「この前のお弁当、どうだった?」
こいつには自分本位なところがある。
陸上の短距離の花形選手で、スタイル抜群で美人顔ともてはやされているようだが、カ
レシがいながら他の男に目移りをしたりする、尻軽女みたいなところがあったりするのを
誰も知らないのだ。
スマホを耳に当て、紀子と喋りながら、僕はそんなことを思っていた。
「もしもし、雄ちゃん、聞いてるの?」
かしましい女だと思いながら、
「あ、ああ、美味しかったよ」
と僕は明るい作り声で応えた。
若い舞台俳優に狂っているとかいう、紀子の叔母さんとの明日の面談の時間を確認する
だけの電話が、こいつの一方的な喋りで、横道に逸れてばかりだった。
帰宅部一筋の僕は、まだ陽も西日になり出したばかりというのに、もう自宅近くの区立
図書館横の芝生のある公園にいた。
紀子のほうは部活で、まだグラウンドでバカみたいに走り回っていて、一時の休憩時間
中の電話での会話だった。
「あれ、私の手作りだったのよ。何が美味しかった?」
まだ続けるのかよ、と閉口しながら、
「あ、ああ、た、卵焼きが一番美味しかった」
と僕が応えると、紀子は一瞬黙りこくったが、
「あ、ストレッチ始まるから切るね。明日の時間はお昼の一時だから、十一時半に駅前
のガストで待ち合わせということで、じゃ」
そういって電話は一方的に切れた。
自分勝手な奴だ、一回どこかでお灸を饐えてやらないと、と思いながら家に帰ると、こ
の時間にはまだ仕事をしているはずの、母親が在宅していた。
何かあった?と聞く前に、切れ長の目元と通った鼻筋が、奥多摩の祖母とそっくりな母
親のほうから、職場の職員の父親が亡くなって、今からお通夜の手伝いに行くので、夕飯
はレトルトカレーで済ませて、との御託だった。
父親は長期出張で、帰宅は明後日の日曜との追加御託もあった。
奥多摩にはこの頃頻繁に出かけている僕だが、元来は出不精の質である。
室での引き籠りは慣れていて、読書と音楽で時間は結構潰せる。
何がきっかけだったのか自分でもわからないのだが、最近は歴史小説に嵌り、山岡荘八
の「徳川家康」に挑んでいるのだが、全二十六巻の半分で今は長く停滞している。
というのも、それに代わる新たな読み物を、あの奥多摩でひょんな行き掛りから、USBメ
モリーというかたちで手に入れたのだ。
最近に他界した、一人の初老の人が書き残した、私小説風の読み物だ。
まだ半分も制覇していない僕だが、どうにかこれを乗り越えないと、「徳川家康」に進
めないと自分勝手に決め込んでいる。
勉強机に座って、勉強はせずに、ノートパソコンを僕は開けた。
吉野とタイトルされたフォルダをクリックして、画面に出たサブタイトルを探し求めて、
スクロールを繰り返す。
(妻・友美)という初めて見るタイトルがあったので、僕はオンボタンを押した。
(妻・友美)
私が結婚したのは、三十四歳の時だった。
工業高校を出てから、母の知人の紹介で近くの、小さな精密機械工場に私は就職した。
これという大望もなく、ただ一定の給料を貰えるありがたさだけで、そこに勤め出した
私だが、精密機械整備製造の何たるかを、私に教授してくれた大恩人に巡り合い、忽ちに
して私は精密機械の虜になった。
その大恩人との交流は、別の項で詳しく書き記すつもりなので、ここでは割愛するが、
それからの私の生活ぶりは、一にも仕事、二にも仕事の一筋で、当時の社会情勢の流れや
政治経済の何たるかも、まるで関知しない仕事一徹人間に変貌してしまっていた。
そのことの良否は、六十を過ぎた今でもわからないでいる。
そんな私だから、世間一般の常識というものにも疎くなるのは自明の理で、恥ずかしい
話だが、三十半ば近くまで、もっと正確にいうと結婚するまで、私は童貞のまま過ごして
きたのだ。
実際は会社の同僚たちとの交友の場で、そういう機会も何度かあったのは事実だったが、
元来が人付き合いがあまり上手でない私に、女性との交友や語らいは、土台、無理な話だ
った。
幼馴染で、今は別の遊侠の世界で暴れまくっている、稲川という男も、そんな私を案じ
て、何度かそういう機会の場を拵えてくれたのだが、いずれも不毛な結果になっていたの
だった。
そうして三十四歳の時、ある人の紹介で私は見合いをすることになった。
見合い自体はそれまでにも、三度か四度は経験していたが、そのどれもが成就に至って
いなかったので、私自身も、その見合いにの話にはそれほどの期待はしていなかった。
しかし紹介者から、見合い相手の写真と経歴書を渡された時、何が原因だったのか今も
わからないでいるのだが、私の心を打つ何かのインスピレーションのようなものを感じた
のだ。
相手の顔写真を見た時に、そのインスピレーションは最大値になった。
髪をアップにしての着物姿で、どこでも見る見合い写真で、美人は美人だったが、女性
体験の一度もない、私の感性を強く揺るがしたのは、彼女の目の光というか輝きだった。
濃い眉毛の下の、切れ長の目の瞳の輝きに、何故か私は心を奪われたのだった。
経歴を見ると、私よりも五歳年上で、一度の離婚を経験しているとあったが、そのこと
への不満や不足や抵抗は全く感じなかった。
その見合いの紹介者は私の会社の役員の人で、場所はどこかの料亭の座敷だったように
覚えている。
私のほうが先に着いていて、相手の女性のほうは途中で交通事故現場に遭遇してしまい、
三十分ほど到着が遅れるとのことだった。
幸先の悪い見合いだったが、私は最初の自分のインスピレーションを確認したいという
思いもあって、ひたすらその人の到着を待ち、そして対面してすぐに自分の感性に間違い
がなかったことを確信した。
それでも見合い当日の私は、二人だけで料亭の広い庭園を歩いた時、自分のことや相手
への思いやりの言葉の、何一つも話せずにいた。
世間一般でいう青春も、精密機械の開発研究にすべて捧げてきて、女性への興味や憧憬
も抱くことなく生きてきた男に、いきなり女性に対し思慕の思いを伝えろというのが無理
な話だった。
こちら側の意向は、ぜひ妻として向けたいと伝えてあったが、相手からの返答までに一
週間を要し、今思うとこの時、私は恋の思いというものを実感し、体験させられたのだと
思う。
一週間後、相手から了承の返答がきた時の感動は、何十年も経った今でもはっきりと覚
えている。
そうして私たちは結婚し、二人だけの、当時は借家だったが、一軒家に住むことになっ
たのだが、その前の新婚旅行の時、私は彼女に、自分は三十四歳の今日まで、女性の経験
がないことを正直に告白した。
その時の彼女の返答は、
「私は逆にあなたが初めての男性ではありません。損も得もなしに、これでおあいこに
しませんか?」
という、五歳年上の心の広さに満ちたもので、どれだけ自分の心が救われたかと、今でも
感謝の気持ちしかないと思っている。
それからの十数年、私の勤務する会社は順調に成長し、ある時点で精密機械のある部品の
開発で、特許取得にも成功し、会社の規模も予想以上に大きくなり、いつの間にか、ただの
仕事人間でしかなかった私も、役員待遇の身分にまで出世していた。
私たち夫婦に子供がいなかったのは、妻の年齢の高さもあって、止む追えないことだった
が、家庭生活も夫婦生活も何も問題なく過ごせてきていた、はずだった。
だが実際は、そうではなかったのだ。
子供に恵まれなかったことを除いて、普通の夫婦としては何も深刻な問題はないと、そう
思い、そう信じてきたのは、私一人だけだったと思い知らされたのは、結婚をして十数年も
経ってからのことだった。
五歳年上の妻は、仕事一途なだけの私のために愚痴一つこぼさず、献身的に尽くしてくれ
ていたと、私は純粋に信じていたのだ。
妻の友美には、私の知らない裏の顔があったのだ。
私が妻の友美との結婚を決めたのは、彼女の顔を見た時の自分の感性を信じてのことだっ
たのは間違いのない事実だ。
相手が五歳年上で、再婚者であるということも、すべて承知の上のことだった。
妻の友美の経歴で、わかっていた主な点はそれだけで、それ以上の掘り下げは、私はして
はいなかった。
だが、そこに妻の私の知らなかった裏面の妻の裏の性格の根源は潜んでいたのだった。
いつだったか、会社の取引先の社長からの接待に、私は気が進まない思いで、あの秘密の
白黒ショーなるものの会場に連れられて、愛する妻の驚愕の一面を覗き見てしまった。
それも妻が最初の結婚時に、自分のお腹を痛めて生んだ子供を相手にしての、いわば近親
相姦そのものの形態で、十数人の好奇な目の集中する中で、男と女になっての狂態を演じ、
しかもその演者の女の夫たる、自分自身が否応もなく凝視してしまうという、ありうべから
ざる事態に、図らずも私は遭遇してしまったのだった。
それからの私の生活は、表向きは何事もなかったように、普通に推移していった、という
より、自分の真の思いをひた隠し、普段通りの言葉を使い、普段通りの行動をして、当たり
前の日時を過ごすかたちになった。
妻に対しても同じで、自分からは彼女を問い詰めるとか、厳しく問い正すことは一度とし
てしなかった。
これがしかし、私にとっては何よりも辛くて苦しいことだったのは、いうまでもないこと
だったが、事が発覚した当時は、今日はいおう、明日には問い質そうと思い悩んだのも本当
のことだ。
いいそびれの日が何一も何日も続き、ついには自分から機会を逸してしまった私が次にし
たのは、妻の友美の最初の結婚時の生活形態の調査だった。
無論、素人の私一人の足で十何年以上も前の、個人の履歴調査などできるはずもなく、多
少は名前を知られるようになった、会社の名前を利用して、信用できる調査会社に依頼して、
結果報告を待った。
有名人ならともかく、無名の一個人の旧い過去の調査など、それほどの成果は出てこない
だろうと多寡を括っていた私だったが、今のこの時代は、名もない個人の情報でも見事なく
らいに収集されることに驚嘆しながら、何ページかの報告結果を読み込んだ。
概略を書くと、概ねは以下の通りだが、私の驚きと受けた衝撃は、何にも例えようのない
くらいに大きかった。
島野友美は、金物店を営む父和男、母きく夫婦の長女として生まれる。
一人っ子として大切に育てられ、四年生の大学に入学するが、二年生の時父親が脳梗塞で
倒れ、間もなく他界し、主を失くした金物店は忽ち衰退し、その少し前に店舗の大改造をし
ていて、その負債が、母きくと娘の友美の肩にかかってきたが、少ない親類縁者からの手助
けもなく、店は廃業の憂き目に遭い、友美も大学を退学し、働きに出るが、家族にのしかか
る負債はいつまでも、母娘二人の肩から下りることはなかった。
三年後、母きくの元へ、思わぬ縁談話が持ち込まれた。
市内で不動産業を営む島野という、四十五歳の男性で、紹介者の話で母娘が重く抱えてい
る約二千万ほどの負債の処理も一切、無にしてくれるとのことだった。
娘の友美が当時勤めていた会社を仕事で訪問した時に、一目惚れしたとのことだった。
以降の経緯は省くが、結果的に友美はその話を受諾し、島野と結婚して、一年後に男の子
を出産したのだが、結婚当初から夫の女遊びが激しく、家庭生活そのものは、あまり恵まれ
たものではなかったとの記述になっていた。
跡継ぎになる子供ができてからの、夫の放蕩ぶりは以前にも増して激しくなり、月の内半
分以上は家に
帰らなくなり、妻の友美も何度も直談判して改心を求めたのだが、逆に夫のほうから唐突且
つ一方的に離婚を切り出されたのだ。
つけて加えて子供の養育権まで剥奪され、友美は追い出されるようにして家を出た。
結婚時の多額の負債処理の件で、離婚裁判に持ち込むまでの強い気持になれなかったのだ。
それから悲嘆の日が二十年近くも続き、そこへ私のほうからの持ち込まれたということのよ
うだった。
友美の本当の労苦は、ある意味においては、私と再婚してから以降のことだったのかも知れ
なかった。
勿論、私の知らなかったことだが、自分がお腹を痛めて生んだ子供はもう成人していて、こ
の二十年前後の間に、その子の人生は大きく、それも悪い方向に変遷していた。
二十歳を過ぎた頃、不動産業を手掛けていた父親が若い頃の不摂生が祟り、急性の肝臓癌で
亡くなり、若輩のまま社長業を継いだのだが、海千山千の欲に絡んだ人間たちの群がる不動産
業界の荒波に一気に槌み込まれ、忽ちにして資産のすべてを失い、加えて幾人かの人間に騙さ
れたりして、若いその身に多額の債務を抱えさせられたのだ。
友美の一人息子の名前は洋一といって、細身の体型で、母親似の色白で整った顔立ちをして
いて、性格も父親のような強引さもない、温和な気性の青年らしかった。
親の後を継いで一年も経たない間に、男子にしては少し頼りなさげなその肩に、重過ぎる債
務を抱えて最後に駆け込んだのが、母の友美であり、そして私の妻だったのだ。
ここで、ここで友美が私に相談していてくれれば、少なくとも何らかの前向きな解決策を出
せていたはずだった。
だが、友美はそうはしなかった。
何も知らない夫に、大きな負担はかけられないと思ったのだ。
結果的に不幸は続いた。
息子の洋一が、母に泣きついた時には、彼の債務は廻り回って、評判の良くない暴力団の手
に渡っていた。
悪いことはまだあって、その暴力団の組長に、友美の息子は男でありながら惨いことに、犯
されていたのだ。
その組長という男は両性愛者、今の時代的にいうと、ジェンダーだったのだ。
そんな危険な男のところへ、友美は自分が捨てた子供のために、ただ人間の誠意だけを頼り
に女の独り身で出掛けて行ったのだ。
結果は明白で、友美は美貌な顔立ちもあって、ミイラ取りがミイラ取りになってしまい、凌
辱の憂き目に遭い、そのまま暴力団の組長のいいなりの身に、実の息子ともどもに墜ちてしま
ったというのが、探偵社の推測的な結論報告になっていた。
そしてその結果というのが、暴力団の奴隷となり、私が図らずも遭遇した、あの白黒ショー
だったということなのだった。
その屈辱の報告書を読んで、私の気持ちは貝が殻を閉じるように閉鎖してしまい、どす黒い
鬱憤を抱え込んだままの、日々の生活になってしまっていた矢先の、妻の交通事故死だった。
私は到頭、妻に自分が長く隠し持っていたものを、告げることのないまま、永遠の別離にな
ってしまったのだ。
妻の交通事故死が、本当の事故だったのか、もしかしたら自殺だったのかという、ある意味
で悲しい疑念を抱けるのは、事故を調べた警察官ではなく、私一人だけだった。
四十九日の抱擁が過ぎ、私はようやく妻の遺品の整理をする気持ちになり、衣服類は専門の
業者に任すことにして、寝室の彼女専用の整理箪笥から始めたのだが、小物入れの箱の隅に真
っ青な色の小さなUSBメモリーを見つけた。
妻は五十の年代を迎えるか、迎えてからか、パソコン操作に強い興味を持ち出したようで、
わたしもそれはいいことだと推奨し、当時の最新のノートパソコンをプレゼントしたことがあ
った。
そのUSBメモリーの、どこかの外国の離れ島の海の色みたいな青さが、その時の私の目に強く
沁みて、早速、自分のパソコンに差し込み画面を開くと、「あなたへ」とタイトルの書かれた
フォルダがあったので迷うことなくエンターボタンを押した。
妻の友美の驚愕の告白が、そこには連綿と書かれていた…。
続く
の整理ダンスから
だった。
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