今や僕の公衆電話ボックスみたいになっている、区立図書館横の芝生広場のいつもの場
所に座り込んで、僕は祖母の番号を出しオンボタンを押した。
やはりワンコールで祖母は出た。
「雄ちゃん…」
この一言をいって、祖母はいつも声を詰まらせる。
「婆ちゃん、昨日電話くれてたみたいだけど、ごめんね。中間試験で忙しくて」
こういう嘘が考えてなくても出てくる自分に、少し呆れ返りながら、
「で、何だった?」
と問い返すと、
「えっ、う、うん。あのね、あの吉野さんのお付きの方で、古村さんって人いたでしょ?」
「ああ、吉野さんの秘書みたいなことしてた」
「そう、その人から一昨日、電話があってね。吉野さんのお墓ができたんですって」
「そうなの」
「それで、私にも、お墓の建立式に出てくれっていわれたの。お墓はあの稲川さんって方が
骨折ってくれて作られたらしいわ」
「お墓の建立式って、僕はどんなのだか知らないけど、吉野さんなら満更知らない人でもな
いから、僕も一緒に行こうかな?」
「私もそのほうが、何か心強い気がするんだけど、でも、あなた学校あるしね。あ、それと
もう一つ大事なお話があるの」
「話って?」
「吉野さんがね、生前にお世話になってた弁護士の先生がいらっしゃって、その方が私にお
話があるっていうの。何か遺産相続がどうとか難しいこといってた。そうそう、このことであ
なたに連絡したんだった。耄碌してしまってだめね。で、あなたまだ若過ぎるけど、横にいて
くれるだけで私は安心すると思うから…」
「わかった、絶対に行く」
吉野氏と祖母の間には、非公式には色々あったということは、僕も薄々は知っているが、そ
れは表に出せることではない。
それを弁護士から名指しで、話をしたいというのは、吉野氏の遺産相続で、遺言書か何かに
祖母の名前が出ているのではと、十六の僕でもそこまではどうにか想像できることだった。
建立式は今月の末日で平日だった。
休むのは容易いことだ。
「雄ちゃん、それともう一つ、あなたに聞いておきたいことがあるの」
祖母が改まったような口調に変えて、僕に尋ねてきた。
普段の勉強では働かない勘が、こういうことになると、不思議なくらい僕の勘は冴え、よく
当たるのだ。
いつだったか日は忘れたが、国語教師の沢村俶子と、奥多摩の高明寺の尼僧の綾子を訪ね、
祖母に会わないまま帰ったことだと、僕はすぐに察し、答えはその通りだった。
「あ、あれは、夏休みの宿題レポートで、高明寺に伝わる平家落人の件で、学校の教師同行
で来たものだから、婆ちゃんちには寄れなかったんだよ」
と半分近くは正直に話し、同行の教師は女教師とは敢えていわなかった。
「あの日、夕方に雑貨屋さんに買い物行ったら、いきなりあなたが来てたと聞かされたもの
だから、私、驚いてしまって。学校の先生が一緒なら仕方がないわね」
ほんの少しばかり気になる、祖母の応え方だったが、その難局はどうにか超えることができ
た。
かくして月末の三十一日になった。
学校を休むことの両親への説明は、国語教師の沢村俶子依頼して、自宅の母親にわざわざ電
話をしてもらったのだ。
件の平家落人伝説の再調査で、一泊二日の予定で奥多摩へ、教師の自分も同行して行くので
と、俶子は説明してくれた。
祖母に前日に電話すると、若い娘のようにはしゃいだ声で喜んでくれた。
雑貨屋のある駅に九時に着く列車があって、それに乗ってきた僕はすぐに祖母の家に向かった。
吉野氏の墓の建立式の時に、喪服に着替えるので、その荷物を取りに来て欲しいとの、前日か
らの祖母の要請だった。
因みに僕のほうも、建立式に出るというので、学校の制服のブレザー姿だった。
建立式が行われる、隣り村へ行く列車は一時間後だった。
玄関を入ると、喪服の入ったバッグが上り口に置かれていて、濃紺のシンプルな感じのツーピ
ース姿の祖母が、化粧と身体から発酵する爽やかな花粉のような匂いをさせて、かたちのいい唇
に零れそうな笑みを浮かべて立っていた。
「こ、こら」
と祖母が声を出した時には、僕はもう祖母の小柄な身体に抱きついていた。
祖母からの匂いが、僕のはしたなく愚かな神経に火を点けていった。
祖母の赤い唇を、僕は慌てた素振りで塞ぎにいった。
僕の舌先が祖母の歯に触れると、歯はすぐに開き、僕の舌の侵入を許した。
互いに何かを求め合うように、口の中で舌と舌をまさぐり合い貪り合った。
僕のほうの理性の箍は半分近く外れていたが、祖母の理性は理性のままで、あるところでやん
わりと僕の身体を離れていた。
僕が大きな荷物を持って、二人で駅までの坂道を下りると、雑貨屋のお喋り叔父さんと目が合
った。
「やあ、兄ちゃん、今日はまた、婆ちゃんと一緒で何だい?」
叔父さんが屈託のない声でいってきて、横にいた祖母がそれを引き取るように、隣村の知り合
いのお葬式があってと、軽くいなすように応えていた。
隣村の駅に降りると、正面のロータリーの端大きな車が止まっていて、運転席からスーツ姿の
男が降りて、こちらのほうに近づいてきた。
記憶のある顔で、古村氏だとすぐにわかった。
挨拶もそこそこで、僕らは古村氏の運転する車で、吉野氏が生前に住んでいた家の前に辿り着
いた。
黒のスーツ姿の頑強そうな男二人が、出迎えに出てきて、トランクから荷物を取り出している
と、家の玄関から、これもはっきりと記憶のある男が、穏やかな薄笑みを浮かべながら出てきた。
吉野氏の永遠の友といわれる稲川某氏だ。
浅黒く日焼けした顔は精悍そのものだったが、祖母に向けた目の温和さと口元の笑みは、この
人が関東一円の、いや、全国的に名を派すやくざ社会の頂点に立つ人とは、とても思えない温か
みのようなものが漂っていた。
「おう、吉野のお気に入りの少年さんも来てくれたのかい。これはあいつもきっと喜ぶ」
そういって、稲川氏は僕の両手をしっかりと握り締めてきた。
祖母への対応も真摯で丁重だった。
後一時間ほどしたらお坊さんが来るので、建立の式はそこからの始まりということだったので、
祖母は早々に家の中へ、着替えのために入っていった。
家の中のどこに入ったらいいのかわからなかった僕が、玄関付近で所在なげにうろついていた
ら、確か前にもここで一度会っている黒服の、三十代半ばの引き締まった体型の男が近づいてき
たので、僕は素直に頭を下げて挨拶をした。
「名前しか知らないんだが、確か雄一さんとか?…会うの二度目だね?黒木です、よろしく」
学校の制服姿の僕に、真っ白な歯を見せて、はきはきとした声で黒木氏は挨拶を返してくれた。
「なるほど、会長もいってたが、雄一さん、ほんとにいい目してるな。そういう目をした人間
って、そうそうはいないんだよ」
そう自分の目ばかり褒められても、当の本人は、自分の目のどこがどういう風にいいのか、ま
るでわからないでいるのだから世話はなかった。
もしかしたら任侠の世界でなら、威力を発揮する眼光なのかな、と馬鹿げた発想をして、一人
でにやついていたら、玄関の中のほうから、祖母の呼ぶ声が聞こえてきた。
玄関の上り口で僕を手招きしている、祖母の喪服姿を見て、その艶やかさというのか、妖艶さ
に気圧されたように、口をポカンと開けたまま、僕はその場に立ち竦んでしまっていた。
「何て顔してるの、あなたは。早く上がってらっしゃい」
祖母の槌咤の声で我に返った僕は、上り口で躓きながら中へ入り、金魚の糞のように祖母の後
をついていった。
吉野氏の墓は、吉野氏本人の希望で、この敷地内に建つとのことだった。
そういえば敷地の入り口近くに、白いシーツか幕に包まれた何かが建っていたようなのを、僕
も思い出した
建立式は厳かに、そしてしめやかに行われた。
出席者は総勢で八人だった。
僧侶と祖母と僕と古村氏と稲川氏の五人が、建立式の関係者といえばそうで、後は稲川氏の配
下の人たちで、質素な雰囲気の中で行われた。
吉野氏のほうの身内関係者が、誰一人いないというのが、やはり式の雰囲気をを寂しくしている
感じだった。
その中で、祖母の艶やかな喪服姿だけが際立って見えた。
家の中の広間で、八人での細やかな食事会が開かれ、僕はたまたま玄関で挨拶を受けた、黒木氏
の隣に座ったので、その人との会話で時間を持たせることができた。
黒木氏は会長の稲川氏が君臨する組織の、ナンバーツーに相当する若者頭という立場の人のよう
だった。
僕はしかし臆することなく、暴力団の凶暴さや卑劣さを、冷静な気持ちで正直に黒木氏の前で否
定し嫌悪していることを話した。
黒木氏はそんな僕に怒ってくるでもなく、黙って聞いているだけだったが、暴力団の卑劣な面の
一例として、最近見聞きしたことをいった時、
「それはどこのどなたのことを仰ってるのか?」
と目を少し強張らせて問い返してきたので、都内の近郊都市で春日という男が親玉の組織で、そ
の者たちが一般市民の普通の家庭生活を、無慈悲に痛め懲らしめているという、あの国語教室の俶
子の友人の話を、知っている範囲で、僕は話して聞かせた。
その暴力団組織の組長の名前が春日ということと、被害者の名前だけを繰り返して聞いて、その
話はそれで終わった。
食事会が終わった頃、一人の来客があった。
弁護士の玉井という六十年配の、頭の大きく禿げ上がった人で、故吉野氏の遺産相続の件で来た
と来意を告げた。
別室のソファのある洋間で、稲川氏、古村氏、祖母、僕の四人が、弁護士を囲むようにして座った。
祖母と僕にはまるでわからない話が最初に四十分ほど続いた後、弁護士の玉井という人が、喪服姿
のままの祖母のほうに顔を向けてきた。
祖母の艶やかな喪服姿に、少し驚いたような目をしていたが、すぐに表情を戻して、
「えー、私が故人の吉野氏から生前に託されていました、遺言書の相続・譲渡の項の中に、上野昭
子さんのお名前が一カ所に明記されていましたので、この場にご参集願った次第です」
と如何にも弁護士然とした慇懃無礼な口調で、言葉を発してきた。
祖母は色白の顔を薄赤く染めて、小柄で華奢な身体をさらに小さく窄めるようにして、不安げな表
情で聞き入っていた。
その後の話を要約すると、故吉野氏の所有資産のすべては、法的な血縁相続者がいないということ
で、すべて国庫に納入され、故吉野氏が個人で所有する、精密機械製造に関する特許権について、こ
れを僕の祖母である、上野昭子に譲渡するということのようだった。
六十を超えている祖母や、まだ十六の僕には、弁護士が滔々と喋り続ける、内容の半分もわからな
いでいたのだが、僕の横に座っていた古村氏が、祖母と僕に向けて平易な言葉でわかりやすく説明し
てくれた。
要するに祖母が受け取る権利は、精密機械に関する特許使用料が、毎月平均で五十万から六十万に
なり、それが祖母が死亡するまで届けられるとのことだったが、ようやく話が呑み込めてきた祖母は、
大きく震えるように顔を振り、両手を前に差し出し横に振りながら、拒否の仕草を露わにした。
祖母と故吉野氏の微妙な関係は、ここにいる弁護士以外の人たちは、全員が知っていることなのだ
が、ここで任侠組織の会長の稲川氏が手を上げて、
「昭子さん、いや、失礼、吉野がいつもそう呼んでいたものでつい。上野さんの仰る、受け取る理
由がないというのは、それは違うと思いますよ。彼が死ぬ一、二ヶ月ほど前に、一番多く口にしてい
たのが、あなたのお名前です。それは私が断言する。」
そういって稲川氏が、目を古村氏のほうに向けると、古村氏も身体全体を動かせて賛同の意を見せ
ていた。
「昭子さん、お金がどうこうじゃなくて、無念にも世を去ったあいつの、吉野の気持ちをどうか汲
んでやってください。今際の際の時、あいつの頭の中には、昭子さん、あなたしか思い浮かんでいな
かったんです。せめてものあいつの気持ちを、どうか受け取ってやってください」
稲川氏の真に迫ったその言葉で、祖母は僕に微かに目を向けながら、了承の意を見せた。
後の書面的な手続きは、そこにいた弁護士に一切を任すということで、故吉野氏の墓石建立と追悼
のセレモニーはつつがなく済んだ。
稲川氏が祖母と僕を、自宅まで車で送るというのを固辞して、着替えを終えた祖母と僕が帰りの列
車に乗ったのは、夕方の四時過ぎだった。
車中で、
「雄ちゃん、変なお付き合いさせてしまってごめんね」
と少女のようにしおらしく謝ってくる祖母に、
「とてもいい社会勉強させてもらったよ」
明るく笑って、もう今夜の祖母との二人だけの夜のことを考えていた。
雑貨屋の前の駅に降りたのは、祖母と僕の二人だけだった。
駅舎の前の道の端に、薄い茶色のワンピースと、濃い茶色のハーフコートを着た女性が、薄暮の中
に立っていた。
顔を見て、僕は忽ち驚愕の眼差しになっていた…。
続く
、そ
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