合縁奇縁という昔の言葉通り、連休明けの火曜日の午後、帰宅部の僕は電車に揺
られていた。
この時間の、この電車には絶対に乗らないはずの女子生徒が、前の車両から僕の
いる車両のほうに向かってきていた。
すらりとした背丈で、髪を長く伸ばして、健康的に日焼けした顔の中の、くりっ
とした切れ長の目と、つんと澄ましたように高く尖った鼻と、少し大人びた感じの
細い顎の外見で、僕はすぐに村山紀子だとわかり、咄嗟に僕は今は目を合わさない
ほうがいいだろうと判断し、目を窓外の流れゆく景色に向けた。
実をいうと、村山紀子と僕は、一年の時の五月から十月くらいまでの半年ほど交
際していたのだ。
かといって別に今の彼女に対して何も疚しいことはしてないし、変な意識を持っ
ているわけでもなかったのだが、別れ方が少し気まずかったこともあったりして、
まだ面と向かって会いたくない気分があったのと、国語教師の沢村俶子からの、何
やら妖しげなメールで村山紀子の名前を聞かされていたこともあり、何げに目を反
らしただけだった。
確か彼女は陸上部の短距離の花形選手で、秋の高校総体での活躍が注目されてい
ると、学校内でも騒がれているようだ。
今のこの時間なら、彼女は学校のグラウンドにいなければならないはずだった。
窓外に流れ飛んでいく景色を見るともなしに見ていた僕の真後ろで、
「雄一君」
といきなり呼びつけられ、慌てて振り返ると、そこに立っていたのはさっき見た
村山紀子だった。
まだ彼女と交際している頃、二人だけでいる時は、姓ではなく名前で呼び合おう
と、密かに決めていたのだ。
それで紀子は僕を名前で呼んだのだった。
「な、何だよ」
僕は故意的に肩をいからし、ぞんざいな口調でいった。
「あなたに会いにきたの」
「僕に…?」
「次の駅で降りない?」
「何で?」
「話があるから」
まだ二言三言のやり取りがあったが、結局次の駅で僕は降ろされた。
降ろされて駅前をうろうろ歩かされて着いたのが、国道沿いのスターバックスだ
った。
客は若者がほとんどだったが、店内はそれほど込んでもいなかった。
「私が誘ったんだから、私が奢るね」
「当然だろ」
「言葉交わすの久しぶりね」
「半年以上だ」
「…まだ怒ってる?」
「当たり前だ。僕は執念深い」
「あら、そうかなあ?」
「それより、陸上部のスター選手が、こんな時間にサボってていいのかよ?」
「だから相談があるって」
「何だよ、早くいえよ」
「…恥ずかしいんだけど、私の叔母さんのことでね、ちょっと…」
いつもなら快活に話して、快活に動いて、快活に答えを出していた紀子は、それか
らもはっきりとしたことをいい澱んでいたのだが、どうにかの思いで、日焼けした顔
をかなり赤らめて話した内容は、大人社会そのものの、男女間の生々しく、ある種の
淫猥さも窺い見える事柄で、高校二年の自分では到底解決できない事案だった。
だが話の経緯をよく聞くと、今の僕の人には話せない裏面と、かなりの部分で重複
しそうな面もありそうだったので、同級生で元カノの紀子には悪かったが、僕自身は
正直なところ相当に興味はそそられた。
しかし、どんなことがあっても、この紀子にだけは自分の裏面は見せたくないと、
その時僕は強く思った。
叔母さんというのは、紀子の母親の三つ上の姉のことで、その叔母さんが自分より
二十以上も歳の若い舞台俳優に惚れ込んで、今、まさに現を抜かせているというのだ
った。
その叔母さんは五年前に夫と死別していて、その夫が残してくれたかなりの資産で
悠々自適の身分で、幸か不幸か子供は出来ていないということのようだ。
どうにかしして、その叔母さんの目を覚ましてやりたいと、女子高生の紀子は純粋で
汚れのない、そして若い正義心で事の解決を図ろうと躍起になっているのだった。
「それで何?君は沢村先生にそうだんしたんだって?…そんなことを迂闊にべらべら
と喋るんじゃないよ」
「ごめんなさい。」
「いや、あの先生はあまり裏がなさそうだし、他人にべらべらとそんなこと喋る人じ
ゃないから、正解は正解だったかも知れないけど、こんな問題は学校の先生だからとい
って簡単に解決できることじゃないんだよ」
少々気負って話した僕の顔を見つめていた紀子は、
「雄ちゃん、見直した。すごく成長したように見える」
といって、まだ僕の顔から視線を逸らさないでいた。
「まあ、大人同士の男と女の間のことだから、一朝一夕にはことは進まないだろうけ
ど、僕を捨てた紀子に頼まれたことだから、気にはしといてやるよ」
「ありがとう。久し振りに雄ちゃんと、こうして話せてよかった。…また好きになっ
ていい?」
「もう失恋はこりごりだよ」
「バカ…」
一度その叔母さんの顔が見たいと、僕は紀子の目を見ることなくいうと、無邪気な顔
で彼女は、一緒に叔母さんの家に遊びに行きましょと、嬉しそうな顔でいった。
これから週に一回、このスタバで会うことを約束して、僕たちは別れた。
電車の中で俶子のことを思い出していた。
この問題で、僕の名前を紀子に告げたことを叱ってやらないと、と思ったが、叱られ
たり罵られたりすると悦ぶ彼女には、あまり効果は期待できないなと電車の吊革にぶら
下がりながら、一人で苦笑いしたら、前の座席に座っていた七十くらいのお婆さんに嫌
な顔をされた…。
続く
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