(親友)
私の六十年を超える人生の中で、親友と呼べる人間がたった一人いる。
稲川浩二という男で、私とは幼稚園、小学校、中学校とずっと一緒だった
同級生で、ある意味においては、社会的には精密機械技術者として特殊開発
ともいえる特許取得をしている私よりも、ずっと社会的に名前が浸透してい
るかも知れない人物である。
稲川は所謂、裏社会といわれる任侠組織に属していて、関東地区だけでな
く全国的にも悪名高く名を馳せている、「侠道会」の四代目会長として君臨
している男だ。
たかだか下町の小さな精密機械工場から、どうにかなり上がった一介の油
臭い機械技師と、今や悪名とはいえ日本の首領(ドン)に最も近いといわれ
る男との間に、どれほどの深い繋がりがあるのかというと、然したるものは
なく、寂れた下町でたまたま家が近所で、幼稚園の頃から磁石のように何と
なく気持ちが通じ合い、毎日のように一緒に川の堤防道や、公園を闇雲にた
だ走り廻っただけの記憶しかないのだが、還暦を早くに過ぎた今も胸の中に
いつもいる友達なだけなのだ。
一つだけ事件があった。
二人が小学校五年の時だった。
いつものように公園で私と稲川は、何をしていたのか忘れたが遊んでいた。
その頃の稲川は、小学校一年の妹をいつも一緒に連れていて、遊ぶのは三
人だった。
稲川の両親が共働きで、妹のお守り役で連れていたのだ。
その日の帰り道、川沿いの道を三人で歩いていた時、稲川が突然道路の反
対側で何か深るものを見つけ、そこに脱兎のように走っていった。
それを見た妹も後に続いたのだが、そこへダンプカーが疾駆してきたのだ。
声を出す間もないくらいで、稲川の妹が轢かれるという寸前に、僕は妹の
身体に体当たりするように飛び込んでいった。
気がついたのは病院のベッドの上だった。
僕の傍にいた母親の横に、稲川の母親と稲川と妹の三人が心配げな顔で覗
いているのが見えた。
幸いにも事故は僕の左足首の骨折だけで、妹は奇跡的に掠り傷一つなかった。
僕もどうにか松葉杖で歩けるようになった頃、稲川が僕にいってきた。
「自分の妹でもないのに、よくあそこで突っ込めたな。俺は傍にいて動けな
かった…」
涙声でそういってきたので、
「友達同士じゃないか」
と僕は笑顔でいって、腹に軽くボディブローをくれてやった。
中学校を出て二人の道は分かれた。
私は工業高校の機械科へ進学し、稲川は市内の土木会社に就職した。
稲川が中学一年の時、両親が離婚して、彼は妹と一緒に母親に付いたのだが
生活状況は忽ち悪くなり、高校進学も断念した。
それから私と稲川の交流は音もなく途絶えた。
長く途絶えても、幼稚園から中学三年までに培った、私と稲川の友情には何
の暗雲も立つことはなかった。
高校卒業後、私は下町の小さな精密機械会社に就職し、ひたすら仕事に没頭
した。
そんな頃、稲川の悪い噂が幾つも、私の耳にも聞こえてきた。
勤めていた土木会社も辞めて、街にはびこる不良グループに入ったとか、暴
行事件を起こし、少年院へぶち込まれたという物騒な話ばかりだったが、彼の
喧嘩の強さや度胸のよさを、誰よりも知っている私には、正直いうとそれほど
の驚きもなかったのだ。
学校で習うことと現場での修練の違いは圧倒的で、現場での何もかもの実習
は、私をあっという間に仕事一徹人間にした。
自分で自分の考えを現場で堂々と提案し、意見も述べられるようになったの
は、私の年齢が三十前後の頃だった。
その頃に勤務する会社に、重大な問題が持ち上がった。
会社の社長が会社乗っ取りを目論む悪質なサルベージ会社の罠にかかり、一
気に二千万円もの負債を抱えることになり、倒産の危機に追い込まれたのだ。
サルベージ会社の者が、私の勤める会社の社長に最後通告をしにきた時、そ
の者の携帯が鳴り、耳に当てて数分で、その者たち数人がバツの悪そうな顔を
してすごすごと会社から出ていった。
かかってきた電話相手の指示か命令に、男は声一つ荒げることなく、はい、
はいの言葉をくりかえすだけだった。
また数分後、会社の社長の携帯が鳴った。
怪訝な顔で応対に出た社長の顔が見る間に明るくなり、その場にいた私に驚
きの目を向けてきていた。
社長の話はこうだった。
稲川とかいう人物の骨折りで、二千万の債務もすべて無くなり、元通りの会
社に立ち返ったというのだった。
稲川というのは勿論、私の唯一無二の親友だった。
その日の夜、私は十数年ぶりに電話を入れて、無沙汰の挨拶抜きで礼をいっ
た。
「だって、俺たち友達じゃないか」
それが稲川の、その時の短い言葉だった。
それからも稲川は、どんなに誘っても、私の前に一度も顔を見せなかった。
そしてまた十年の歳月が過ぎた。
稲川の任侠組織の名前は頻繁に、新聞紙上を賑わせてきて、彼の名前もマ
スコミに日を置くことなく出るようになり、組織の拡大化が顕著になってき
たが、私と彼の交流はほとんどないままだった。
この十年の間に私の人生も、大きく変貌していた。
それまでの仕事一徹人間から、自分でも驚くくらいに変容していたのだ。
原因は妻の不慮の交通事故死にあった。
妻の不倫というか、背信背徳の行為を知ってから、私はそのことを何年も
の間、話せないままできていたのだが、ある日の二人だけの夕食の時、仕事
の何かが上手くいって上機嫌だった私は、ついうっかりとそのことを悪気か
らの気持ちではなく、無意識に吐露してしまったのだ。
それからの妻の私に対する豹変は、明々白々で、夫婦の普段の会話も必要
最小限の言葉しか発せず、私の話を聞く時も決して目を合わそうとはしてこ
なかった。
妻の不慮の交通事故死は、それから一年ほど経ってからのことだった。
横断歩道のないところで、歩道から道路に突然飛び出した事故で、警察も
事件性を一時は疑ったようだが、当時の夫婦間の氷のような関係は知るはず
もなく結果的に単なる事故死になった。
残ったのは私一人だけの疑念だけだった。
妻の死後、私の生活は心の中と同じように荒れすさんだ。
定年を迎えた時、会社は私のこれまでの業績を評価してくれて、役員待遇
のままの在籍を進めてくれたのだが、私のほうから固辞して、何することの
ない独り身生活に入った。
妻が亡くなる二年ほど前から、夜の夫婦生活が途絶えていて、その後還暦
を過ぎて暫くの間まで、私は女性の身体には一度も接してきていなかった。
実をいうと私はも何年も勃起不全に陥っていたのだ。
原因は勿論、妻との目に見えない軋轢にあったと思うのだが、性への欲望
すべてが消失してしまったのではなく、自分的には人並みに、女性や性への
欲望や願望は堪えていないと思うのだが、六十を過ぎた体力的な衰えも相ま
ってか、どんな精力剤を飲んでも、私の男子としての機能はずっと不全のま
まだった。
そんなこんなで荒れすさんだ、夢のない生活に明け暮れていた時、私はあ
る人の紹介で、竹野という名前の人物を知った。
四十代半ばで坊主頭の、あまり風采の良くない感じの外見で、丸い目がい
つもどこかをキョロキョロと向いていそうな男だったが、こと女性を扱うこ
とには長けているというのが、紹介者 からの口コミだった。
都内の住宅街の一軒家で、未生流かの生け花を教えている、五十一歳の未
亡人が多額の借金を抱え、金持ちヤンキーの若者に、ン十万円かで身体を捧
げる白黒ショーが見れるとの話を持ちかけてきてるので、よかったらどうか
と、その紹介者がいった言葉に、興味津々とまでの気持ちはなかったのだが、
私は了解の言葉を返していた。
もう随分と前にある人に無理矢理誘われて、結果的にそれで妻の不倫と背
徳めいた裏面を覗き見したことで、後に大きな禍根を残すことになった私だ
が、性に関しての何かしらの強烈な刺激が欲しかった私は、敢えて見学料三
万円というその誘いに乗ったのだった。
ある日の夜の八時頃、竹野という男の運転で、未亡人という女性の自宅を、
私はあまり期待のない気持ちで訪ねた…。
続く
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