僕が布団から起きて室を出たのは、午後の一時過ぎだった。
家の中は静かでがらんとしていた。
蝉の細かな鳴き声だけが、外から聞こえてくるだけだ。
祖母はいないようだった。
祖母の気持ちを察すると、起きてくる僕を待つのは、やはりいたたまれないだろ
うなと思った。
もしいたら、僕も相当に困っていたかも知れない。
朝方早くから、僕は祖母の身体を求め、そして長い時間抱いた。
途中で何があったのか、祖母のほうは兎も角、僕の人間性のようなものが、自分
でも驚くくらいに、とんでもない豹変の憂き目に陥っていた。
祖母の小さな身体を、僕が騎乗位にして淫靡に責め立てている時だった。
何かが僕の全身と心の中に、何の予兆もなく摂り付き、僕の人格をまるで別人の
ように豹変させたのだ。
当事者の僕に、その原因がわからないのだから、どうにも納得のしようのないこ
とだが、それで僕は祖母に、自分でも信じられないような罵りの言葉を吐いたり、
侮蔑的なことをいって、祖母の身体だけではなく、心まで折れさせるような甚振り
を繰り返していたのだ。
だから、今ここに祖母がいたら、一体自分はどういう顔をしたらいいのか、と心
を悩ませたのだ。
朝飯も昼飯も喰えていないが、空腹感はあまりなかった。
冷蔵庫の前でミネラルウォーターを飲んでから居間に入ると、座卓の上に白いメ
モ用紙が置いてあった。
祖母の字だ。
(畑に出かけます。鍋にカレー作っておきました。戻るのは夕方です)
祖母のその字を見て、単純な僕は少し安心して、カレーライスをぱくついた。
点けたテレビを観るともなしに観ていたら、どこかの寺の全景が映し出され、そ
こで僕ははたと思い出した。
そうだ、高明寺に行くことになっていた。
昨日の朝、わざわざ尼僧本人がこの家まで持ってきてもらった、寺の歴史を書き
綴った資料を返却しに行かなければいけなかった。
僕は慌てて顔を洗い、何故か歯磨きだけ入念にして、短パンをジーンズに履き替
えて、自分の室から借りた資料の包みを持ってきて、小走るようにして玄関を出た。
昨日のうちに資料の全部を、スマホの中に撮り込んでおいてあったのだ。
寺までの草だらけの細道を歩いていると、昨夜のことも忘れ、僕は鼻歌を口ずさ
んでいた。
尾崎豊のアイラブユーだった。
iloveyou いまの暮らしの中では辿り着けない
ひとつに重なり生きていく恋を
夢見て傷つくだけの二人だよ
このフレーズを僕は前から好きだったが、何となく今の祖母と自分に重ねた気分
で口ずさむと、夏なのに鼻水が出そうになっていた。
祖母と僕では、所詮、恋ではないか、と妙な納得をしていたら、寺の本堂の前に
出ていた。
タイミングよく本堂の正面の、木製の階段を下りてくる長身で細身の尼僧と目が
合った。
驚いたような顔をしながらも、尼僧は僕を自分の住家に招き入れてくれた。
玄関を入るとすぐに、祖母の室のあの匂いとは少し違うが、女性的で香しく、何
かをそそられるような匂いが充満していて、不謹慎にもまた僕の下半身がびくんと
した動きを放った。
借りた資料を返却するだけのはずが、尼僧一人が住む住家の中まで招き入れられ
た僕は少し面喰いながらも、尼僧の背中の後をついて行くと、奥座敷の八畳間の座
卓の前に座らされた。
黒色の立派そうな座卓の前で、恐縮至極の思いで顔をキョロキョロさせていると、
白の袖頭巾姿の尼僧が、麦茶を載せた盆を手にして、静かな足取りで室に入って
きた。
恐縮の思いに尿なそわそわ感も加わり、出された麦茶の味も、僕はよくわからな
いでいた。
座卓を挟んで真向かいに座った尼僧の顔に、特段の表情はなかったが、それが却
って僕の気持ちに微かな不安を募らせた。
そして間もなく、僕の不安は的中した。
「ごめんなさいね、勝手に足止めしてしまって」
と物静かな口調でいった後、思いもしていなかったことを話し出したのだ。
それはこの前、僕が寺のごみ焼き場で、尼僧の書いた日記を忙しない動作で、ス
マホで撮影していたことを知っているということだった。
「あの日、たまたまある檀家さんの奥さんが、お寺の掃除の手伝いに来てくれて
いて、あなたがごみの焼き場でそんなことをしていたというので…」
僕に気遣うように、声の調子を落としながら話した尼僧の薄化粧の顔を、僕は返
す言葉もなく凝視するしかなかった。
こちらに一切の弁解の余地はないと、僕は即座に判断し、畳に強く手をついて、
「ごめんなさいっ」
と強くいって、頭を深く下げた。
それから室の中には、かなりの沈黙の時間が漂い流れた。
「…もう起きてしまったことは、いまさらどうしようもないことだわ。…で、あ
なた、それをどうなさったの?」
尼僧の穏やかな口調には、憤怒の印象がないようなのが、僕の気持ちの大きな救
いだった。
「何も、誰にも見せてなんかいません。僕のスマホに残っているだけなので、こ
の場ですぐに消します」
そういって僕は、慌てた動作でポケットからスマホを取りだし、座卓に身を乗り
出すようにして、尼僧の目の前でデータ消去の作業を急いだ。
スマホの画面にデータ消去完了の文字が出て、それを尼僧に見せると、彼女は少
しほっとしたような表情になり、法衣の肩を小さく揺らせた。
「ごめんなさい、すみませんでした」
もう一度僕は畳に手を付け、頭を深く下げて詫びをいった。
頭を深く下げながら僕は考えた。
昨日の朝、わざわざ僕の家を訪ねてくれたのも、資料提供の他に、僕に会ってこ
のことを確認したい意味が大きくあったのだと。
いい気になって、卑猥な気持ちで読み耽っていた、自分の馬鹿さ加減を蔑み、自
嘲的に笑うしかなかった。
「もういいから、このことは私も忘れるから、あなたも元気出して」
尼僧の声は優しかった。
「最後にね、一つだけ聞かせて。…日記の中味って…あ、あなたも読んでないの
ね?」
という尼僧の言葉に、
「読んでいませんっ、ていうか、写真の写りも悪くて、ほとんど読めませんでした」
僕は明快に嘘をついて、尼僧の住家を辞去した。
帰りの細道では、さすがに尾崎豊の鼻歌は出てこなかった。
家には、次の大きな課題が待ち受けている。
祖母との対面だ。
尼僧の時と同じで、気まずくなるのは目に見えている。
が、越えなければならない関門だ。
最後の最後まで激動だった、僕の夏休みが終わり、明日には、もうこの村から出てい
くというのに、十六歳の少年の試練は果てしなく続く…。
続く
くのだ
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