紀子との福島行きが、十日ほど先送りになった。
別に僕と紀子の間に、何か問題が生じたというのではない。
地元でもう何年も、災害復興の役員をしているお祖父ちゃんに、宮城の気仙沼市から、急
な講演の依頼が入ったとかで、紀子の家族の福島行きが十日ほど延期になったということの
ようだ。
紀子は旅行日程の変更で大わらわのようで、以前の電話での口喧嘩のこともあってか、学
校の廊下ですれ違っても、これまでなら白い歯を見せて笑ってきたり、小さく手を上げて振
ってきてたのに、知らぬ顔の無視で通り過ぎて行ったりしてた。
それならそれでと、こちらが意地を張りかけた時、スマホが鳴り、見ると紀子からだった。
「旅行日程で来たからね。明日の帰宅部さんは、また早く帰るの?」
電話に出ると、挨拶もなしにこれだった。
「おう、俺に会いたいのか?」
と返してやると、また二言三言の文句が返ってきて、結果は僕がスタバでまたコーヒーを
奢る羽目になった。
そしてその日の夜、今度は国語教師から思わぬ電話が入った。
よほどのことがない限り、僕には電話してこない俶子だったので、自分の室にいた僕は少
し訝りの表情で出ると、内容はよほどに近い報告だった。
「あなた、この前、私が話した野中由美さんの件で、何かしたでしょ?」
怒っているのかいないのか、よくわからない声質で、彼女は続けていった。
「あの、由美さん家族にいやらしく纏わりついてた、暴力団の親玉ってのが、突然、彼女
の家に来てね。これまでのことは申し訳なかったと、何の前触れもなく謝りに来たんだって。
それで逆に怖くなって、恐る恐る問い返すと、うちの組織のトップから強烈なお叱りを受け
て、散々な目に遭ったから、あんたらとどういうご縁か知らないけど、そのお方にくれぐれ
もよろしくいっといてくれって、訳のわからないこといって、退散していったらしいの。由
美の家族は誰にも話せることじゃないから、心当たりがないので、私に問い合わせてきたの
よ」
「俺何にもしてない…あっ」
僕はすぐに思いついたのだが、俶子に話せる内容ではなかったので、
「あんな組織は自分たちが都合悪くなると、手を引くのが早いからね。ずる賢い奴らだか
ら、勝手に手を引いたんだろ。でもよかったじゃないか」
とぼかして応えておいた。
きっと、あの吉野氏の墓の建立式の時、何の気なしに僕が黒木とかいう若者頭に話したこ
とを、ああいった組織なりの手法でカタをつけてくれたに違いなかった。
「あの、私ね。もしかしたらってことで、あなたのこと、由美に話したらね、一度ぜひ会
わせて欲しいっていわれたの」
「こっちは何もしてないんだから」
「お願い、一度だけでいいから会ってあげて」
「俺がかなり正義の味方になってるようだな。いいよ、俶子の頼みだ」
「雄一さん、大好き!」
俶子からの電話を切ったら、急に祖母の顔を思い出したので、スマホのボタンを押してみ
た。
九時前のこの時刻でも、祖母はワンコールで出た。
「婆ちゃん、この前は疲れたろ?」
「ううん、雄ちゃんがいたからそれほどでも」
「俶…あの先生もいってたけど、婆ちゃんの肌の滑らかさって、信じられないって」
「でも、歳は間違いなく繰ってるから、その内、雄ちゃんにも飽きられてしまう…」
「歳は関係ないよ。女の人は生まれた時から死ぬまで、間違いなく女だって、誰かがいっ
てたし、僕もそう思ってるよ」
「十六のあなたに、六十を過ぎた私がいうことじゃないけど、色々と愚かで恥ずかしいこ
と、私、一杯してきてるけど、身贔屓じゃなく、雄ちゃんに抱かれてるのが一番好きよ」
「それは僕も絶対一緒だ。寒くなるから風邪ひかないようにね」
長く話していると、スマホのスピーカーから、祖母の身体のあの豊潤な匂いが漏れてきて、
収拾がつかなくなりそうになってきたので、僕のほうからやんわりと電話を切った。
祖母の室の箪笥からショーツをこっそりと拝借して、自分で自分を奮起させていた、十六
の少年らしい欲望処理をしていた頃が、眠りにつく寸前にふいに浮かんだが、あれからまだ
三ヶ月も経っていないことに、自分ながら短い隔世の感を抱きながら僕は目を閉じた。
明日は、紀子の叔母さんの声でも聞いてみるかという、邪な心が夢の中のどこかで現れ出
たような気がした…。
続く
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