「バカに手回しが早いな」
「あ、あなたが悦んでくれると思って…」
「そんなしおらしいとこあったんだ」
「…嫌いになった?」
「ちょっとな。イメージと違う」
「いやっ!」
「悪いな、キャッチ入ってるから」
そういってスマホを切った。
益美からの電話だった。
山岡荘八の「徳川家康」に、久し振りに目を向けたい気分になって、僕は区立図書館に来ていた。
益美の家を訪ねた翌日の午後だった。
「徳川家康の」の、大阪夏の陣が書かれた十三巻を書棚から取り出して、窓側の席に座った時に
かかってきた電話だ。
発信者の名前を見て、僕は少し驚いた、というより、意外な気分になった。
くすみがかった茶色表紙の本を、一旦書棚に戻して、僕は隣りの芝生公園に出た。
昨日の今日で、益美の声が妙に弾んでいるのが気になったが、昨日の話の中でちょこっと出た、縄
師の報告で、亡夫の伝手を頼ったりして、本物の縄師を探したということを、僕に報せる電話だった。
僕個人の感覚でいうと、益美はその美貌に群がってくる男どもを、勝手自在に取捨選択して、男ども
の言葉には、自分から唯々諾々とした態度や姿勢は見せないという、孤高の女性のイメージを抱いてい
たので、少し拍子抜けのような気持になったのだ。
裏返していえば、それは僕個人が彼女のお眼鏡に叶ったということになるのだろうが、何故かそれが
妙に嫌だった。
男なら誰でも群がってくる美貌を、顔と身体に備えているのは間違いのない益美は、いつでも凛とし
た孤高感の中にいて欲しいというのが、彼女への僕の贅沢なイメージだった。
益美の声を聞いて、僕の読書の意欲はすぐに雲散霧消した。
代わりに湧き上がったのは、益美への嗜虐の思いだった。
僕はスマホの着信履歴の最新番号を出し、オンボタンを押した。
「俺だ。さっきは邪険にして悪かったな」
掌返しに声を優しくいってやると、
「一発でフラれたって思ってた」
と益美は安堵し、嬉しそうな声で返してきた。
「いつ見れるんかな?」
「えっ…どういうこと?」
「益美が縛られるとこだよ」
「私が…?」
「おかしなこといってるか、俺?」
「誰か別の人だと思ってたから…」
「益美しか、俺の頭にはない」
「夜、お家出れる?」
「問題ない」
「また連絡します」
益美からその連絡が入ったのは、その日の夕刻だった。
明後日の七時に、夕食を用意して待っているとのことだ。
裕福な資産家の美貌の有閑マダムといわれている益美が、十六歳の高校生でしかない僕如きのた
めに、自分のほうからこれほど、能動的に動いてきたのには、僕自身も少なからず驚いたが、それ
は僕と彼女にしかわからない、あの錠前と鍵に例えた、お互いの身体と心のフィット感が大きく作
用しているのだと僕は思った。
益美があの紀子の叔母だということは、ここでは忘れなければいけないと、自分なりに割り切っ
て、僕は約束の日時の刻限に、田園調布の大邸宅の、玄関のチャイムボタンを押していた。
おそらく有名な画家が描いた作品だろうと思われる、絵心のない僕にはただの幾何学模様にしか
見えない、五十号以上のサイズの、高価そうな絵画が壁にかかった、広い玄関に出迎えに出てきた
益美は薄い紺色の色無地の着物姿だった。
十六の僕には難しい表現はできないが、櫛で奇麗に解かした、ふんわりとしたボブヘア風の髪に、
白さの際立つ小さな顔、長く引かれた眉が顔の白さに対比して、その下の切れ長の目と同じように、
美しく熟れた女性の妖艶さを醸し出していて、彼女の細身のその姿を見て、僕は少しの間、惚けた
顔になっていたのだと思う。
この時の僕を益美がどんな目で見ていたのか知らないが、ほとんど声をかけることもできないま
ま、僕は彼女の上品な誘いの仕草に載せられて、少しおぼつかない足取りで、リビングまで通され
た。
五、六人掛けのテーブルの上には、テレビでよく見る高級レストランの、フルコースのような料
理が並べ置かれていて、普通のサラリーマン家庭の僕の目は、また点になって固まってしまってい
た。
テーブルを挟んで、艶やかな着物姿の益美と対峙する位置に座った僕に、
「美味しいかどうかはわからないけど、これ、お昼から自分一人で全部作ったのよ。遠慮しない
で召し上がって」
と赤い口紅が映える唇の中から、歯並びのいい白い歯を覗かせて、少し恥ずかしげな表情で声を
かけてきた。
益美のその声に、浮つき気味だった僕はようやく意識を正常に戻し、
「旨そうだな。遠慮なくいただくよ」
と言葉を返し、ナイフとフォークを音を立てながら手に持った。
中には味のよくわからない一品もあったりしたが、メインのステーキは柔らかく濃厚なタレで美
味しかった。
僕のほうが意識的にそうしていたというのでもないのだが、会話のほとんどは益美の口から出る
言葉ばかりで、僕のほうは、ああとか、そうとか、うんとかの返事を返すだけで、テーブルの上の
料理を口に運ぶことに重きを置いた感じで、十六歳と五十二歳という、極めて不釣り合いな年齢の
二人の晩餐は、奇妙な空気感の漂う中で済み、応接間のソファで、上等なコーヒーを二人で向き合
って啜っていた時、
「七時半にね、縄師の方を呼んでるの。私も七、八年ぶりくらいに会う人なんだけど、縄師とい
っても、それがその人の本業ってわけじゃないの。亡くなった主人の会社で部下として長く勤めて
いた人でね。今は自分で起業して立派にやってらっしゃる人…」
と益美は僕に視線を合わそうとせず、淡々とした口調で話してきた。
その顔に微妙な赤みが差しているのが、僕の目にもはっきりとわかった。
「あんた、人に見られてするのが好きなんだ?」
僕が返した言葉に、益美の色白の顔が益々赤くなっていた。
「ま、また狭い室で申し訳ないけど…あ、あそこの室で…」
益美と僕との間の微妙な空気感は、まだ消えないまま、刻限は流れた。
彼女がコーヒーカップを流し台で洗い終えた頃、玄関のチャイムが唐突に鳴り響いたので、僕は
ソファから立ち上がり、覗き部屋の小さなドアに足を向けた。
それから二十分近くも待たされ、気分が少しイラついてきた頃、マジックミラーの前のベッドの
ある室のドアが開いた。
入ってきた益美の色無地の着物には、すでに真っ赤な縄が幾重にも巻き付けられていて、彼女の
手は後ろ手にされていた。
男は妙に時代がかった、薄茶色の着流し姿で、浅黒い肌をした、見た目には三十代半ばくらいの
痩身な体型をしをしていた。
顎の線が細く、鷹のように鋭い感じで、その視線が室に入るなり、何もかもわかりきったような
表情で、ミラーに向けられていた。
「ふん、この向こうにあんたの新しい恋人がいるってわけか。八年経っても性分は治ってねえな」
「そ、それはい、いわないって」
ミラーの前で妖艶な緊縛の身を晒して、益美が男に訴えるようにいう声が鮮明に聞こえた。
「偉そうなこというんじゃないよ、この淫売女が。さっきも俺にしがみついてきて、キスしてきた
のは誰なんだよ」
「お、お願い…もうやめて」
「久し振りに呼んでもらったと思ったら、こんな三枚目をさせられるとは、俺も落ちぶれたもんだ
な。…ま、そのうちにお前の本性を、恋人の前に晒してやる」
男はそういって、身軽な動きで横のベッドの上に上がり、益美を縛っている赤い縄の先を、天井に
向けて放り投げた。
この前の時に僕も気づいていなかった、鉄製のフックのようなものが天井から、間隔を置いて吊る
されていて、男の投げた縄尻がそのうちの一つにかかっていた。
ベッドの上から、男が掴み取った縄を引き上げると、着物姿の益美の細身の身体が浮き上がるのが
見えた。
益美の足元に目を向けると、白足袋の足先が、床に付くか付かないかぐらいの不安定さで止まって
いた。
男が結び目を固定して、ベッドから身体を下ろし、益美の不安定に揺れる身体のすぐ前に立ち、彼
女の細い顎を片手で挟み付け、憎々しげな表情を見せ、
「これからあんたの昔のこと、恋人の前で洗いざらい全部喋ってやるよ」
そういっていきなり彼女の赤い唇を塞ぎにいった。
足元のおぼつかない益美は、何の抗いもできないまま、男に長く唇を塞がれ続けた。
着流しの男のさも憎々しげな表情や、益美の真剣そうな怒りと怯えの表情を見て、
これがどこまでが演技で、どこまでが本当の話なのかの判別は、まだ経験値の少ない
僕には、この時はわからなかった。
どちらかというと、益美の美しい眉間に皴を寄せて、予測とは違う方向に向かって
いることに慌てふためいている様子が、真に迫っているような気はした。
唇がようやく離れると、
「さて、もうひと仕事だ。それからゆっくり昔話といこうか」
といって、床に垂らしていたもう一本の縄尻を持って、身軽くベッドに飛び乗った。
その縄の先を天井のフックにかけると、また同じようにゆっくりと引き上げた。
と、益美の着物の上前の辺りがはらりと割れ、足先の白足袋が上に上がってくるの
が見えた。
それまで隠されていた白い脹脛が見え、その上の太腿の青白い肌が露わになり出し
てきた。
上に持ち上げられた益美の足の、膝の上辺りに赤い縄が二重三重と巻き付けられて
いて、その縄尻を男がゆっくりと引き上げていたのだった。
片方の、床に付くか付かない足だけが支えの頼りの益美は、声を出すまいとしてか、
自分の歯で下唇を強く噛み締めながら、美しい顔を苦しげに歪ませていた。
上に引き上げられた益美の片足は、着物の帯に近いところ辺りまでせり上がってい
て、開かれたその先までが覗き見えそうだった。
ベッドから下りた男が、苦しげに顔を歪ませている益美の前で、着流しの帯を解き、
ステテコ一枚の裸身になった。
無駄肉のほとんどない、男の引き締まった上半身が露わになった。
男は益美の前の床に胡坐座りになり、彼女の上前をはだけられ、露わになった白い
足の奥を覗き込んでいた。
「ふふん、上品な奥様はさすがに着物を着る時は、下着はお召しにならないんだな。
奥のほうまでしっかり見えてるぜ」
「ああっ…は、恥ずかしい」
噛んでいた下唇を離して、切なげな声で益美がいうと、
「ほんとに恥ずかしがってんのか?どれどれ」
といいながら、男は片手を彼女の着物の中へ差し入れていき、
「昔と一緒だな。大変によくお湿りで、もう、早くも欲しい欲しいって濡れきってる
ぜ」
と益美に顔を向けて、卑猥な笑みを浮かべながら、指先の濡れた手を前に翳してきた。
「あんたと初めて会ったのいつだったかなぁ。営業部でくすぶっていた俺を、あんた
の旦那に、女の縄縛りが得意というだけの引きで、秘書室に配属された時、サラリーマ
ンの運って、どこに転がってるのかわからないもんだと、俺はつくづく思ったよ。筆頭
秘書だったあんたがその色香で、社長夫人の座を掴み取ったのと同じだ。仕事も精力旺
盛だった社長は、女に関しても絶倫だったもんなぁ。ついには高じてSMの世界におのり
込めになった。…社長の目の前で、社長夫人のあんたを抱けっていわれた時には、さす
がに俺もおったまげたけど…あの時のあんた、俺よりもかなり興奮してたもんな」
男は益美の足の奥から引き出した手を、また中に差し入れて、胡坐座りのまま、目を
どこか遠くに向けて、懐かしげな表情で喋り出していた。
それは益美本人だけでなく、すでにミラーの向こうにいるとわかっている人間にに聞
かせているのかも知れないと、僕はふと思った。
「社長の前で初めてあんたを抱いた時、俺の背中に血が出るほど爪立ててきて、俺の耳
元で何て囁いてきたか覚えてるか?…あなたと一緒に逃げたいって。その後も、あんたは
何回か同じことを俺にいった。俺もちょっとその気になりかけたけど、今にして思うと、
思い止まってよかったと思うよ。社長の援助のお陰で、こうして今も商売していられるか
らな。…あの時のあの言葉は本気だったのか?」
当時を思い出すような口調で喋りながら、男の手が益美の着物の奥で妖しげに動き続け
ているのが僕にもわかった。
益美の顔の表情もいつの間にか様変わりしていて、苦しげな表情はどこかに立ち消え、
愉悦の表情に変わってきている感じだった。
喘ぎか悶えかわからない声が、間欠的に漏れ出してきていたのだ。
「そうそう、そういえばあの時も強烈な印象だったよなぁ。東南アジアの大手商社の社
長を接待した時、場所がどこだったか忘れたが、二部屋が続きの間になってる室で、あん
たが向こうの社長の秘書をしていた、背の高い黒人の秘書二人に抱かれて、悶え狂ってい
た時、別室にいた二人の社長を含めた数人が、いきなり押し入ったら、あんたはっベッド
で四つん這いになり、前からと後ろからの両方に、どでかいものをぶち込まれているのを
見て、俺はあんたの、女としての美しさと怖さというものを同時に教えられた気がしてい
るよ」
男は喋り疲れたのか、徐に床から立ち上がり、益美の身体をミラーの正面に向けてきて、
着物の裾を上に向けて大きくたくし上げてきた。
向こう側から見ると、鏡に益美の無体であられもない姿が映り、こちら側からも同じよ
うに益美のあられもない裸身が見れるのだった。
男の意識は鏡ではなく、ミラーの僕に向いているのは明白だった。
僕には男の顔が見えるが、男には僕の顔は見えていない。
そのことへの男の焦燥か、もしかしたら嫉妬のような思いを相手は抱いたのか、益美の
身体を緊縛していた赤い縄を、急ぐような動作で解き出してきていた。
縄を解き休むことなく、益美の着物の帯の何本かを、さらに動きを早めて解き出してい
た。
益美が身に付けていたものすべてが、白足袋一つ残して床に落ち、男に寄り倒されるよ
うに、彼女の裸身はベッドに横たわらせられた。
男も自分の身に付けていたものをすぐに脱ぎ捨て、益美の身体の上に獣が獲物に襲いか
かるように覆い被さっていった。
ミラーから見えるのは、男の浅黒い背中だった。
「あうっ!」
男の背中の向こう側から、益美の短い声が聞こえた。
白足袋を履いた益美の白い両足が、天井に向けて高く上げられた。
男の剥き出しの腰が、前のものを突き刺すような動きを続け出していた。
聞こえてくるのは、益美の口から出る喘ぎ声だけだった。
やがて二人の身体は、ミラーの向こう側にいる僕を意識してのように、向きを変え、動き
を変えてきた。
四つん這いのかたちで、益美の顔が僕の正面に向けられた。
髪がかなり乱れ、前髪の何本かが額の汗に、纏わりついているようだった。
背後からの男のつらぬきを受け、益美の白い背中が震え動いていた。
あるところで益美の視線が、きっとミラーの中の僕の目を捉えてきた。
益美のその強い視線は、男からのつらぬきにも堪え、ひたすらに僕の目をミラー越しに凝
視してきていた。
自惚れるわけではないが、何かを僕に訴えかけているような、真剣な眼差しに、僕には見
えた。
男の益美への責め立ては、その後も長く続き、鏡の中にいる僕を大いに意識したかのよう
に、幾つかの煽情的dな体位を取ったりして、彼女を喘がせ悶えさせていたが、僕のほうはど
のあたりからか記憶はないが、何かどこかで覚めたような気持になっていた。
このことを企てた益美の心理状態を、難しく掘り下げない程度に僕は考えていた。
縄云々の話は、確かに僕の一言がきっかけだったのは、僕も認めるしかない。
益美は純粋に僕を悦ばそうとして、古い伝手を頼って、僕にこのショーを見せているのか、
大人の凄さを僕に誇示し、たかだか十六の僕を傅かせようとしているのか、それこそ大人の
女の魂胆がよくわからなかった。
そのどちらにしても、益美は十六のこの僕を、一人の大人の男と認めていて一人ているの
には違いないと、僕は短絡的に結論を出し、自分の心の中のスマホに強い思いを込めて登録
をした。
意気揚々とした思いで何年振りかに益美を訪ねてきた男は、益美の妙に冷めた視線に、少
し意気消沈した思いで、彼女の家の広い玄関を出て行った。
シャワーを浴びて浴室から出てきた益美を、二階にある彼女の寝室で僕は抱いてやった。
抱いてやった、という表現が間違いでなかったくらいに、彼女は僕の前で激しく燃え上り、
全身を、獲れたての鮎のように跳ね上がらせ、泣きそうになるくらいの声で喘ぎ悶え果てた。
ベッドの上で僕の腕枕に頭を寄せながら、
「初めて人を好きになった時の感じって、こんなだったかな、って、あなたに抱かれてい
て、私、そう思ったの」
とおかしなことに、片側の目だけから涙を一筋零しながらいってきた…。
続く
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