会社のゴルフコンペに出かけていた父親が、喜色満面の笑顔で家に帰ってきたのは、日
曜日の夕刻だった。
三十五人くらいの大会で、優勝してきたというのである。
二十五年のゴルフキャリアで、初めての快挙だと自画自賛しながら、
「優勝トロフィーは後日に、名前を刻んで貰うんだけどな、副賞が何と、日光の鬼怒川
温泉のペアの一泊旅行なんだよ。な、母さんどうする?」
リビングで珍しく親子三人がいる時の会話だった。
父親ほども興奮していない母親が、
「で、日は決まってるの?」
と冷静な声で父親に聞くと、
「日はこちらの都合のいい日を選べるってことだ」
「日光って、私、この前、社内旅行で行ったばかりよ。」
「ああ、そうだったな」
「あなた、会社のどなたか誘って行ったら?」
「せっかくの褒美だから、もっと何か有意義になぁ。…そうだ、奥多摩のお婆ちゃんにプレ
ゼントしたらどうだ?」
「ペアなんでしょ?誰がお供するの?」
「お前、親孝行で一緒に行ったらいいじゃないか?」
「親孝行しなければいけないほど、私は親不孝はしていません」
そこで両親の目が合って、テレビを観るともなしに観ていた、僕のほうに同時に向けられた。
話はそこで確定した。
「僕だって色々都合あるから」
内心の喜びを隠して、僕はあまり気乗りしない表情をしたのだが、両親はもう決まったも同
然の顔で、
「早くお婆ちゃんに知らせてあげて。日程は二人で決めればいいから」
母親のその言葉で、ゴルフの副賞問題は解決になった。
自分の室に戻り、祖母に電話を入れると、またワンコールで祖母は出た。
祖母と孫のペア旅行に至った経緯を説明し終わると、
「ほんとにほんとなの?」
とまだ半信半疑のように、祖母は問い返してきた。
この前、国語教師の俶子と尼僧の綾子の家を訪ねた日から、五日が過ぎていた。
祖母はともかく、僕は学校があるので土、日でしか決められなかったので、来週と再来週の
土、日ということで決めて、あくる朝、その旨を父親に伝えた。
この前のこともあり、僕としては一日でも早いほうがいいと思っていたら、何と今週末にホ
テルの空室があるとのことだったので、急遽、そのことを祖母に伝えたら、僕と思いは同じで、
「早く雄ちゃんの顔見たいから、それでいい」
とのことだったので、後四日ほどしかないがそれに決めた。
水曜日の朝、学校の玄関で紀子とばったり出くわした。
出くわしたというより、紀子のほうが僕を待っていたようだった。
彼女も高校総体が近づいていて、部活に精を出しているお陰で、あまり接触がなかったのだ
が、僕のほうもそろそろ一度くらいかまってやるか、と思っていたので、健康的に日焼けした
顔のつんと尖った鼻が、妙に新鮮に見えたのだが、それをいうとまた調子に乗ってくるので、
「何だよ」
とぶっきらぼうにいうと、僕の目の前に青いハンカチの包みを差し出してきた。
弁当だというのがすぐにわかった。
「一昨日の夜ね、久しぶりに雄ちゃんの夢見たから、今日、頑張って早起きして作ってきた
の」
歯並びのいい白い歯を見せて、にこやかな声でいってきた。
何人かの生徒たちが、珍しい組み合わせに、意外そうな顔をして通り過ぎていくのが、目の
端に見えたりしたので、僕は頭をぺこりと下げておとなしく受け取った。
紀子のほうはまだ何か話したそうだったが、人通りの多い場所ということもあったので、僕
がそのまますたすたと歩いていくと、背中のほうから、
「今日は卵焼き間違いなく入ってるからね」
と彼女の大きな声が飛んできた。
紀子の弁当のおかずの半分以上が、この前の当てつけのように卵焼きで占められていた。
食べた弁当箱を返そうと思い、帰宅部を止めて陸上部が使っているグラウンドのほうに行く
と、ランニングシャツとパンツ姿の紀子が、部員の何人かと談笑しながら歩いてくるのが見え
た。
途中で紀子のほうが僕に気づいて、仲間から離れ駆け寄ってきた。
長い髪を後ろに束ねていて、カモシカのような細長い足が、何故か妙に眩しかった。
「弁当ありがとう。卵焼き旨かった」
そういって弁当箱を返し、
「お前、カモシカのような足してんだな。蹴られたら骨折れそう」
と冗談っぽくいうと、
「蹴られるようなこと、最近、何かしてるの?」
とまた鋭い勘の角を突き出してきたので、僕は早々にグラウンドから引き上げた。
家に帰ると母親が珍しく早く帰っていて、
「あなた、旅行はいいけど、観光コースをどう廻るとか何も予定組んでないでしょ、はい」
そういって母親は、旅程表みたいなものが書かれた用紙を渡してくれた。
父親がゴルフコンペの優勝で獲ってきた副賞の、日光・鬼怒川温泉旅行は、高級ホテル一
泊のペア券と東武鉄道の往復の特急乗車券だけで、観光地の遊覧見学は個人で立案すること
になっていたので、母親が旅行社に頼んで作ってもらったとのことだった。
日光東照宮とか華厳の滝とかへの観光遊覧は、日光駅前のバス営業所で、一日お任せコー
スがあるから、それを利用したらいいとのことだった。
こういう時の母親が、僕は一番好きだった。
「引率者のあなたがしっかりしてないとだめよ。お婆ちゃんはメインゲストなんだから」
ダメ出しのようにそういわれて、母親の評価は少し下げた。
金曜日の夕方に、祖母が日光旅行の前泊で、わが家へ来るということで、僕は何故だかわ
からなかったのだが、木曜の夜、紀子に電話を入れていた。
「ああ、悪いな、こんな時間にいいか?」
「驚いた。ちょっと待って」
紀子のびっくりしたような声の後、どたどたと階段を上がるような音がして、
「お待たせ。雄ちゃんから夜の電話って初めてだね。ちょっと嬉しい」
自分の室のベッドか椅子にでも、どっかりと座り込んだのか、話を引っ張ってきそうな嫌
な雰囲気を感じたが、こちらからの頼み事に近い用件だったので、
「あのさ、明日の四時半から五時頃って、お前、まだ部活か?」
「明日?…部活でいつも四時半くらいまで学校だけど…?」
「ああ、そう。…ならいいや」
「何よ、そっちから電話してきて、ならいいやって」
「い、いや、お前は俺みたいな帰宅部と違って、陸上の花形選手だもんな」
「嫌味ないい方。喧嘩売ってる?」
「用件ってのはな、明日の夕方、奥多摩から婆ちゃん出てくるんだよ。それで俺が駅まで
迎えに行くんだけど、お前もどうかなって誘っただけだよ。部活なら仕方ない。総体も迫って
るからな。ごめん、悪かった」
「行く!」
「は?」
「部活休んで、明日は雄ちゃんの帰宅部に入る!」
押し問答が長く続き、僕自身の本心もあったので、ここで紀子に強引に押し切られ、駅での
待ち合わせ時間を決められる。
「いや、ほんとに無理しなくていいんだぜ。ただの迎えだけだから」
「私もあなたのお婆さんに会いたいの。お婆さん、何しに来るの?」
「うん、まぁ…」
「何よ、勿体ぶって」
「あのな、明日から俺、婆ちゃんと二人で、日光の鬼怒川温泉へ一泊旅行いくんだ」
「わあ、羨ましい!」
ここで一頻り、日光行きの事情を説明をさせられる。
「いいなぁ、私も行きたい」
ここで、僕はいわなくていいことを、ついいってしまい、話をさらに長引かせてしまった。
「またいつか、俺が連れてってやるよ。あ、今日の弁当のお礼もあるからな」
「ほんと?嘘つかない?」
「お前、俺と同じホテルの同じ室で、一緒に寝れるのか?」
紀子が返事に詰まると思ってたら、
「平気よ、雄ちゃんとなら」
「俺って危険だぜ」
「どう危険なの?」
「そりゃ、俺も男だからな」
「私が欲しい?」
「な、何いいだすんだよ、いきなり…」
「ゆ、雄ちゃんなら…い・い・よ。おやすみ」
翌日の四時に駅前の改札口付近に行くと、紺のジャージの上下に例のスタジャンを着込んだ紀
子が丸い柱の横に立っていた。
後ろに束ねた長い髪をなびかせて寄ってきた紀子が、
「何時の電車?」
「四時四十八分」
「まだ時間あるね。あそこのスタバ行かない?」
「うーん、あそこ学校の奴らよくいるし…お前といると」
「関係ないじゃない」
「お前がよくても、こっちがややこしくなるんだよ」
「意気地なし」
「学校のアイドルさんと、しがない帰宅部では釣り合いがな」
口喧嘩するために紀子を呼んだようになったしまったのだが、それでも祖母が来た時には彼
女は満面の笑みで迎えてくれて、祖母も大層に喜んだので、
「今日はありがとうな。今度はあのスタバにお前と堂々と入って、美味しいエスプレッソ奢
るよ」
そう約束して紀子と別れ、僕は祖母と二人で自宅に帰った。
駅からの帰り道の途中、僕の後ろを歩いていた祖母が、
「雄ちゃんのお嫁さんには、あの紀子さんはピッタリね」
と藪から棒にいい出した。
「な、何いってんだよ、婆ちゃん。僕たちまだ十六だよ。まだ早いよ」
「男と女にはね、相性ってのがあるの。婆ちゃんにはわかるの」
祖母が僕ら親子が住むこの家に来るのは、三、四年ぶりとかで、家族四人での夕食とその後
の歓談も笑顔だらけで終わり、祖母は一階の客間に寝た。
寝る前の歯磨きで洗面所にいたら、後ろでパジャマ姿の祖母が立っていた。
周りに誰もいないのを確認して、僕は歯磨きしたての唇を、祖母の艶やかな額に軽く押し当
ててやって、二階への階段に向かった…。
続く
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