吉野公男、六十七歳、独身、自由業。
まるで予期も予想もしていなかった数奇な縁で、僕はこの男性を知った。
そしてこの老齢半ばの男性の、人生の遍歴や履歴をつぶさに綴った、小さなUSB
メモリーを僕は手にすることになった。
そのUSBメモリーは32GBで、相当な容量が入るのだったが、パソコンの画面に出
してスクロールしても半端でない時間を要した。
脳みその小さい僕が興味と関心が持てたのは半分以下で、後は彼が特許を取得し
たという、精密機械部品に関するデータや、彼が経営していた会社に属する資料等
の羅列で、その方面には全く明るくなく、何の興味もない僕には、正しく「猫に小
判」か「豚に真珠」だった。
「P」とだけタイトルされたアプリがあり、そこを開けてみると、文字の羅列がほ
とんどで、吉野公男という人物の遍歴が、私小説風に大人の流麗な文体で、時には
淡々と、時には感情を丸出しにして書き綴られていた。
タイトルの「P」は単純に、プライベートのPのような気がする。
以下が、十六歳のひねくれたマセガキの僕が、独断と偏見でで抜粋した記述である。
五歳年上の妻の友美との結婚は、私が三十四歳の時の春だった。
きっかけはよくあるところの知人の紹介で、最初の見合い的な対面の時、私のほう
が彼女の容姿端麗さと、つつましやかそうなそぶりに一目惚れして、知人の段取りに
何もかも追随するようにして結婚したのだった。
やや奥目がちの、切れ長の目の中の瞳がはっきりとしていて、少し尖り過ぎのよう
にも見える、筋の通った高い鼻と、輪郭のはっきりとしたかたちのいい唇、その下で
強く握ったら壊れそうなくらいにつつましげな細い顎と、百七十センチは軽く超える
痩身な体型も含め、彼女を妻に迎える私からしたら、どこも非の打ちようのない妻だ
った。
高校を出て大した希望や抱負もなく、小さな町工場に就職した私はあるきっかけか
ら、精密機械部品の製作に俄然、大きな興味を抱くようになり、一心不乱にその仕事
に没頭してしまった。
若い年代にも拘らず、異性への興味や関心は皆無に近く、三十を過ぎても人並みな
結婚も眼中になかったのだ。
それを見かねた会社の上司や知人が、幾度も見合いの話を持ち込んできてくれてい
たのだが、妻の友美と出会うまでは、異性への関心はまるで持てないまま、ただ機械
部品の新しい改革に、日々取り組んでいたのだった。
恥ずかしい話かもわからないが、若い青春の最中、私は男子としての登竜門である
自慰行為も一度もしたことがなかった。
それが友美という女性を、人を介してとはいえ、初めて知った時、私の意固地で偏
屈な殻は一気に瓦解し、人間としても男女の深い関係に付随してくる、表現のしよう
のない悦びを、私は全身に強く感じたのだった。
私は初婚だったが、友美のほうは再婚だった。
しかしそんなことは私には問題外のことで、彼女のそれまでの人としての、また女
性としての遍歴も、私は何ら気にもしていなかった。
結婚初夜の時、私は妻となった友美に正直に、自分はこの歳でまだ童貞だと打ち明
けた。
「気になさらないで…」
友美の優しい言葉に打たれ、曲りなりに童貞喪失の儀式は済んだ。
布団の上で恥ずかしげに、そして切なげに喘ぐ友美に、ただただ感動し、嬉しく思
ったことは、今も私は忘れてはいない。
結婚しても変わらず、仕事に没頭するだけの私に友美は、不平不満の一ついわず妻
としてよく尽くしてくれた。
そう信じて三年が過ぎ、妻の友美も四十の歳を超えた。
子供ができないことを、友美は自分の歳のせいにして、泣いて私に詫びたのだった
が、私は快活に笑い飛ばし、彼女を明るく慰めた。
さらに六年の歳月が流れ、私も不惑を超えた。
その前年、私の長年の精密機械部品の研究労苦が、思わぬ発見と発明に繋がり、半
永久的に一定の利潤が約束される成果となり、特許取得までできた。
その甲斐もあり、私の勤める職場もいつの間にか、町工場から精密機械製造販売会
社に大きく変容していた。
私の職責も、まだ四十を超えて間もないのに、副社長という肩書に代わっていたが、
友美との夫婦生活も子供がいないのを除いて、順風満帆に過ぎていた。
順風満帆がこのまま続き、友美との夫婦生活も平凡に万事悔いなく、安穏な終焉を
迎えるのだと、私は思っていた。
「吉野さん、今夜はね、堅物一途のあなたを陥落させんがための、秘密の大作戦を
講じているんですよ。何が何でもぜひお付き合いしてくださいよ」
会社の役職名が上がれば上がるほど、人との交流は好むと好まざるに拘わらず、多
岐に渡っていく。
赤坂にある高級料理店の一室で、私は有力取引会社の社長と杯を酌み交わしていた。
今日の昼間、そこの会社と大型取引の契約が交わされ、その会社の社長から契約お
礼の接待に、私は海外渡航をしている社長の名代での出席だった。
相手社長は六十代半ばくらいの年代で、でっぷりとした体格と頭がすっかり禿げ上
がっている人で、仕事上何度も顔は合わせていて、交流はそれなりに長くあった。
「いや、もう、ここの美味しい鱧料理をご馳走になっただけで充分至極ですよ」
相手社長は私の声などまるで無視して、座布団から立ち上がり、ロビーに控えてい
た秘書に言葉をかけていた。
秘書の運転する車に乗せられ、どこをどう走ったのかわからないまま、どこかの建
物の地下の駐車場に着いた。
「社長、どこへいくんですか?」
車を降りる前、私は聞いた。
「白黒ショーですよ」
そういって社長は意味ありげな笑みを浮かべたが、仕事一徹の私には意味がわから
なかった。
社長の言葉の意味を、聞き返すことを私は控えた。
頭の禿げ上がった社長と二人でエレベーターに載り、何階かで降りて、私は社長の
後をただついて行くだけだった。
場所はどこかわからなかったが、高級マンションのようだった。
社長が一つのドアの前に立ち、チャイムボタンを押すと、中からドアが静かに開い
た。
玄関の入り口に、ベストに蝶ネクタイ姿の若い男性が立っていて、
「これをどうど」
と目を覆い隠す黒色の仮面のようなものを渡された。
その仮面は目だけでなく、顔の半分は隠れる大きさだった。
通路の向こう側から、かなりの人数がいそうなざわつくような人いきれが伝わてき
ている
「ここへは世間的に、名のある人も来ていますので」
私をここへ連れ込んだ社長が耳元に囁いてきた。
仮面をして短い通路から、応接間のような広い室に出た。
十人くらいの、同じように仮面をつけた人間が、応接間のソファーの辺りに群がっ
ていた。
ドレス姿二人と、着物姿の女性が混じっているのがわかった。
煙草と洋酒の匂いが蔓延している感じだったが、応接スペースが広いのでそれほど
の閉塞感はなかった。
照明は壁に幾つかある、ブラケット灯の弱めの灯りだけで、近くの相手の顔が誰な
のかよく見えなかった。
この時点でも、世情や通俗にまるで疎い私は、何がここで始まるのかわかっていな
かった。
「間もなくですよ」
私を連れ込んだ社長が、また耳元に囁いてきた。
船の銅鑼のような音が、広い室内に短く響いた。
そしてそれが合図でもあったかのように、前方の白い間仕切り壁が、左右に開いて
きた。
十畳以上はありそうな畳の室が現れ出た。
畳の中央には大きな布団が、枕を二つ並べて敷かれている。
照明は室の四方から、映画の撮影機材のような器具から煌々と照らし出されていて、
応接間とは比較にならないくらいの明るさだった。
応接間から最も遠い位置の隅に、二人の人間が恭しげに正座していた。
一人は長髪の引き締まった身体つきの、見るからに若そうな男性で、七分袖の白シ
ャツで、下も白のステテコ姿である。
もう一人は白の襦袢姿で薄い桜色の帯をしている。
女性にしては長身で、身体のどこもかしこも細く見える印象だ。
年齢は横の男性よりもかなり上のような感じだった。
その女性のほうに目を向けた時、私の胸の中に妙なしこりのようなものが、急に発
症した。
微かな不安めいたものが過ったのだ。
二人とも、見てる側の私たちと同じように、目を隠す仮面をしていた。
女性のほうの髪は、肩の下辺りまで真っ直ぐに伸びた黒髪だった。
薄暗い応接間で誰かの声がした。
「簡単な紹介だけさせていただきます。男性の年齢は二十一歳で、女性の方は四十
代とだけ申しあげておきます。尚、このプレイが終わりましたらサプライズ的な趣向
も用意してございますので、どうどよろしくご鑑賞ください」
応接間に小さくくぐもったような声が、あちこちで飛び交っていた。
ステテコ姿の若い男が腰を上げて立ち、長い髪の女に近づき、片腕を取った。
女のほうが男に引かれるようにして、布団の中央に並んで立った。
背は女のほうが少し高いようだ。
男が立ったまま、女の頬を両手で挟み込むようにして、唇で唇を奪いにいった。
若い男の顔がやや上向きになっていた。
年上の女のほうに、抗いの仕草はどこにもなく、ただされるがままに唇を貪り吸わ
れていた。
応接間の後ろのほうにいた私の身体は前に進んでいて、間仕切りの端のほうに立っ
ていた。
疑念がまだ胸の中に、消えずに残っているようだった。
私が前に進み出たのを見てか、私をここに招いた社長のほくそ笑んだ顔が、薄暗い
応接間の後ろのほうでぼんやりと見えた。
若い男の身体が背の高い女から離れた。
目を凝らすと、立ち竦んだ女の襦袢の襟が大きく乱れ、乳房の片方の膨らみが露わ
になりかけていた。
男が布団の中に、事前に忍ばせて置いていたと思われる、赤い縄の束を取り出し、
立ち竦む女の前に放り投げてきた。
それが合図でもあったかのように、女は長身の身体をへなへなと布団に崩した。
渡井はそうであってほしくないという強い思いで、目を凝らして見たが、判断はそ
こでもできなかった。
夜の夫婦の睦み合いで、幾度も手で触れ、肌で感じてきているのに、と私は心の中
で地団駄を踏むしかなかった。
仮面の下の細い顎とか、かたちのいい唇が、私の悪寒のような気持ちを次第に増幅
させてきているのが悲しかった。
男が赤い縄を取って、慣れたような手つきで、女の胸に幾重にも巻き付けてきた。
女の両手が男からの指示もなく、背中のほうに廻っていた。
乱れていた女の襦袢の襟が、さらに大きく乱れ、乳房の片方がほとんど露出してし
まっていた。
桜の蕾のような乳首まで露わになっていて、這わされた縄がその乳首を挟み込むよ
うにして肌に喰い込んでいた。
私はそこであることを思い出した。
妻の友美の左側の足の、太腿の上のほうに黒子が二つ並んであることを思い出した
のだ。
今の時点ではそれはわからないが、その黒子の位置は極めて微妙な箇所にあること
にも、私は気づき、思わず自分一人で戸惑っていた。
長髪の若い男の、女の身体を縛り付ける手管は、川の水の流れのように手際がよく、
長身の女の身体に、赤い縄は吸い付くようにまとわりついていた。
応接間から見ている誰かから、ほおっと溜息が漏れていた。
女を縛り上げた男が若い一息つく間もなく立ち上がり、手にしていた縄尻を天井に
向けて放り投げた。
見ると天井には、頑丈そうな鉄製の大きなフックが何カ所か垂れていて、そこに投
げた縄を上手に引っ掛けたのだった。
男がその縄を下に向けて手繰るように引くと、女の身体が否応なく布団から起き上
がり、その場に吊るされる状態になった。
私は気づいていなかったのだが、縄尻はもう一つあって、その先は女の襦袢の裾の
中に潜り込んでいるようだった。
その縄尻も男は天井に向けて投げ、別のフックに引っ掛けていた。
男が最初と同じように、その縄尻を下に向けて手繰ると、立たされた状態の女の襦
袢の裾が大きく妖しげに割れ出してきて、女の片足が上に向けて上がり出してきたの
だ。
戸惑いと狼狽えの入り混じった複雑な表情で、畳の室を見ていた私に試練の時が近
づいていた。
女の意思に関わることなく、女の細長い足は襦袢の裾を割って露出を大きくしてき
ていた。
妻の友美の二つの黒子があるのは、次第に上に向けて上がってきている、その足の
太腿だった。
私は顔だけ女が吊るされているほうに向けながら、目を固く閉じていた。
応接間から複数以上の溜息が、漏れ聞こえてきていた。
絶望のような思いに、私は暮れていた。
仮面で顔の半分は隠れていても、私たち夫婦ももう十年近くになる。
仕事以外のことには全くの無頓着な私でも、長年連れ添ってきた妻の顎の細やかな
線や唇のかたちのいい輪郭を、他人と見間違えることはよもやないと思っていた。
そう思いながら、心の隅で、この人がどうか別人で会ってほしいという微かな、い
や切なる願望を抱きかかえていたのだ。
その切ない微かな私の願望を、木っ端微塵に打ち砕く声が、薄暗い応接間のどこか
にいた女性の、驚いたような一言だった。
「あら、あの人、あんなところに黒子があるわ。二つも…」
続く
、
※元投稿はこちら >>