「この子ね、見た目や写真映りは派手に見えるんだけど、性格はどちらかというと地味な
ほうで、講義終わるといつも図書館に行ってたわ。カレシとか恋人なんていなかったんじゃ
なかったかな。とにかく本好きで、死ぬまでに一冊は自分が書いた本を出したいっていって
たのに…こんなこと書く羽目になるなんて…」
俶子は悲しそうにそういって、テーブルにあったノートパソコンを僕の前に置いてきた。
郊外の最寄駅から、コンクリートの高い塀と頑丈そうな作りの門のある、大きな邸宅まで、
歩いて二十分ほどで、今日で五回目になるのだが、慣れるという気持ちにはまるでなれない
でいる。
(七時)
たったこの二文字だけのショートメールで、私は高い塀と頑丈な門の家の所有者である、
暴力団組長の春日という男に会うために、うち萎れた気持ちで、駅を降りてから緩やかな坂
になっている道を歩いていた。
母と夫には、今夜の帰宅は遅くなると連絡済みだったが、母には友人との食事会と自自用
をいって、夫のほうへは、遅くなります、の六文字だけの連絡だった。
私が初めて春日という暴力団組長と、何人かの身なりや目つきの悪い男たちの住む、今は
もう悪魔の館としか私には見えない、邸宅に来たのは、二ヶ月ほど前のことで、その時は夫
の茂夫と一緒だった。
夫が勤務する市役所で、卑劣な一市民の狡猾な姦計の罠に嵌り、職まで失いかねない事態
に陥り、そのことを何も知らずにいた私は、夫の口から、聞かされ、ただただ途方に暮れる
しかなかった。
私と母親の前で、細い身体をひたすらにしょげ返らせて、土下座するだけだった夫が、そ
の翌日に、自分を罠に嵌めた人物を戒め窘められる人を、ある人に紹介してもらえたという
話を持ってきて、それで急遽、夫婦二人で訪ねたのが、春日という男の住む、異様な雰囲気
の漂うこの邸宅だった。
長い廊下を通って、夫婦二人は八畳間に座らされた。
その二人を囲むように、三人の眼光の鋭い男たちが、室内を餌に飢えた野良犬のようにう
ろついていた。
異様な空気を知った私が、夫に帰りましょといおうとした時、一人の男がいきなり私の腕
を強い力で掴み取ってきて、その室から私だけを引き摺りだした。
ほとんど抵抗もできないまま、私は別の八畳間に引き入れられた。
室の中央に布団が敷かれていた。
私をそこへ連れ込んだ男が室を出ていき、入れ替わりに濃い色のサングラスをした、すら
りと引き締まった体型をした男が、入れ替わるように入ってきた。
男は薄青い七分袖のシャツにステテコ姿で、布団の上に投げ出されて座っている私の周囲
を、動物の調教師のような仕草で歩き廻っていたかと思うと、いきなり襲いかかってきた。
男のサングラスの下の薄い唇に見えた、冷徹そうな笑みを目にした時、私は自分の身にと
てつもない危険が迫っていることを、本能的に感じていた。
男の人に女として襲われるという体験は、勿論、初めてのことで、普通の環境で普通に育
ってきた私には、想像すらもできない事態だった。
私に襲いかかりながらも、男には血に飢えた狼のような素振りはなく、落ち着いた手捌き
で、私のコートを脱がし、ワンピースの背中のファスナーを引き下げてきていた。
無論、男の責め立てを、私は黙って甘受してはいなかった。
身体全身で男を跳ね除けようと、歯を食いしばって抗った。
男の手で強く掴み取られた片腕が、どう抗っても払い除けられなかった。
男は口元に気味の悪い薄笑みを浮かべたまま、無言を通していた。
ファスナーを下ろされたワンピースは、私の両肩から落ちて布団の横で包まっていた。
手慣れたような動きで、男は私のブラジャーのホックを外し取ってきて、零れ出た乳房の
片方を、いきなり掴み取ってきて、驚いて上げた顔に、自分の顔を近づけてきて、何の前触
れもなく塞ぎ込んできた。
私の驚愕と恐怖は極点に達し、目を大きく見開き、叫び声か呻き声を喉の奥から出したよ
うな覚えはあるのだったが、唇を塞がれ、慌てふためいていた歯をこじ開けられ、男の舌の
侵入を許し、口の中にアルコールの強い匂いを感じたところ辺りで、私はそのまま不覚にも
意識を失くしたようだった。
長い時間だったのか短い時間だったのか、すぐにわからなかったのだが、私が意識を戻し
た時は、まだ名前も素性も知らない男のものを、無体におし開かれた両足の付け根の、裂け
た肉襞の中深くまで刺しつらぬかれていた。
どこでどうなって、こんな屈辱の事態に陥ってしまったのか、男につらぬかれている私
自身もよくわかっていない中で、自分の全身に、まるで予期も予測もしていない官能の疼き
のような、妖しげな感覚が湧き出てきていることを、私は気づかされていた。
まだ茫漠感の残る私の頭の中に、恥辱的な狼狽と戸惑いの思いが浮かび出ていた。
それは私の気持ちだけでなく、身体のほうにもすでに伝播してきているようで、まだ見ず
知らずのままの男に犯されてているという、この屈辱の状況下で、起こりうるはずのない快
感が湧き出てきていることに、私は改めて狼狽えと動揺を大きくしていた。
色の濃いサングラスをしたままの男が、衣服のすべてを剥ぎ取られ、布団に仰向けにされ
ている私の身体の真上にいた。
「ふふ、俺の目に狂いはなかったようだな」
男の薄い唇から初めて声が漏れ聞こえてきたが、その時の私にはその言葉の意味がよくわ
からなかった。
それよりも私の狼狽が止まらなかったのは、気持ちでは嫌悪し憎悪しているはずの、男の
単調に見えるつらぬきに、私自身の意思とはまるで違う反応を露呈し始めていることだった。
意思とは違う反応を見せる身体を抑制させようとして、内心で気持ちを慌てさせるのだが、
全身のどこかに灯った官能の炎は消えることはなく、男の身体が淫猥に動くたびに、益々、
逆のところの深みに堕ちていくような、女として生まれて初めて感じる喜悦だった。
初めて会う男に襲われて、凌辱されている現実が、私の身体と心からあえなく消え去ろう
としていたのだ。
「気持ちいいのか?」
サングラスをした精悍な顔つきとは、少し不釣り合いな感じのトーンの高い声で、男が聞
いてきた時、私は声は出さず首だけを何度も頷かせていた。
本当に気持ちがよかった。
愛する夫との夫婦生活では、一度も感じたことのない、それは喜悦だった。
女としての自分に、こういう感覚があったのかという、驚きの思いもあった。
浅黒い肌をした男の鋼のように固い腕を、私の両手がしがみつくように掴み取っていた。
ふいに別室で目つきの鋭い男たちに囲まれて、妻の私を案じながら恐怖の底にいる夫の蒼
白な顔が目の奥に浮かんだ。
が、それもわずかな時間で私の頭からかき消えた。
男の腰の動きが急に早まり出してきたのだ。
これまで知ることのなかった、止めようのない、熱い情欲のようなものが、私のすでに汗
の噴き出た全身に襲いかかってきていた。
「ああっ…!」
喉の奥から絞り出すように出た、私の喘ぎと悶えの声は、なおも続く男の腰の律動に呼応
して、それから絶え間なく出続けた。
時間にしてどれくらいかわからなかったが、私はほとんど抵抗らしい抵抗もしないまま、
観念と陥落の深い沼に堕ちていた。
「も、もう…こ、これ以上は…し、死んじゃう!」
間断なく襲い来る絶頂への誘いに、堪え切れなくなり、その声を恥じらいも何もなく私が
喉奥から絞り出すようにして、咆哮の声を挙げた時、男のほうからも短く呻くような声が聞
こえたような気がした。
「い、いい声だぜ、お前」
そういって、男は私の胎内のさらに奥深い部分にまで、衝撃を届かそうとするかのように、
強く激しく突き立ててきて、私の悶絶の声に合わせて、もう一度声を呻かせた。
意識を失くしてはいなかったが、男が目的を達し、私の身体から離れた後も、私は布団に
仰向けになったまま、暫く身動きできなかった。
口と鼻だけでなく、肩まで喘がせていた私の顔の傍に、男が近づいてきて、
「あのデパートで、あんたが母親と買い物してるのを初めて見た時、俺は久し振りにとき
めいたよ。身体に電気が走るっていうのかな。そういう女って、そうはめったにいない。俺
は欲しいものは何でも手に入れたい性分でな」
サングラスをしたままの顔で、遠くを見るような表情でいって、
「今日はこれで帰してやる。お前は自分では気づいてないだろうが、女としてダイヤモン
ドの原石みたいなものだ。俺が今から、時間をかけて磨いてやる。あ、旦那の不始末の件は、
俺からあの自治会長に話して、ケリつけてやるから…あんた次第でな」
と自分のいいたいことだけをいって、そのまま室を出て行った。
うちひしがれた気持ちで身繕いを直して、恐る恐るの気持ちで夫のいる室に戻ると、最初
に夫とこの室に通された時と、奇妙に違う妖しげな空気感が漂っているような雰囲気が室内
にあった。
元々気質の強いほうではなかった夫の茂夫が、これ以上ないくらいに、萎れきった表情で
畳に正座していて、三十代くらいの精悍な顔つきをした男が、萎れ窄んだ夫の肩に、まるで
友人同士のように腕を廻して座り込んでいた。
室には二人以外の人間はいなかった。
泣きそうな顔で私を見上げてきた夫は、口元だけを動かせて声にならない声で、短く私の
名前を呼んできた。
男たちからひどい暴力でも受けていたのか、と私は案じて、夫の顔を覗き見たが、どこに
も殴られたような痕跡はなく、胸を小さく撫で下したのだが、心のどこかに何か妙な引っ掛
かりは残ったままだった。
「おつとめご苦労さんです。いや、いい声聞かせてもらいました。どうぞお帰りください」
夫の横に座っていた男が、手を玄関のほうに向けて差し出しながら、慇懃無礼な声でいっ
てきた。
夫婦二人の帰りの車の中の雰囲気は、当然にお互いが鉛を背負い込んだように暗くて重か
った。
「私、男に犯されたわ」
助手席で、フロントガラスの暗い景色に目を向けながら、私が口火を切るようにいうと、
「も、申し訳ない…ぼ・僕のために…」
夫はハンドルを握り締めながら、頭を何度も下げていた。
しかし、夫婦の間の会話はそれ以上続くことはなく、重い沈黙を抱えたまま、黙々と母親
が案じて待つ自宅への道をひた走った。
男に犯されたことは、私は夫に明言した。
しかし、犯されている時の、自分の気持ちのありようについては、私は何も正直には話し
てはいなかった。
自分が男に襲われ、短い時間の間に、夫にも見せたことのない、女としてはしたなく乱れ
悶えて、憎いはずの男にしがみついていってしまった。
その事実を夫に告白し、隠さずに吐露できるほどに、私は強くも賢くもなかった。
そしてこの時の夫のほうにあった、屈辱の心情についても、私に斟酌する度量はなかった
のだった。
自宅の駐車場に着くまでに、私は衣服の乱れをもう一度見直し、化粧も普段のように直し
終えていた。
居間で母の心配げな表情を見た時、私は思わず泣きそうになったが、必死に堪え、今夜、
訪ねた人のお陰で、事は何とか表沙汰にならず済みそうだと、苦しく悲しい嘘をついて、床
についた。
夫のほうは帰宅してからも、母と私に終始頭を下げ項垂れさせるだけで、言葉はほとんど
発さなかった。
私が先に入っていたベッドに、おずおずとした仕草で横に身を横たえてきた夫は、一言詫
びの言葉をいっただけで、すぐに私に背中を向けていった。
高い塀のある邸宅の住人である春日という男が、この街に闇に巣食う暴力団の組長である
ということを、あくる日に私は知ったが、時すでに遅しの悔恨が胸に残っただけだった。
それから三日後の日曜日、私は二度目の呼び出しを受けた。
昨日の午後、執務中の時のことで、未登録の番号がスマホに出たので、不吉な予感がした
私は席を離れて応対すると、聞き覚えのあるトーンの高い声だった。
どうして私の番号を?と訝ったが、夫からの情報漏れだとすぐに察した。
明日来い、という一方的な男の声に、当然、私は拒絶したが、すぐにそれは徒労の声に変
わった。
トランプカードのジョーカーは、つまり、三日前のあの日以来、私たち夫婦の命運は、春
日という暴力団組長の男の手に、最早委ねられてしまっているのだった。
承諾の意向を止む無い気持ちで、相手に伝えて自分の席に戻った時、横にいた同僚の女子
職員から、
「顔色悪いけど、何かあったの?」
と私は気遣いの言葉をかけられ、また少し狼狽していた。
三日後、母親にはまた嘘の口実を、そして夫には六文字のメールを送信して、私は自宅と
は違う方向に行く電車に乗った。
顔はまた蒼白になっていて、気持ちも暗く沈み切っているのには違zいいはなかったが、私の
身体と心の奥底のどこかに、妖しい官能の炎のようなものが点り出しているような気がして、
電車の吊革に手を伸ばしながら、少し濃いめに塗った口紅に、小指の爪の先を添えた…。
「疲れるな…」
文字を読むのは嫌いではない僕だったが、俶子の友人という野中由美の、少し独りよがり気味
の独白文を読んでいて、あの長文日記を書いていた尼僧の綾子を、僕は思い出していた。
文章が長すぎてなのか、独り言ちの傾向が強過ぎてなのか、急に読みたくなくなる時があり、
今も僕はそんな気持ちになりかけていた。
「またベッドに行く?」
「バカ」
僕に何杯目かのコーヒーを注ぎながら、教師らしくないことを平気でいって、俶子は僕に誘い
をかけてきていた。
「でも、何か由美が大変な目に遭ってるというのはわかるんだけど、しがなくか弱い女教師の
私に相談されても、やくざが相手ではねぇ」
「大人の教師が匙投げてるのに、十六の俺に何ができるってんだよ」
「内容がエッチそうだったから、あなたに見せてあげたかっただけ」
「エッチはお前ひとりで沢山だよ」
「嘘、綾子さんもいる。他にもいるでしょ?」
「十六のガキに、そんなにいるもんか」
「あなたはね、自分が気づいていないだけで、誰にもない特殊なオーラを持ってるのよ。私も
その犠牲者の一人」
「この由美さんって人に、一度会ってみたいね」
「ほら、また出たオーラ」
「由美さんのお母さんとセットでどうだ?」
「やくざがいるのよ」
「それがネックだ」
男女のこういうことは、実際にするのが一番だというのは、この夏休み以降から最近の僕は身
を以ってわかっているし、わからされている。
しかしこの経験が、これからの自分の人生で、何lの役に立つのかというのは、僕自身にはさっ
ぱりわかっていないと思っていたら、テーブルに置いていた僕のスマホが震えて鳴った。
画面に目をやると、ここで出るのは少しまずいといえる、口煩い小娘からだった…。
続く
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