「…千百何年かの源平合戦で平家が破れて、落人となった武士たち五十人
ほどが、東へ東へ逃げ延びて、奥多摩のこの地へ辿り着いた時には、僅か八
人ほどだったようです。それから何百年もこの地に住みつき、子孫を残して
一つの村にまでしたということで、後に苦労して辿り着いた、その八人を弔
うということで、この寺が建立されたとのことのようです。この古文書の中
にその方たちの名前も書いてあるそうですが、私も詳しくは知りませんので、
どうどゆっくりと調べるなり、見るなりしていってください」
背の高い尼僧は柔らかい物腰でそういって、静かな所作で庫裏を出ていった。
僕は丁寧に頭を下げて、目の前に並べて置かれた、古文書の束や巻物の何本
かに視線を落とした。
だが、親切に応対してくれた尼僧の人には、とても申し訳なかったのだが、
これを真剣に紐解く気持ちは、僕のほうには残念ながらなくて、薄暗い庫裏の
中央で、少し途方に暮れる思いでいた。
一昨日の午後、例の雑貨屋を訪ねたら、店主が僕を待ちかねていたように、
明るく声をかけてきた。
高明寺の女住職に僕の依頼を話したら、快く引き受けてくれたとのことで、今
こうして僕は寺の庫裏に座り込んでいるのだった。
しかし僕の本当の目論見は、ここに住む尼僧とお守り役の竹野との秘められた
淫猥な男女関係を知りたいという、はしたない願望から出たものであったので、
竹野が唐突にいなくなったこの時点では、完全な的外れになってしまっていたの
だ。
盆前のあの日、高明寺の女住職が、家の縁側でお守り役の竹野に抗いの動き一
つ見せず、衣服を剥がれ、跪き、竹野の股間のものを口で咥えた場面を、図らず
も僕が見てしまったからこその、今回の目論見だったのだ。
雑貨屋の店主への手前もあり、今更引くに引けない境地に陥ってしまった僕だ
ったが、どうにか形だけでもつけないとという思いで、仕方なく古びた古文書の
前に落胆の思いで鎮座しているのだった。
恰好だけはどうにかしてつけないと、という沈んだ気持ちで、取り敢えず古文
書の類は後のこととするとして、古びて由緒のありそうな古びた木彫りの、大き
さもそこそこある仏像が、恭しく鎮座している、本堂の写真でも撮ろうと思って
その場から立った。
だが…これこそ本当にだがである。
悲嘆と落胆の思いしかなかった僕に、高明寺の由緒ある木彫りの仏像は、奇跡
のような贈り物をしてくれたのである。
本堂の裏手に重い足取りで回った時、枯草やごみを燃やすためのドラム缶が最
初に目につき、続いてその横に、間もなく焼却するのであろうと思われるや段ボ
ールの束が見えた。
その段ボールの下に、五、六冊の大学ノートがきつく紐で括られて置いてある
のが視界の中に入ったのだ。
普段なら意識することなく見過ごして、その場を離れて当たり前のものだった
が、落胆と悲哀の思いでいた僕に、本堂にある仏像が、僕にしか見えない光を、
その大学ノートに浴びせたのだと、時間が経ってから思った。
急いた動作で僕はノートの紐を切った。
ページをめくると、女の人の書いた奇麗な字が横書きで、ページ一枚一枚を埋
め尽くすように書かれていた。
日記だと僕の直感がいった。
若い機転が素早く働き、僕はポケットからスマホを出す。
誰かがどこかから出てきそうな不安に駆られながら、僕はノートの一枚一枚を
根気よくスマホのカメラ機能の中に写し撮った。
ノート一冊で十分前後かかり、ノート四冊を写し終えて、僕は作業を止めた。
その場から慌てて離れ、小走りで尼僧の住む住家の玄関の前に立った。
尼僧はいて、僕は早口で、資料を詳しく見たいので、全部をカメラに撮らせても
らいましたと虚偽の報告をして、深く頭を下げお礼をいって、また急いた足取りで
寺の敷地を出た。
帰宅してすぐに、僕は室のパソコンの前に座り、編集作業に入った。
そして祖母が畑仕事から帰る夕刻までには、大学ノート四冊分のデータ入力と編
集が出来た。
夜にはじっくり読めると思いながら、夕食の箸を進めていた時、唐突に祖母のス
マホが鳴った。
スマホの画面に目をやった祖母が、妙に慌てたように席を立って、履物を履いて
玄関の外に出ていった。
僕に聞かせたくない電話?
もしかして、あの竹野?
そして長い間、祖母は玄関を入ってこなかった…。
続く
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