奥多摩行きから三日が過ぎた日の午後、通学電車を降りて駅の外に出た時、スマホが鳴
ったので見ると、番号が直接出ていて、未登録の人からだというのがわかった。
ある推測をして、少しうるさい駅の雑踏で出ると、推測の通りの人からだった。
「もしもし…」
相手のその声を聞いて、
「はい、雄一です」
と僕は名前を名乗って出た。
「私からだとわかってた?」
歌が上手そうなイントネーションのはっきりした声で、つい最近に聞いた覚えがあった。
「その節はお世話になりました」
「あら、それはこちらがいわなければいけない台詞よ」
「いえ、旅行費用も全部持ってもらいましたから」
「何千円の話よ」
「学生には大金です」
そう応えてから、駅前の雑踏なので、もう少ししてから電話します、といって僕は電話
を切り、いつもの区立図書館の公園まで来てかけ直した。
相手はあの口煩い紀子の叔母さんで、名前は鶴田益美という人だ。
待ってもらって、折り返し電話をした割には、用件は簡潔だった。
明日か明後日のどちらかで、自宅まで来てもらえないか?
明後日ならと応えると、自宅といってもこの前紀子と訊ねたマンソンでなくて、田園調
布の本宅へとのことで、住所地番だけ一方的に読み上げて、詳しくはそちらで調べてくれ
とのことだった。
条件は僕一人だけでとのことで、姪の紀子だけは絶対に連れてくるなとのお達しだった。
その日、久しぶりの家族三人の夕食だった。
父親も母親も、珍しく早く帰ってきていて、何かまだぎこちない感じはあったが、楽しげ
に笑いながらの食事で、少し拍子抜けした顔で自室へ入ると、一番話したくない奴からの電
話が入った。
「雄ちゃん、お夕飯何食べた?」
「何だっていいだろ。で、何だい?」
「一昨日、叔母さんから電話あって、あなたのね、番号教えろって」
「それで?」
「電話あった?
「ないよ」
「ほんとに?」
「ないって」
「あ、口尖らせてる」
「悪いな、親父呼んでるからまたな」
こいつとの長電話は絶対にやばいと思って、僕のほうから一方的に切ってやった。
二日後、土曜日の朝で、普段なら昼近くまで寝ている僕だったが、珍しく八時前に起きてリ
ビングに下りていくと、母親が驚いた顔をして僕を見てきた。
約束の田園調布には、僕は一度もいったことがないので、母親に交通の便や地理的なことを
聞こうと思ったが、またややこしく詮索されると困ると思ったので、スマホの地図アプリに頼
ることにした。
益美さんとの約束は二時だった。
時間があり過ぎるので、ノートパソコンの電源を入れたが、僕のプライベートライブラリー
の、どのフォルダを開くかで少し悩んだが、今日の益美さんとの面談内容を推測して、長文は
気になったが、尼僧の綾子のフォルダを開いた。
スクロールを何回かして文章の短そうなのを探した。
七月に十八日
十日前の、陽が山影に沈もうとしていた薄暮の頃、寺に二人連れの男性の来客があった。
私が本堂の前を歩いていた時、唐突に背後から声をかけられ振り返ると、登山着姿でどちら
も三十代前後の年齢に見える二人が、恐縮したような顔をして立っていた。
そのうちの一人が手に名刺を持って私に近づいてきて、
「突然すみません。私たちはこういう者でして」
と丁寧な口調でいって、一枚の名刺を差し出してきた。
名前の聞いたことのある、私立大学の国文科の講師という肩書の書かれた名刺だった。
この村の奥にそびえる山の、頂上にある、やはり平家伝説に纏わる祠の写真を撮りに来て、
その山の麓に一軒だけある旅館に予約していたのだが、そこが水道管の予期せぬ故障で、水が
全く使えなくなって、急遽休業することになったとかで、寝るところがないので、本堂でも庫
裏でもいいので、一晩泊めてもらえないか、との依頼だった。
もう一人も同じ大学で、やはり国文科の講師をしているとのことだった。
二人ともに、如何にも勉学者らしい温和な顔立ちをしていた。
寺のお守り役が私用で出かけていて、帰るのが明日で、私一人だけだったので、少し躊躇は
したのだが、仏門に仕える身で無碍な扱いもできず、庫裏の別室の八畳間をと了解をしたのだ
った。
食事は駅前の雑貨屋で、カップラーメンと菓子パンで済ませてきたというので、庫裏の八畳
間に二人を案内した。
今にして思うと、気遣いはそこまでだけにしておけばよかったと、悔恨するばかりなのだが、
後悔先に立たずで、私は思わぬ恥辱を受ける羽目に陥ってしまったのだった。
八時を少し過ぎた頃、私は熱く沸したお茶をポットに入れ、貰い物であった和菓子を数個皿
に載せて庫裏を向かった。
庫裏の別室の八畳間までは、渡り廊下を通っていけた。
その室の入り口の戸の二、三メートルほどに近づいた時、室の中のほうから人の呻くような
声が、突然、私の耳に聞こえてきた。
苦しげな、余韻の長く残る呻き声で、私は手に持っていた盆を慌てて床板に置いて、急いで
板戸を開けた。
一瞬、目を疑うような光景が目に飛び込んできて、私は急冷凍された人間のように、その場
で固まってしまっていた。
煌々とした灯りに照らされた布団の上で、夕刻に本堂の前で見た二人の男が、素っ裸で身体
を寄せ合っていたのだ。
何をしているのかは、二人の態勢を見てすぐにわかった。
一人の裸の男が布団に四つん這いになっていて、もう一人もやはり裸で、布団に伏している
男の背後で膝立ちをしていた。
男性と男性の性交渉だった。
女性同士があるように、男性と男性のそれがあるということは、私も耳にはしていたが、目
の当たりに目撃するのは初めてだった。
咄嗟に自分は何をどうしたらいいのかわからないでいた。
私の足も、身体のどこもかもが動かなくなっていて、声すらも何一つ上げれなくなっていた。
どたどたという床板を踏む足音が、茫然自失状態になった私の耳に聞こえてきていた。
自分の身体が、誰かに背後から抱きつかれ、そしてすぐに足元を掬われて、誰かに全身を抱きかか
えられ、室に敷かれた布団の上に運ばれたということが、どうにか朧にわかってきた。
自分自身の驚愕と、あまりに手早い誰か、誰かというのは、この室に泊まりを請うた二人組の男に
違いはなかったのだが、その彼らの動きに、私の身体と心が付いていけていなかったのだった。
裸の男たちが何か言葉を発しながら、布団に横たわらされた私の近くで、慌てふためくように動い
ていたのは、あろうことか、私の衣服を剥がしにきていたのだ。
私がどうにか普通の精神状態に戻り、相手の顔が見え、声を聞きとれるまでになった頃、信じ難い
驚天動地に私は見舞われていた。
私の意識の大半が、壊滅状態になっていた間に、二人の男たちの手で、私が身に付けていた衣服の
ほとんどが剥ぎ取られてしまっていたのだ。
法衣も長襦袢も、そして頭の袖頭巾も、すべて私の身体から脱がし取られていて、布団の周囲に散
乱していた。
運の悪いことに、この時の私はショーツを身に付けてはいなかった。
「このままやってしまおう」
男の一人が相手に向かっていっている声が、私の耳に聞こえてきていた。
少し体格のがっしりした男が、私の身体に唐突に覆い被さってきたかと思うと、自分の手に唾を二、
三度吐き、私の剥き出しにされた各部に、乱暴に塗り付けてきた。
私は何故か、声が出なくなってしまっていた。
自分では出そうと口を開けるのだが、喉から声がどうしても出てこないのだ。
抗いは当然にしたが、私の足の間に入ったがっしりとした体格の男が、もう一人の背の高い男に、
「手を抑えるんだ」
と命令すると、いわれた男は、
「はい」
と返答して、私の両手首を掴み取ってきた。
男の唾液にまみれさせられた私の下腹部に向けて、先端を突き立て、ゆっくりとした動作で身体
を前に突き進めてきたきた時、
「ああっ…そ、そんな!…い、痛い!」
と悲鳴か絶叫に近い声を、私は喉の奥から絞り出していた。
その少し前、裸の男たち二人と揉み合っている時、私の目はがっしりとした体格の男のほうの、
下腹部を見て、そのものの異常な大きさや、異様な太さに、内心で喉を引き攣らせていたのだ。
それは人間のものとはとても思えないくらいの巨大さで、驚き以前に恐怖と不気味な思いだけが、
私の目に飛び込んできていたのだ。
恐怖感しか感じないそんなものが、自分のこの細身の身体の中に入るはずがないという思いが、
私の胎内の肉の何もかもを、引き裂き圧し潰すような、強烈な圧迫感となって私の全身を責め立て
てきていた。
最初に感じたのは間違いななく激痛だけだった。
それも男に突き刺された、その部分だけではない。
全身を覆い尽くすような痛みだった。
私は最初に挙げた悲鳴のような声だけで、後は喉の奥が詰まり、口から出そうとしても声にはな
らなかったのだ。
大砲の長い砲筒のようなもので、私を刺しつらぬいてきている男の動きが、あるところでふいに
止まった。
私の剥き出しの両足を、両手で抱え込んだまま、男は微動だにしなくなった。
もう一人の男は、私の両手首を掴み取ったまま、私の顔の真上で、私に目もくれず、奇妙にうっ
とりとした眼差しで、前にいる男の顔を見つめていた。
私は布団の上で、男二人から上からと下からの拘束を受け、何一つ身動きできない状態だった。
煌々と灯りの点いた八畳間で、二人の裸の男と私の三人は、まるで静止画のように動かず時の
流れの中にいるだけだったが、最初に私のほうの気持ちのどこかに、ポッと小さな火が点いたよ
うな気がした。
その火は柔らかな紙を燃やした時のように、忽ちにして炎になり私の全身を駆け巡ってきた。
痛みと圧迫しかなかった私のその部分が、妖しい熱を持ち緩やかに弛緩してきていた。
ふいに灯った火の根源が、そこだということを報らされたかのように、
「あっ…ああっ」
と私の口から官能の声が漏れ出た。
私の身体の中を襲った炎の勢いは、私自身で制御できないままに、早く広く全身を覆ってきた。
今日の夕刻にもらった、名刺一枚の素性しか知らない男に犯されているという事実が、私の気持
ちの中から、どこかに雲散霧消していきそうだった。
男の腰が微動した。
私は大きな悶えの声を挙げていた。
その繰り返しが暫く続き、男が動くたびに、私は悶え喘ぐようになっていた。
私をつらぬいてきている男の顔が、私の顔のすぐ真上に近づいてきていた。
そして自分のほうから唇を開き、男の少し分厚い唇に寄せていき、歯と歯の間を開けていた。
口の中で、私の舌が男の舌に絡みついていた。
自分の身体から最初にあった痛みが消え、強烈にきつかった圧迫が快感に変じていた。
私の手首を掴んでいた男に、私を突き刺している男が、目で何か促すと、私の手首の拘束は解か
れた。
しかしもう私の身体と気持ちの中に、二人の男たちに抗う気持ちは、どこにもなくなっていた。
それどころか、私を突き刺している男の腰の律動に、少し早さと強さが加えられてきて、猶更に
体熱を高めさせてきていて、唇が離れた時、私の口から出た言葉は、
「ああっ…も、もうどうにでもして!」
だった。
それから……。
そこまでで、僕は読むのを止め、パソコンから目を離した。
時間潰しのつもりが、時間潰しにならなかった感じで、感慨は何もなかった。
ちょっと尼僧の綾子のことが、嫌いになるような一章だった。
パソコンアプリで地図検索を開き、鶴田益美の住所を入力した。
田園調布駅から歩いて二、三十分くらいで、区立か何かの公園が見えるとの 益美からの簡単な
説明を聞いているだけだったが、大体が田園調布といったら高級住宅街で、下町のマッチ箱のよう
な小さな家屋が、雑然とひしめき合っているというのでもないから、どうにかなると思って、地図
アプリもあっさりと消した。
母親に早めの昼飯を頼んであって、それを済ませて家の玄関を出てすぐに、メール着信があった。
国語教師の沢村俶子の名前が出た。
(この頃ご無沙汰ね。昨日、学校の廊下でも無視された。嫌い)
今も無視してスマホをポケットに仕舞って、僕は駅への道を急いだ。
その日の帰宅は、夜の九時になった…。
続く
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