夏休みが終わり、五日目の午後だった。
学校からの帰り道、友達も特にはいない僕は一人で、通学路を家に向かって歩い
ていた。
私鉄沿線の駅を降りて、家までの一キロ足らずの道を、いつものように顔を俯け
て、どこを見るでもなく、何を考えるでもなく、僕の悪い癖の歩幅の狭い歩き方で、
広い国道から逸れた住宅街の緩い坂道を歩いていると、
「上野君」
といきなり女性の声で呼ばれた。
足を止め振り返ると、学校でよく見かける女性だった。
現代国語を教えている、女教師の沢村…確か名前は俶子とかいうのだった。
年齢はよく知らないが、三十代半ばくらいで、生徒間の間では、少し濃い化粧が
特徴なのをもじって、マダムと渾名されている女性だった。
これまでにその女教師と僕との間には、生徒と教師以外の関係は何もないし、僕
自身も興味一つ抱いていなかった。
背後から僕を驚かすように声をかけてきた、沢村先生の顔は今日も濃い目の化粧
だった。
肩の下辺りまで伸ばした髪は薄い栗毛色に染まっていて、色白の小ぶりの顔をさ
らに白く見せているような化粧で、横に微かに長い唇の紅の赤さが際立って見え、
細い銀縁の眼鏡の奥の、目の周りのアイラインも濃い感じだった。
濃い目の化粧のせいもあって、美人といえば美人だが、誰から見てもそうだとい
う感じでもない。
夏休み前の生徒間情報では、この春頃に離婚をしているとのことだ。
「上野君、帰宅部だから早いのね」
十メートルくらい前から小走るように、僕に駆け寄ってきて、赤い唇から健康そ
うな白い歯を覗かせて、少し嫌味っぽく話しかけてきた。
淡いクリーム色のツーピース姿で、中の白のブラウスのボタンが上から三つほど
外れていた。
この沢村先生とは何もないはずの僕は、少し慌てたように周囲に目を廻していた。
「今日は午後からの授業なかったので、そこの区立図書館でちょっと調べものし
たかったんで来てたの」
こちらが聞きもしないのに、沢村先生は屈託なさげに話してきた。
百メートルほど先に図書館があるのは、僕も当然知っていた。
「ああ、そうですか」
そういって頭をちょこんと下げて、歩きかけた僕の二の腕を、先生は優しい力で
掴み取ってきて、
「せっかくこんなところで会えたんだから、どこかでお茶しない?」
と掴んだ僕の腕を引くようにしていってきた。
沢村先生の化粧そのものの匂いが、僕の鼻孔をついてきた。
一学期の時の僕なら、間違いなくその誘いは固辞して、一目散にその場から駆け
出していただろうが、この夏休みの自分の激動の経験がものをいってか、僕の足は
躊躇いなく止まり、沢村先生の眼鏡の奥の少し細めの目に、応諾の意を伝えていた。
図書館からもう少し坂を登ったところに、僕もたまに行く個人経営の喫茶店があ
った。
高いビルの一階で、それほど広くはない店内だったが、七十代のマスターが入れ
るキリマンが僕は好きだった。
その店のもう一つの特徴は、新聞雑誌の他に、マスターが読んだものと思われる、
旧い文庫本が細長い棚を占領して置かれていることだった。
店内には短いカウンターに一人と、窓側のボックス席に若いカップルがいるだけ
だった。
僕と沢村先生の、年齢的にも互いに着ている服のバランス的にも、少しばかり奇
異なカップルは、奥のボックスに腰を下ろした。
二人で向かい合うもう少し前くらいから、僕は何かがおかしいと思っていた。
先生のとの間の空気に、奇妙な違和感を抱いていたのだ。
出されたコーヒーを二口ほど啜った時、
「この前夏休みの宿題レポート出してくれたじゃない?」
と静かな口調で切り出してきた。
例の僕の田舎の高明寺の、平家の落人の歴史についてまとめ上げて提出したものだ。
あの曰く因縁の、尼僧から借りた寺の資料を基に、どうにかA4用紙七、八枚にまと
めて、僕は書き上げていた。
早速、勉強の話かよ、というような表情で、僕が先生に目を向けると、先生のほうが
かなり戸惑っているようだったので、訝りの目でもう一度先生を見返した。
「ううん、そ、それはとても上手にまとめてあって、さすがに文章上手な上野君だな
って、先生もおもったわ。…た、ただね」
辛そうに、先生のほうが僕から視線を逸らし、横に置いたトートバッグからゆっくり
と折り畳んだ紙片を取り出し、恐る恐るの表情で僕の前に差し出してきた。
A4用紙三枚の、最初のページの書き出しを見て、僕は声も顔も失った。
氷のように固まった僕の頭の中に、記憶がはっきりと蘇ってきていた。
夏休みの終盤の頃、僕はあの寺で見せてもらい、自分のスマホに取り込んだ資料を繰
ったりして、曲りなりに宿題レポートしてまとめ上げた。
日はいつか忘れたが、午後の二時くらいには仕上げて、夕飯まで時間はたっぷりあっ
たので、遊び心で、例の尼僧の愛欲日記をスマホとにらめっこをしながらパソコンに打
ち込んでしまっていたのだ。
それも宿題レポートと同じアプリの中へ、取り込んでいたことを忘れ、それをコピー
して添削や確認をしないまま、今、目の前にいる沢村先生に提出していたのだった。
「そ、それは…あ、あなたの創作なの?」
上擦ったような声で聞いてくる先生の目を、僕は当然に正視できなかった。
二学期早々にこれかよ、と僕は心の中で愚痴りながら、残っているただコーヒーに手
も出せず黙りこくってしまっていた。
悲しいことに詳しい説明が、目の前にいる沢村先生に、どうしても話せない事情があ
るのだ。
タイミングが悪いというのか、店内に流れてきている静かなBGMが、この場にまるで
ふさわしくない、尾崎豊のあの曲だった。
「…高校の国語教師の私としていえることは、あれがあなたの創作ではあってほしく
ないってことだけ」
顔を俯けたまま、沢村先生は静かな口調でいって、冷めかけたコーヒーカップに手を
伸ばしていた。
先生はもしかして、このことを僕に告げるために、帰宅部の僕の時間に合わせて、あ
の坂道で待っていたんじゃないか?
ふと僕はそう思った。
それはそうだ、こんな話は学校の職員室でできることではない。
そう思うと、それまで僕の意識の中に全然存在していなかった、この沢村先生に奇妙
な親近感のようなものが、心の中に湧き出てきていた。
「あ、あれは、僕の創作なんかじゃありません」
意を決したような顔で僕がいうと、
「そ、そだわよねぇ。先生もそう思ってた」
とそういって、安堵したような笑顔を見せた。
そして、それから三日後の土曜日、僕は沢村先生の訪ねていた。
喫茶店でのすこし面映ゆいような面談の翌日、昼休みで校庭に出ようと玄関にきた時、
また背中のほうから沢村先生に声をかけられた。
周囲に人がいないのを確認して、
「この土曜日、何もなかったら、私の家に来ない?」
と早口で聞いてきた。
「はい」
何も考えないまま僕が即答すると、
「これ、私の家」
そういって先生は、すぐに僕の前から離れていった。
僕が登下校でいつも乗降する駅から、僕の家から反対方向に歩いてに十分くらいのと
ころに建つ五階建てのマンションの五百二号室だった。
沢村先生は、休日ということもあって、化粧もほとんどしていなく、白のポロシャツ
にチェック柄の短パン姿だった。
玄関を入ると、すぐに女性の化粧の匂いが僕の鼻をつき、祖母の住む田舎から帰った
何日間か忘れていた、妙に上擦ったような気持ちを、僕は思い出していた。
「この前行った喫茶店ほど美味しくはないけど、コーヒー、もうちょっとだからね」
キッチンで忙しなげに動き廻っている先生の顔は、学校にいる時とはまるで違ってい
た。
※元投稿はこちら >>