「病院の先生は、早くこちらへ連れてこないと、適切な延命措置がとれないといって
入院を勧めるのですが、本人が畳の上で死にたいと聞かないので、私も弱っています」
古村氏はそういって頭を抱えるのだが、いずれにしても、吉野氏の死期はもう指で数
えられるくらいに迫っていると古村氏は嘆くのだった。
祖母と僕に古村氏が苦しい胸の内を吐露しているのは、吉野氏の寝室から一番遠いダ
イニングのテーブルの前だった。
「私と吉野さんは、最初は仕事上だけの付き合いだけだったんですが、あの人の奥さ
まが不慮の交通事故で亡くなられて、その時の落胆がひどく大きく、生活も一気に荒れ
すさみ、いつも傍にいた私は見ていられなくなって、ついつい今日までの深い付き合い
になってしまいました。お孫さんを前にしてあれですが、吉野さんの縁で昭子さんとい
う素晴らしい方にもお会いできました。…今はもう一日でも長生きしてもらえればいい
とだけ願っているんですけどね」
古村氏は苦しげに顔を歪めながらいって、椅子から立ち上がり、力のない足取りで吉
野氏の寝室に向かって歩いていった。
祖母と僕の二人は交わす言葉もなく、悄然とした顔でテーブルで向かい合っていたが、
今の古村氏の話を聞いたせいなのか、
「私、今日はここに泊っていくわ。雄ちゃん、一人で帰って」
と祖母が徐にいい出したので、僕は少し驚いたように改めて祖母の顔に目を向けた。
「もうこれが最後かも知れないから、傍にいて話があれば聞いてあげようと思って」
付け足すように祖母はいって、僕の顔を何か意味ありげに見つめてきた。
「何だよ」
気味悪がって祖母に聞くと、
「あなたのことも心配だけど…」
と重ねて意味深なことをいってきた。
心の中に少し薄ら寒いものを感じながら、
「何だよ、一体?」
と口を尖らせ気味にいうと、
「ほら、お祖父ちゃんの口になった。やましいことあるの?」
「あ、あるわけないじゃん」
「お祖父ちゃんがやましいことすると、そういう口になるの
「何もない」
「栄子さんにも申し訳ないといっといて」
「あ、ああ、わかった」
「何かおかしい…」
「お客の人に興味ない」
「興味のある人いるの?」
「目の前に」
「あら、嬉しい。向こうへお茶持ってくわ」
吉野氏の病のことで重苦しい気持ちを払拭したかったのか、祖母は僕を明るくからかっ
て、盆にお茶の用意をして、吉野氏の寝室に足を向けていった。
間もなくして、僕は帰ることを告げに吉野氏の室を訪ねた。
「今日はありがとう。久し振りに若い青年、いや、まだ少年なのかな。若い声を聞かせ
てもらって元気が出たよ。もう少し長生きできそうだ」
励ましの言葉をかけようとした僕だったが、病人の吉野氏から逆にそんな声をもらって、
僕は古村さんの車で駅まで送ってもらった。
「君といると少し恥ずかしい気分になるが、あまり屈託のないその顔見ると、苦笑いが
できるのが嬉しいよ、盗み見君、はは」
古村氏からの僕への車中でのコメントだ。
戸も閉まって、灯りもすっかり消えている雑貨屋の前の駅を降りると、スマホにメール
着信があった。
祖母からだ。
(今夜、お寺の住職さんも泊まりに来ている。寺の前を夜もうろつく男たちが怖いとい
って。あなたが心配。お休みなさい)
乗客もまばらな列車の中で、考えていたことがあった。
家に帰ったら尼僧の妹の栄子さんがいる。
今日の午前、僕はふとしたことで、会ってまだ一日目の栄子さんを、少し乱暴だったが
女として抱いている。
彼女も抗う素振り一つ見せず、僕に順応してのことだ。
そんな女の人が待つ家に帰って、何もないまま時間が過ぎるわけがない。
きっと何かが起こる。
吉野氏の家のダイニングで、祖母がいみじくも懸念したことだ。
今日の午前のことは午前のことと割り切って、自分はおとなしく一人の布団に入れるの
かどうか?
相手の栄子さんの気持ちもある。
今日の午前のことは、ふとした気の迷いだったといってくれるのが、一番ベストな解決
手段だ。
僕にしても本心をいえば、ほぼ初対面に近い栄子さんに舞い上がって臨んだ行為ではな
かったような気がする。
動物的にいえば、牡の本能での行動だったのだ。
列車の固い座席に座って、僕は英子さんの良心も信じて、何も起こらないことを願うと
いう結論に達していたのだった。
局面の急な激変に、確たる対応策も持たないまま、僕は祖母の家までの坂道をやや重い
足取りで歩いた。
昂然と灯りが漏れている玄関戸を、僕はまるで他人の家を訪ねるような気分で、音を立
てずに開けた。
玄関口に女物の、薄い桜色の上品そうな草履が、きちんと揃えて置いてあるのが最初に
見えた。
居間の硝子障子戸の開く音がした。
ポロシャツとジャージ姿の栄子さんの、丸っこい身体が出てきた。
丸い顔のどこかに、助け船が来たという表情がはっきり見えた。
そうだ、この姉妹は仲が良くなかったのだ、ということに僕は気づき、微かに眉を潜め
た。
十六歳の僕に、即座の対処の方法がわかるわけがなかった。
「ただいま」
とだけいって、僕は居間に足を向けた。
白っぽい袖頭巾と白の法衣に、薄紫の羽織り姿の尼僧が、細長い身体を小さく窄めるよ
うにして座卓の前に正座していた。
「こんばんわ、あ、の急なお願いで任し越しました。…お婆さんには」
改めて姿勢を正すような動作をしながら、尼僧は僕に向けて深々と頭を下げてきた。
「あ、ああ、祖母からちゃんと聞いてますので、どうぞご遠慮なさらずにゆっくりして
ってください」
半年前の僕なら到底いえない挨拶言葉が出たことに、内心少し驚きながら、何げに姉妹
二人の顔を見た。
妹の栄子さんはそそくさと台所に向かい、尼僧はまた身体を小さく屈めて恐縮至極だっ
たが、栄子さんが出してくれたお茶を啜りながら、
「今もあれですか、お寺のほうは誰かうろついているんですか?」
と僕が当たり障りのない声で尼僧に聞くと、
「ええ、朝早くからずっとうろついていて、お墓参りに来られる人たちにも、ちょっと
説明のしようがなくて…」
尼僧はそういって蒼白な顔を曇らせ、視線をちらりと斜め横にいる妹に向けていた。
「私も自分の亭主がやらかしたことで、こうして匿ってくれている、ここのお宅も含め
て色々な人に、迷惑かけていることはわかっているんですけどね。でも女の私一人では、
どうしようもないことで…」
僕も尼僧も攻めるようなことは一言もいってないのに、丸顔の妹の声は釈明するような
響きにしか聞こえなかった。
いいにつけ悪いにつけ、姉妹二人のこの雰囲気なら、夜は何とか無事に過ごせそうだと、
僕は勝手に思い込んで、
「あ、あの、栄子さん、風呂は?」
と妹に尋ねた。
一番風呂を僕が先に入り、後はあまり仲は良さそうではないが、姉妹二人にまかせてす
ごすごと祖母の寝室に退散した。
あの吉野氏と対面したこともあって、僕は布団に寝転びながら、持ってきたノートパソ
コンを手元に置いて、例の竹野という男が介在する、生け花師匠の件りのページを探し求
めた。
…付近は高級住宅街のようで、周辺のどの家にも高い低いの差はあっても、塀が巡らさ
れていた。
その家も道路に面するところは、瓦を載せた白塗りの塀が巡らされていて、塀の端にあ
る三台分ほどの駐車スペースに、竹野は慣れたハンドル捌きで車を入れた。
夜のことなので詳しくはわからなかったが、石畳と短い草木が生え並ぶ通路の先に、間
口二件ほどの木造りの玄関があった。
三十代くらいの着物姿の女性が出迎えに出て、幅の広い長い廊下を突き当りまで通され、
襖戸が開けられると、六畳と八畳の二間続きの室だった。
八畳間には高価そうな黒塗りの細長い座卓が置かれ、何人か分の酒席が用意されていて、
三人の先客がいた。
お互いに顔は見合わせたが、名前も何も紹介のないままだった。
薄いサングラスに高級そうなブレザーを着込み、派手な色のアスコットタイを覗かせて
いる私と同年配くらいの男と、そのパートナーと思える着物姿の、一見してどこかの芸者
と思われる五十代の化粧の濃い女性と、もう一人は、私もどこかで見た記憶のある三十代
半ばくらいの、顔に化粧を施している男性だった。
三人はどうも仲間らしかった。
竹野と二人で空いている席に腰を下ろし、六畳間に目を向けると室の中央に床が延べら
れていて、まだ人の気配はなかった。
二十年ほど前の、妻の思わぬ実像を見せられた時と、まるで一緒の構図だと思い、私は
少し辟易とした思いになり、許されるなら今すぐここを出たいと思っていた。
私の斜め前にいた三十代の優男が、細長い煙草の煙を天井に向けて吹き上げた時、私は
思い出した。
その男は若い頃にテレビの子供向け番組の戦隊ものに出ていて、今はバラエティー番組
によく出ている、確か二世タレントだったが、名前は憶えていない。
そういえばアスコットタイの六十代の男も、テレビのトーク番組の辛口コメンテーター
として知られている男だ。
そしてもう一つ驚いたのは、六畳間に静かに現れ出た濃紺地に椿の花模様をあしらった
着物姿の女性の顔だった。
テレビドラマの脇役で、上品な母親役とかでよく画面で見かける中年の女優だったのだ。
仕事人間で世間の時勢にはとんと疎い私でも、その女優の名前は知っていた。
何度かの結婚や離婚を繰り返し、今は二廻り以上も年下の若い舞台俳優と半同棲してい
ると、三文週刊誌の広告か何かで出ているのを、たまたまだが最近、私はどこかで見た記
憶があった。
その着物姿の女優は登場してきた時から、手を後ろ手にされ着物の上から麻縄で縛られ
ていた。
女優の背後でその縄尻を手に持って立っているのは、派手な金髪頭に黒のランニングシ
ャツに黒の短パン姿の、まだ二十代そ、こそこにしか見えない小柄な体型の若者だった。
室の間仕切りのところに、どこから出てきたのか、白シャツにネクタイ姿の前頭部が少
し禿げ上がった四十代くらいの男が立ってきた。
その男は進行役のようで、背後にいる男女の年齢と簡易なプロフィールを紹介した。
金髪の男は二十二歳で女優の女性は五十六歳と紹介して、特に女優のほうの紹介には金
髪より長い時間を割いていた。
二十年前の私の屈辱の記憶とまるで同じ流れだったので、私の胸糞の悪さは倍加するば
かりで、ついに堪えきれずに、横にいる竹野に帰りたいと告げた。
竹野が必死で止めるのも振り払って、私は人通りのほとんどない夜道を悄然とした思い
で歩き、運よく通りかかったタクシーに乗り込んだ。
竹野との関りはそれが最初で、普通ならそれで終わりのはずだったのだが、悪縁奇縁と
とはおかしく不思議なもので、それから一ヶ月も経たない内に、私は再び竹野という男と
対面することになり、それで昭子さんという、私にとっては死んだ妻と同じくらい、いや
もしかするとそれ以上かも知れないほどの、深い思慕を抱かせる女性に巡り合ったのだ。
昭子さんのことは別の章で詳しく書くつもりだが、竹野という男の末路について、この
「親友」という章の最後に書いておく。
彼は私に昭子さんという素晴らしい女性を、その手管はどうであっても、紹介してくれ
たのには違いのない人物だった。
しかし、私が昭子さんという女性に、深く気持ちを入れたことを薄々に知った竹野は、
私に脅しめいたことをいい出してきて、それだけでなく誰から聞き及んだのか知らないが、
私が取得している精密機械のある部品の、特許権の権利を半分譲渡しろとまでいってきた
のだった。
そのことを十年ぶりくらいにたまたま会った稲川に、軽いボヤキ程度でいっただけなの
に、彼は私が頼みもしていないのに、迅速に動き、事後報告のように、
「竹野とかいう男のことはもう済んだ。あの男はやくざではないから、人差し指一本で
カタつけた。彼女と上手くやれ」
と私に澱みのない普通の声で連絡してきた。
彼の組織の幹部の者が竹野に、お前が出身県以外に出たら背中に注意しろ、といわずも
がななことをいったとかいわないとかの話も出たようだ。
吉野氏の(親友)という章はそこで終わっていた。
僕には無縁なようだが、男同士の友情とはこれほどに深い絆になることを教え
られたような気がした。
時刻は十一時を過ぎていた。
枕元のスタンドの灯りは、僕の幼少期からの習慣で消さない。
尼僧と妹の栄子さんは、僕が夏休みに使っていた室で、仲良く布団を並べて寝
ているだろうか、と少し気になったが、大人同士のことだから無用な心配はしな
くてよかったという安堵の気持ちと、僕の不埒な頭の中のどこかに妙な残念感み
たいなもがあった。
元々が祖母の寝室なのだから、女臭いのは当然だったが、祖母のとは少し違う
匂いが僕の鼻先を擦ったような気がした。
二、三度鼻を鳴らして見ると、祖母のとは違う匂いが鮮明になった。
自分は今、寝ているのだと脳波がそう教えてきた矢先に、僕の手に何かが当た
る感触があった。
人の身体の感触だ。
無意識に動かせた足が、誰かの足に当たった。
重たい目を開けると見慣れたような顔が、僕の顔の間近にあった。
丸い顔、時によって愛くるしく見える丸い目。
栄子さんだった。
「ごめんなさい…眠れなくて」
熱い息を吐きながら、栄子さんの丸い顔がさらに近づいて、額が当たり、頬が
当たり、鼻先は擦れ合うように当たっていた。
唇もいわずもがなだった。
事情が詳しくわからないまま、僕と栄子さんの唇は深く重なっていた。
僕の眠気は一気に吹き飛んでいて、自分から先に彼女の口の中に舌を乱暴に差
し入れていった。
身体を捩じらせて、栄子さんは小さく呻いた。
ふと気づくと彼女は寝巻姿だった。
唇を塞ぎ続けたまま、僕の手は寝巻の襟の中に潜った。
掌一杯でどうにか掴めるほどの、豊かで柔らかな膨らみだった。
掴み取っている手に力を込めてやると、塞がれた口の中で彼女はまた大きく呻
いた。
一室挟んだ室に、あの尼僧がいるという事実が、眠気から完全に覚めた僕の気
持ちを淫猥な方向へ導き出そうとしている気配のようなものを、僕は身体と心の
どこかに感じ始めていた。
自分が意図したのではない。
相手が諸手を挙げてここに来ているのだ。
昔の言葉でいうと、据え膳喰わぬは何とかだ。
重ねていた唇を僕のほうから放してやり、
「俺が好きになったのか?」
と、自分の二重人格の裏面を出した顔で、僕は彼女の目を凝視した。
「あ、あの時…あ、あなたに罵られた興奮が…忘れられなくて」
「スベタっていわれたことか?」
彼女は恥ずかしそうに黙って首を頷かせた。
「どうしようもないスベタだから、そういったんだよ」
「…も、もっと汚い言葉で罵って」
「スベタのマゾ女か」
「ああっ…か、身体が熱くなってきてるわ」
「向こうに姉さん寝ているぜ」
「あ、姉のことは、い、いわないで」
「お前、俺に指図するのか?」
「ご、ごめんなさい…そ、そんなつもりじゃ」
彼女の寝巻の襟は、もうはだけきっていて露わになった両方の乳房を、僕は両
手に相当な力を込めて揉みしだいていた。
「それじゃ、ここへ姉さん呼ぼうか?」
「そ、それだけはっ」
「じゃ、今すぐここから出ていけ」
「そ、そんな…」
「あれも嫌、これも嫌なんていう女は嫌いだ」
「そ、そんな…」
「いうことを聞かないお前になんか興味はない」
彼女は黙った。
この時僕は、怖ろしいというか、突拍子もないことを頭に閃かせていた…。
続く
、
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