奥多摩の懐かしい雑貨屋の前の駅に着くと、白のブラウスにジーンズ姿の祖母の
小さな身体が、古びた駅舎の端にすぐ見えた。
祖母が小さく手を振って、白い歯を覗かせながら駆け寄ってきた。
目を合わすと祖母は嬉しそうに微笑んでいたが、何か違う表情が切れ長の目の端
に見えた。
昼下がりの刻限で、空は生憎の曇り空だった。
「ゆ、雄ちゃん、ちょっと家に行く前に、向こうの公園に行きましょ」
僕の目を見ないまま、祖母がそういった。
何かありそうだった。
僕が夏休みの時、涼しい川の風に当たりに来たり、文庫本を持って休みに来たり
した公園に、僕の返事も待たず、祖母はとことこと歩いていった。
芝生の生えている横に木製のベンチが二う並んでいて、祖母が一つのベンチに静
かに座り込んだ。
「こんなとこへ婆ちゃんが来るなんて、どうかしたの?」
僕も隣に並んで座って、横の祖母の顔を覗き込むようにして尋ねた。
「来る前に雄ちゃんにいうと、来なくなるのが嫌だったからいい出せなかったん
だけどね。…実は、家に今、お客さんが来ているの…」
「お客って誰?」
普通に僕は聞いた。
「雄ちゃんの知らない人で、
婆ちゃんもあまりよく知らない人なんだけど、ある
人にどうしてもって頼まれてしまって」
「どういうこと?ゆっくり順序だてて話してよ」
涼しい川風が頬を撫でていったが、僕の気持ちの中は、今日の曇り空と一緒だった。
いい難そうに、そしてたどたどしく話した祖母の話を要約すると、あの高明寺の尼
僧からの頼まれごとで、彼女の実の妹を暫くの間、祖母の家に住まわせてやって欲し
いということのようだった。
その事情というのがかなり複雑で、矢もすると事件沙汰になる危険性もあるような、
重い頼まれごとのようなのだ。
尼僧のその実の妹さんは県外に住んでいて、結婚して十年以上にもなる夫と小さな
八百屋を営んでいたらしいのだが、夫のほうがある頃からギャンブルに嵌り、妻にも
いえない多額の借金を抱え込み、家族を捨てどこかへ逃げているというのだ。
それとやはり借金に絡む寸借詐欺の疑いで、警察からも捜索されているようだとの
話だった。
六百万ほどの借金には、当然債務者がいて、それがあまり素性のよくない人物のよ
うで、その配下の者たちが、尼僧の妹の夫の行方を血眼で追っているという、何とも
物騒な事柄のようだった。
祖母が尼僧から依頼を受けたのは、まだ三日前のことで、祖母も頼まれた人が曰く
因縁のある人なので、無下に断れなかったということだ。
尼僧の妹は昨日から祖母の家に来ているいうことだった。
小学生の子供がいたが、事情を話して地域の児童養護施設に一時的に保護してもら
っているとのことだ。
「ゆ、雄ちゃんに正直にいって、ここへ来るの止めてもらったらよかった…」
祖母はこれ以上ないくらいに悲しげな顔をして、実際にも目が涙で潤んでいた。
この話を聞いて、これはさすがにたかだか十六の僕には、解決も何もできない
事案だとすぐに思った。
僕の横で小さな身体をさらに小さくして、悲嘆に暮れている祖母にも若輩の僕から
掛ける言葉は何もなかった。
債務者の配下たちは、すでに逃げている男の妻の姉が住む、高明寺まで突き止めて
きているとも祖母はいった。
「ま、僕からは何もいえないけど、折角、ここまで来て、婆ちゃんの家にも行けな
いってのも、あまりにも寂しいから、取り敢えず家に帰ろ」
僕はそういって笑顔を見せながら、祖母の萎れた小さな肩を抱いて、ベンチから立
たせた。
まるで考えてもいなかった驚愕の事態の勃発に、少年の僕はなすすべもなかったが、
何があろうと時間は止まることなく進んでいくのだから、なるようにしかならないと
腹を括るしかないと思って、祖母の細い肩をずっと抱きかかえたまま、懐かしの家に
入った。
灯りも点けていない薄暗い居間に、灰色のポロシャツに紺のジャージ姿の、僕の知
らない女性が、所在なさげにぽつねんと座り込んでいた。
玄関を入ると、多少、気持ちも落ち着いたのか、祖母が間に入るように前に進み出
てきて、双方に向けて名前と簡単な関係を紹介してくれた。
その女性の名前は栄子というのだった。
丸いぽっちゃりとした五十年配の人で、寺の尼僧のお姉さんとはあまり似ていない
顔立ちだった。
商売をしていたという割には人見知りするのか、簡単な挨拶の時も、丸い顔を終始
俯けていた。
ここにいる事情が事情なだけに、それも無理のないことかも知れないと僕は思った。
「雄ちゃんは私の室を使ってね。荷物も室にね」
居間の座卓の前に座り込んだ僕に、台所のほうから祖母が声をかけてきた。
暫く僕は居間にいたが、客の人が気を使って遠慮するかも知れないと思い、僕は自
分のバッグを持って祖母の室に入った。
懐かしい祖母の室の匂いは、こんな状況でも顕在だった。
この匂いと、祖母の身体から発酵される匂いを嗅ぎにきたのも、今回の僕の重要な
目的の一つでもあったので、心は少し安らいだ。
祖母と僕と客の女性との静かな夕食を済ませてからも、どちらかというと僕のほう
も人見知りなので、女性二人を居間に残して、僕は早々に祖母の室に引き込んだ。
風呂も僕が先に入り終え、二つ並べて敷かれた布団の一つに潜り込んだ。
持ってきたノートパソコンで「北斗の拳」のゲームをしかけたが、この状況では身
も入らず、ぼんやりと天井の木目を見ていた。
祖母が風呂から上がり、紺絣の寝巻姿で室に入ってきたのは十一時過ぎだった。
湯上りのほんのりとした顔に、疲労の色がはっきりと見えていた。
室の隅の鏡台の前に座りながら、
「雄ちゃん、ほんとにごめんなさいね。折角、会いに来てくれたのにこんなことに
なってしまって」
と萎れた声で謝ってきた。
「婆ちゃんに何もないなら、その内どうにかなるよ」
楽観ではないが、孫の僕が楽天的な気持ちを持って声をかけてやらないと、祖母の
落胆は増幅するばかりだと思ったので、努めて明るい声で僕はいってやった。
「今日の夕方頃にもね、人相や身なりの悪そうな人たちが、お寺の周囲をうろつい
てたっていうから、ご住職の尼僧さんのことも心配で…」
「婆ちゃん一人が、そんなガラの悪い奴らに喰ってかかったって、どうにもならな
いだろ?やくざか暴力団だか知らないけど、普通の人にいきなり危害を加えるなんて
しないさ」
祖母を慰めながら、僕は僕なりの都合だけで、尼僧のことをかなり気にしていた。
夏休み以来、この村を再訪した僕の一番の目的でもあったことが、不可能になりそ
うな状況に、僕は心の中で少しばかり地団駄を踏んでいた。
自分の布団に入った祖母は、まだ不安の色を濃くした眼差しで、僕の布団のほうを
見つめてきているのが、枕元のスタンドの薄灯りでもわかった。
「昭子…そっちへいっていい?」
真面目に改まったような口調で僕がいうと、
「来て…」
と小さな声が帰ってきた。
祖母の布団に潜り込むと、ほんわりとした空気と一緒に、祖母のあの懐かしい匂い
が、僕の鼻孔を強く刺激してきた。
祖母が自然な仕草で、僕の片手を自分の両手で包み込むようにして掴んできた。
僕も自然な動作で祖母の唇に、自分の唇を近づけていった。
唇が塞がるとまた自然に、祖母のかたちのいい白い歯が静かに開いた。
匂いのない、温かく柔らかな空気が、祖母の口から僕の口の中へ伝わり入ってきた。
僕のもう片方の手が、祖母の胸の辺りでもぞもぞと動き廻った。
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