「あなたに、あんな汚いもの見られて、嫌いになられるんじゃないかと、私、
心配してたの」
三十六歳の国語教師の俶子が、若い娘が恥じらうような表情を見せて、そう
いいながら甲斐甲斐しく狂劇の後始末しながら、風呂の用意までしたりして、
僕を中々帰らせようとはしなかった。
帰るのは夕食を済ませてからにして、と懇願されて、俶子のベッドに寝転び
ながらテレビを観るともなしに観ていると、キッチンのほうからいい匂いがし
てきた。
僕の好きなすき焼きの匂いだった。
窓の外が薄暮から夕闇になりかけた頃、リビングのテーブルですき焼き鍋を
二人で囲んだ時、
「雄一君、すき焼き大好き人間なんだって?」
と俶子が徐に知ったような顔をしていってきた。
「どうしてそれを?」
「あなたが一年の時の同級生の、村山紀子さんから聞いてたの」
「村山から?」
「あの子、陸上部の短距離やってるんだけど、意外に太宰とか芥川の小説が
好きみたいで、よく私に聞いてきたりしてたの」
「女はお喋りが多いんだな」
「あなた、一年の頃、彼女とお付き合いしてたんでしょ?」
「そんなことまで…」
いいながら僕は少年らしく、鍋をつつくのにも一生懸命だった。
村山紀子という女生徒は、学校内では僕が何かにつけ、気にしている女の子で、
交際というほどでもないが、一年の二学期の頃、携帯の番号やメアドを交換した
りしてのだが、三学期の終わり頃に、あることがあってから、今は絶縁状態みた
いになっている。
陸上で毎日陽に当たっているのに、肌の色が白く、女子にしては背も高くスタ
イルもよく、美人系の少しませて見える顔立ちをしている。
男子高校生の間での、秘密の美人コンテストで二位にランキングされているよ
うだった。
「私ね…あなたが一年の頃から、ずっとあなたのことが、ただの男子生徒の一
人としてじゃなく気にしてたの」
「ふーん。こんなマセガキを…趣味悪いんじゃない?」
「あなたはまだ若過ぎるから、自分のことがよくわかってないのよ」
いわれてみて、僕は心の中で妙に納得していた。
小学校の頃の子供みたいな神経が、まだどこかに残っているような面と、自分
とは年齢がはるかにかけ離れている女性への、卑猥な興味や関心を持ったり、性格
も、今、僕の目の前にいる、三十六歳の国語教師の俶子といる時のように、大人ぶ
った嗜虐の心が突然に湧いて出たり、血の濃い祖母との他人には話せない関係に陥
ったりとか、何か支離滅裂のような自分の性格というか気性に、自分自身が手を焼
いているのだった。
「沢山食べてくれて嬉しいわ」
そういって喜ぶ、はるか年上の俶子の顔を見て、好きなものには目がない自分の
幼稚性に、僕は内心で溜息をつくのだった、
「もう一回したいけど、またあなたを汚してしまうといけないから、思い切りキ
スして」
玄関口でそうせがまれて、僕は俶子の膨らみの豊かな乳房を痛いくらいにわし掴
んで、濃厚なキスを長く続けて、彼女の家を辞去した。
帰路の途中で、俶子とはこの先どうなっていくんだろうと考えたが、それをいう
なら、奥多摩でけなげに一人で暮らす祖母のことのほうが最優先事項だという思考
が湧いてきたりして、結局、先の見えないまま、どこかの大臣の答弁のように、僕
は結論を先送りして、ネオンだけがけばけばしく、星の一つも見えない夜の道を家
に向かって歩いた。
日の経つのが早いのか遅いのかわからないまま、九月の十日が過ぎたある日の下
校時、僕のスマホが突然鳴った。
画面を見ると、名前が出ずに番号だけが出た。
「もしもし…」
僕から相手を尋ねると、少しの間があって、
「あ、あの…ゆ、雄一さんですか?」
と聞き慣れていない女性の声が聞こえてきた。
いきなりの名前呼びだったが、思い出せない声だった。
「あの…私、高明寺の…」
それですぐにピンときた。
僕が日記を盗み見した、あの尼僧だ。
でも、どうして?といぶかる僕を察するように、
「あ、あなたの電話番号は、お婆さまに聞きました。突然にすみません。今、
お電話よろしいですか?」
「え、ええ、全然かまいませんよ」
区立図書館の前の通りだったので、僕は横の芝生のある公園に入った。
懐かしい思いのある尼僧からの思いがけない電話は、かなりの長話になった
が、僕の邪悪な心の密かな目論見に合致して、会話の長さがまるで気にならな
かった。
最初に尼僧は自分の名を、真野綾子と名乗った。
そういえば僕は、名前は聞くまで知らなかった。
「…こういうことは直接、お会いしてと思っていましたが、あの、どうして
も私のほうが気になってしまって。…あ、あなたが私にいい残していった言葉
ですけど…」
「あ、ああ…あのことですか。すみません、つい余計なことを」
「わ、私のあの恥ずかしい日記を読んでいないと、出ない言葉ですわね?」
「そうですね。僕のほうが嘘をついていました。ごめんなさい」
僕の頭の中に、そのことで尼僧の前で平身低頭せ謝罪した光景が蘇っていた。
蘇ってはいたが、今の僕の妖しげな邪悪が芽生えだした心には、それほどの
罪悪感は申し訳なかったが湧いてはいなかった。
「それで…?」
少しばかり居直るような声で僕は尋ねた。
「い、いえ…べ、別にどうとは。た、ただあなたが、私の日記を携帯か何か
で撮ったものをまだお持ちしてるなら、処分をしてもらえたらと…」
「大丈夫ですよ、綾子さん。僕があれであなたを恐喝するとか、世間に撒き
散らすとかなんて、全然思ってもいないです。僕の祖母の名誉もあるし」
この会話の主従関係は僕が主だと、邪悪な僕の心は喝破していた。
「今度の三連休にね、そちらへ行く予定をしてたんですよ、僕」
ボクの咄嗟の思いつきだった。
「そ、そうなんですか?」
尼僧のほうも少し驚いたようだったが、
「その時にお訪ねして、消去させてもらいますよ。ご心配でしょうから」
僕は一方的に提案した。
それはいくらでもコピーを撮れるという発想は、五十五、六歳の尼僧からは
思い浮かばないと、僕は推測したのだ。
「そんなことのために…」
「いや、実は僕もずっと気にはしてたんですよ。ああやってお詫びしただけ
ではすまないと、ずっと思ってましたんで、必ずお伺いします」
「か、勝手なお電話差し上げたりして、こちらこそ本当に申し訳ございませ
んでした」
尼僧の詫びの声が終わる寸前に、
「あなたのお顔が忘れられずにいたんで、お話しできて嬉しかったです」
僕は少しばかり生真面目な声でそういって、相手の声を待たず自分から電話
を切った。
自分のどこから、あんなお世辞めいた言葉がすらすらと出てくるのかわから
なかったが、気持ちはすっかりハイになっていた。
祖母の顔をすぐに思い出し、僕はその場でスマホの発信ボタンを押した。
「ゆ、雄ちゃんっ。ど、どうしたの?」
祖母のほうから先に慌てたような声が飛んできた。
「ああ、婆ちゃん、元気にしてる?」
と、そういった後で、祖母を名前で呼ばなかったことを、僕は少し反省した
が、
「今度の三連休ね、婆ちゃんの顔見にそっちへ行くから、また美味しいすき
焼き食わせて」
と明るい声で続けていった。
「ああ、嬉しいわ…」
それだけの言葉が、もう涙に詰まっているような声になっていた。
本当は尼僧を訪ねていくということは、敢えて祖母にはいわなかった。
図書館付近から自宅まで、単純な僕の足取りは軽快だった。
四時過ぎの帰宅で、当然の如く、両親ともに不在だった。
二階の自分の室に入り、ジャージの上下に着替え、ベッドに仰向けになる。
僕の頭の中に、二つの思案が思い浮かんでいた。
あの吉野氏のUSBを開くか、今日の電話の尼僧のアプリを開くかだったが、
答えはすぐに出て、尼僧のアプリを出しに、僕は起き上がりパソコンのある
机に向かった。
スクロールを何回か繰り返し、記憶のある名前が何度も出てくるページで、
僕は指を止めて、凝らした目を画面に向けた。
八月二十九日
「今夜の八時に俺のところへ来い」
まだ蒸し暑い昼下がり、庫裏で食器の洗い物をしていた時に、私は背後か
ら竹野にいきなり襲われ、法衣も頭の袖頭巾も剥ぎ取られ、黒くくすんだ板
間の上で四つん這いにされつらぬかれる。
昼間は誰が来るかわからないから、無体は止めてほしいといってあるのだ
が、時たまに自分が何かで欲情したりすると、竹野は場所を選ばずに襲いか
かってくるのだった。
悲しいのは襲われた時、私が断固毅然とした態度をとれないで、女として
の辱めを受け、そのまま隷従してしまう自分自身の弱さだった。
板の間に四つん這いにされ、竹野の獣のような怒張を胎内深くに突き刺さ
れ、長い時間を要することなく、自身の身体が熱くはしたなく、女の反応を
示してしまう脆弱さが、どうにも憎く恨めしく、そして悲しく思うのだが、
その時も同じで、私は間もなく色欲の魔界に沈み堕ちたのだ。
「ああっ…いいっ」
そんなはしたない声を挙げて、魔界の絶頂へ昇り詰めさせられた後の、竹
野の言葉だった。
「はい…」
項垂れて返事を返すだけの私だった。
夜の八時きっかりに、竹野が一人住む住家の玄関の戸を開けると、上り口に
竹野のものではない靴が二足並べてあった。
気持ちの中で、竹野からの辱めや甚振りを受けるものと思い込んでいた、私
の胸の中に不安のさざ波が立った。
六畳の居間の硝子障子を開けると、まだ記憶も新しい顔が二つ並んで、細長
い座卓に座り込んでいた。
その内の、紺のスーツ姿の男性の顔を見て、私は思わず声を挙げそうになっ
た。
あの日光での妖しげなパーティーの時に、私を抱いた、教え子の野川君だった
のだ。
もう一人はあの時のログハウスの管理者の、確か名前は湯川とかいう五十年配
の男性だった。
慌てて障子戸の外へ逃げようとした私に向けて、竹野の鋭い声が飛んできた。
「あの時のお前の妖艶さが忘れられないといって、わざわざ遠方からお越しに
なった大事なお客さんだ。失礼なことのないようにせんとな」
竹野は勿体ぶったような能書きをいって、私には有無をいわさないような視線
を投げつけてきた。
それでもう私は動けなくなるのだったが、竹野は得意満面の顔でこれからの手
順を二人に向けて話しているのだった。
開けられた間仕切りの向こうの八畳間の中央には、白いシーツの布団が敷かれ
ていた。
「…それじゃ早速、野川さんが最初ということで、向こうへどうぞ。野川さん
もそちらの、お好きな場所に座ってもらって。お前もな」
竹野も立ち上がって、悪魔のような顔をして差配していた。
毅然とした気持ちでここを立ち去るのなら、最初に彼ら二人の顔を見た時だった
と悔やんでも詮無いことだった。
私は真っ暗な洞穴に向かうような怯えを全身に露わにして、布団の横に正座した。
湯川が室の隅で、衣服を脱いでいるのが、私の目の端に見えた。
竹野が湯川の傍にいて、何やら話し込んでいたが、取って返すように私に近づい
てきて、
「お前が抵抗して逃げきれたら、湯川さんは諦めるといってる。教え子の前でや
られるのが嫌だったら、必死で抵抗しろ。向こうは鬼になってくるぜ」
そういい残して私から離れていった。
代わりにトランクス一枚になった湯川が、私の前に立ってきたと思うと、すぐに
身を屈めてきて、いきなり法衣の襟の中に片手を押し込んできた。
本能的に私は湯川の手を掴み、外へ引き出そうと抗いの素振りをした。
しかし、襟に潜り込んだ湯川の手は、私の乳房を真面に掴み取っていて、それだ
けで私の抵抗力の半分近くを阻止されてしまっていた。
私の乳房をわし掴んできている湯川の手の力は、男そのものの強さだった。
二本の手で湯川の手を払い除けようと、私も必死になったが、どうにもならない
まま時間が過ぎた。
鬼の形相になっている湯川のもう一方の手が、私の両襟を手荒い動きではだけに
きていて、片方の肩の肌が露わになりかけていた。
それでもどうにかして湯川に抗おうとしている必死の目で、私は何げに教え子の
野川君の姿を探していた。
彼は隣りの居間の座卓の前にいた。
私と少し離れている分だけ、彼の表情の細かなところまでわからなかったが、ぎ
ろりとした血走ったような目で、こちらを見ているのがわかった。
上から私の身体を押さえつけるようにして、責め立ててきている湯川の強い手の
力で、私の法衣の襟は、無残にも元の原型がないくらいにはだけきっていて、両肩
の肌がほとんど露呈状態になり、二つの乳房も明るい照明の下に露出してしまって
いた。
湯川の身体が、私に凭れかかるようにして屈んできた。
背後に座り込んだ湯川の両手が、私の両方の乳房を淫猥に揉みしだいてきていた
が、私はただ両手を彼の手に載せているだけで、何もできないままだった。
湯川の両手の指先が、私の両方の乳房の頂点の乳首を同時に弄ったり、摘まんで
きたりした時、
「ううっ…」
と私は思わず、はしたない喘ぎ声を漏らした。
熱い電流を身体に流されたような、快感めいたものが私の二つの乳首から全身を
駆け巡ったのだ。
その快感めいたものを振り切ろうとして、顔を捩じらせたすぐ間近に湯川の課を
があった。
湯川の顔がすぐに動くのが見えた。
「ううっ…」
声にならない声が私の口から漏れ出た。
唇が唇でまるで磁石のように塞がれたのだ。
私の気持ちから、逃げようという意志が喪失していた。
湯川の少し煙草臭い舌が、私の歯に当たってきていた。
私は自分から歯と歯の間を開け、湯川の舌を口の中に受け入れていた。
それから先は、もう私に抗いの気持ちは何一つ失くなっていた。
私から離れたところにいる、野川君の顔が次第にぼやけていくのを朧げに感じた。
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