家を出る時、何の気なしに着込んできたスタジャンを、駅前のガストに入った時、僕は
大いに後悔した。
先に来て待っていた紀子も同じスタジャンだったのだ。
店に入るとすぐに、紀子は辺りも憚らず、大きな声でまた僕の名前を呼びつけてきた。
駅側に面したテーブルで、嬉しそうな顔をして手を振ってきた。
「お前、どこでも俺を名前で呼びつけにするな」
席につくなり、僕は不機嫌な声でそういってやったのだが、
「衣装も同じで、仲もいいんだからいいじゃん。それに…」
とまるで僕のいうことなど聞こうとしない。
「それにって?」
「私たち、もうキスもしてる」
「バカか、お前。あんなものはほんとのキスじゃないよ」
「知ってるの?…ほんとのキス」
「お前ほど初心じゃないからな、俺は」
「不潔」
紀子は不機嫌な顔のまま、ハンバーグランチを平らげ、奢るといっていた支払いも割
り勘にされ、店を出て駅に向かった。
山手線に乗り二つ目の駅で降り、駅前のアーケード商店街を抜けたところに建つ、八
階建ての瀟洒な外壁のマンションが、目指す目的地だった。
紀子の叔母さんが最近、借りたばかりの賃貸マンションで、自宅はこの雑然とした下
町とは違う、高級住宅街に大きな邸宅を構えているとのことのようだ。
駅を降りてアーケード商店街に入った時、ふと目についたアクセサリー店で、二百円
の携帯ストラップを買ってやったら、すぐに機嫌を直していた。
五階の一室を訪ねると、ボア風の髪を薄茶色に染めた、派手な顔立ちをした、細身で
スタイルのいい中年女性が、にこやかな笑みを浮かべて迎えてくれた。
女性の一人住まいというせいもあってか、室内は蕩けそうになるくらいのいい匂いが
充満していた。
叔母さんの、というよりも、五十代とはとても思えないくらいの、若々しい顔を見て、
僕はテレビでたまに観る、ある芸能人を思い出した。
若い頃には、何とかの花嫁とか、何とかの城下町という歌で一世を風靡した女性歌手
に、顔もスタイルも、それに雰囲気もそっくりだった。
紀子は相手が自分の母親の妹ということもあって、会った早々から馴れ馴れしくして
いたが、僕のほうは当然に初対面で、際立つような美人顔の婦人に会って、ただただ緊
張のしまくりだった。
おまけに紀子がつい調子に乗って、僕のことをボーイフレンドとしてでなく、恋人と
紹介したものだから、赤面させられるやら言葉に詰まらされるやらで、居心地の悪いと
いったらなかった。
長い睫毛の下の切れ長の目がくっきりとしていて、鼻がつんと高く、その下の赤い唇
が微妙に肉感的で、どこからみてもその芸能人に瓜二つに見えた。
服装も若い僕たちが来ると意識してか、真っ白なTシャツにジーンズというラフない
で立ちで、胸の膨らみの大きさにも、僕は一人こっそりと驚いていた。
広い応接間のソファでコーヒーや、高そうなケーキをご馳走になり、多少、僕も打ち
解けた時、その芸能人の話をすると、
「そういえば町を歩いていて、何回かその人に間違えられて、サインをねだられたり
したことがあるわ」
と奢りや嫌味の少しもない温和な口調で、話してくれたりした。
今日は紀子のほうが、久し振りに叔母さんの顔が見たくなったからという理由で来た
だけなので、叔母さんの恋愛事情にはいきなりは入り込めなかったのだが、
「うちのお母さんがね、叔母さんは奇麗でお金持ちだから、交際相手も多いだろうか
ら、急に再婚何ていい出してこないで、もしそんなことあるんだったら、早めに教えて
っていってた」
と自分本位の紀子にしては珍しく、機転の利いた聞き方でそれとなく質すと、叔母さ
んのほうは白い歯を見せて笑いながら、
「あなたのお母さんは相変わらずの心配性ね。どうせ、あの噂好きの弟から聞いたん
だろうけど、舞台俳優の男との結婚は絶対にないといっといて」
と一笑に伏した顔で紀子にいった。
僕も紀子も少しばかりアテが外れた感じで、思わず目を合わしたのだが、叔母さんの
ほうから紀子が僕との関係を、冗談気味に問い質された時、先日の奥多摩での淡いやり
取りを話すと、
「奥多摩かぁ…もう何年もいってないけどいいところね。川の上流のお水が美味しく
て。…あ、そういえば奥多摩に、私が昔、随分、お世話になった人がいるわ。もう五年
以上も会ってないけど、元気にしてるかしら?…奇麗な人だったのよ」
と唐突なことをいい出してきたので、僕は思わず目を丸くした。
「え、その人の名前って、もしかして…」
僕は喉が急に詰まったような声を出して、紀子の叔母さんに驚きの目を向けていた。
「苗字は何だたかなぁ…名前は昭子さんっていうの」
僕の驚きは仰天になった。
「日光の温泉宿で仲居さんをしてた人でね。私がまだ若い頃、大きな失恋をして、死
ぬつもりで日光に出かけて、泊まった旅館の仲居さんをしてたの」
叔母さんが続けていった言葉で、僕はほぼ確信していた。
「あ、あの…その人の旦那さんって、椎茸栽培か何か…」
「そ、そうそう。椎茸栽培の名人だとか。…でも、あなたどうして?」
「その昭子っていう人、僕の祖母何です」
「えっ、まあっ…」
叔母さんの奇麗な赤い唇がポカンと開いていた。
僕の横にいた紀子の口もポカンと開いていた。
叔母さんは信じられない偶然に驚き、紀子は何のことだか訳のわからないポカンだっ
た。
「この広い東京でこんな偶然って、あるものなのねぇ。で、あなたのお婆さん、お元
気なの?…私より十くらい上だったと思うけど?」
「そうです。六十四歳です」
僕には見る間に紀子の叔母さんが近しく、そして親しげに見えていた。
「ああ、会いたいなぁ…会いに行こうかしら?」
「祖母も喜ぶと思いますよ」
「そうだわ、三人で今度、一緒に行きましょうよ。ね、典ちゃんも」
「うん、私も雄ちゃんのお婆さんにぜひ会ってみたい」
「私はいつでもいいけど、あなたたちは学生だから。典ちゃんが日程調整役やって」
当初の目的とは、まるで違う方向に話が進んでしまい、僕の戸惑いは大きかったが、
紀子はともかく、これほどの美人とこれからも近しくなれることは、僕にとっては何
かにつけ大きな楽しみになるのは、間違いないと僕は踏んだ。
帰りの電車の中で吊革にぶら下がりながら、、
「紀子の叔母さんって、めっちゃ奇麗だよな。俺の婆ちゃんもまぁ、奇麗なほうだ
けど、奇麗さがまた違うわ」
と話しかけると、
「あなたの女性への間口って広いのねぇ」
と妙に嫌味っぽく返されたので、
「何だよ、自分の叔母さんにヤキモチかよ」
とまた切り返してやった。
「相変らずしょってるわね。可愛くないスケベ男」
紀子は僕に毒づきながら、何か悲しげな顔をしていた。
紀子と別れて自宅への道を一人で歩いている時、僕の頭の中にとんでもない光景が
思い浮かんでいた。
祖母と紀子の叔母さんと僕の三人が、一つの室で布団を川の字に敷いて寝ている構
図だった。
こんなことを紀子が知ったら、僕は絶対に殺されるだろうな、と思いながら家の玄
関の戸を開けた…。
続く
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