紀子と紀子の叔母さんを連れての奥多摩行きは、僕にとってはあまりいい成果とはいえ
なかった。
喜んだのは祖母も入れての、女三人だけだった。
祖母と紀子の叔母さんは、駅で何年振りかの対面をした時、長い時間、抱き合ったまま
動かなかった。
人目もない片田舎の駅だったからまだよかったが、叔母さんのほうは涙をぽろぽろと零
しての感動の対面だったようで、祖母の家に入っても、二人はまるで恋人同士のように付
かず離れずで、寝る室も一緒だった。
僕と紀子は別々の室だったが、
二日目の夜遅く、多分一時を過ぎていたと思うが、紀子が僕の室にこっそりと入ってき
たのには少し驚かされた。
何か擦れるような音がしたので、薄目を開けると、布団の真横で正座して僕を見降ろし
てきていた。
「な、何だよ、お前」
もう少しで大きな声を出してしまいそうになるくらいに、僕はびっくりした目で彼女を
下から睨みつけた。
紀子は長袖のTシャツにジャージ姿で、いつもは束ねている髪を、肩の下くらいまで長く
垂らしていた。
「何か眠れなくて…中、入っていい?」
「バ、バカ。いいわけねえだろ」
「寒い」
「室に帰れ」
「嫌だ」
押し問答になるのはまずいと思い、仕方なく掛け布団を開けてやる。
嬉しそうに無邪気な顔をして、細い身体を僕の横に滑り込ませてきた。
「いい、変なことしないでね」
「バカ、自分から入ってきておいて、よくいうよ」
「温かいけど、少し男臭い」
「当たり前だ。俺は男だ」
「雄ちゃんの匂いは嫌いじゃないよ」
「お前も女臭い」
紀子の髪の毛のシャンプーのような匂いが、僕の鼻をついていた。
「今日のお昼ね、あなたがお婆さんに頼まれて、砥石で鎌か何かを研いでたじゃない」
「ああ、後で余計切れなくなったって、叱られたけど」
「あの時にあなたの、その頼りなさそうな背中を見てた、お婆さんの目、素敵だった。雄
ちゃんのお婆さん、ほんとに奇麗。うちの叔母も奇麗だけど、何か奇麗さが違うのよね」
時折、どきりとしたことをいい出すのが、紀子の癖だったが、僕のほうも少しよろめ
いた気持ちになった。
「ね、お休みのキスは?」
そういって紀子は自分の手の指を、おでこの辺りに差して目を閉じた。
僕は静かに顔を近づけて、唇を紀子の唇に少し強く当ててやった。
「卑怯者」
といって、紀子は驚いた目を僕に向けてきた。
それから暫くの間、腕を前に組みながら、目を閉じていた紀子が、
「本当のキスって、お口の中に舌を入れたりするって、そうなの?」
急に目を開けてきて、妙に真顔で聞いてきた。
「何だ、お前。そんなことも知らねえのか?」
小馬鹿にしたような声でいってやると、
「雄ちゃん、誰とそんなことしたの?」
「お、俺はしてねえよ。ちょっとした本の知識だよ」
「嘘…」
「何で俺が嘘を」
「この前、得意げにいってたの、あれは嘘じゃない」
「また、ヤキモチかい?」
「本当のキス、最初にさせてあげるの、私、雄ちゃんだって決めてるんだからね。もう戻
る。お休み」
早口でそういって、紀子はそそくさと布団から出て、室からも出ていった。
翌日の朝食の時、紀子は叔母さんから、
「あなた、目が赤いけど眠れなかったの?」
とさりげなくいわれ、もごもごと何か、訳のわからないような言い訳をしていた。
紀子の叔母さんが、若い頃世話になったという、祖母の夫の墓参りをしたいというので、四
人で尼僧の綾子のいる高明寺へ出かけた。
尼僧の綾子とは墓参りの後、本堂の前で会った。
祖母がそつのない挨拶をして、紀子と叔母さんを尼僧に紹介していた。
その時、紀子は僕の横に立っていて、無意識にだろうが、僕の片腕を掴んでいて、それを目
の端に入れたのだろうか、
「ガールフレンドの方?」
と口元に笑みを浮かべながら聞いてきたが、切れ長の目の瞳は笑ってはいないように、僕に
は見えた。
そんなこんなで四人の奥多摩行きは、つつがなく終わり、午後の三時過ぎには都内に戻れて
いた。
叔母さんの住む駅で三人は電車を降り、駅前のショートケーキが美味しいという、コーヒー
ショップでケーキとコーヒーを叔母さんにご馳走になった。
紀子がトイレに立った時、叔母さんが僕に、
「ちょっと若過ぎるといえば若過ぎるけど、あなたという人が、私には何となくわかったよ
うな気がする。…ほら、村の駅前で私たちの前で、どこかの野良犬が急に吠えてきたじゃない。
あの時、あなたがその犬をひと睨みしたら、犬がすごすごと逃げてったでしょ。…そういう面が
あなたにはあるのよ。私は嫌いじゃないし、紀子の恋人としても合格よ」
と声を潜めながらいってきた。
聞いた時、僕にはよく意味のがわからなかったのだが、紀子が戻ってきたので、その場はそれ
で終わり、叔母さんは会計を済ませて先に店を出ていった。
「叔母さん、何かいってた?」
勘の鋭い女だと思いながら、
「俺は紀子の恋人として合格だってさ」
と本当のことをいってやると、
「あの叔母さん、私よりもっと鋭い勘持ってるからね」
「そうか。じゃ紀子を俺の恋人にしてやる」
「ふんだ。あ、あなたね、俺っていうの、いつもいうけど、似合わないよ」
紀子と別れて一人になった時、叔母さんのいった言葉を、僕はもう一回思い返したが、やっぱ
りよくわからなかったが、それから数日後に答えが出た…。
続く
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