕は感
じずにはいられなかった。
あの雑貨屋での、予期していなかった偶然にしても、目に見えない何かの力が
僕をどこかに誘っているような、そんな気持ちになるのだった。
祖母が夜に外出する日の、一日前の出来事だった…。
続く
※元投稿はこちら >>