翌日三月三十日の朝の七時半頃、朝食を終えると社長さんは葉山の邸宅を出てご自分の仕事に戻っていきました。
海外に出張に出るので二ヶ月は邸宅には戻れないそうです。
緊急性がある場合はLINEで連絡願いたいとのことでした。
さて社長さんが出かけてしまうと私は掃除や洗濯を始めることになるのですが、実はまだ駿一君が起きてきていません。
何時ごろ起床して朝食にするのか伺っていませんでした。
もう九時を過ぎていますが起こしてよいものかもわかりませんのでとりあえず洗濯を始めることにしました。
駿一君が上下スウェット姿で起きてきたのは十時過ぎでした。
「駿一君おはよう、朝ごはん食べるでしょ?」
私は駿一君に気に入られようと笑顔で明るく話しかけました。
すると駿一君は急に不機嫌そうな顔をして無言のままテーブルの前に座りました。朝ごはんは食べるつもりのようです。
私は「食べる前に着替えて顔を洗ってらっしゃいよ」と言いかけましたが、駿一君の表情を見てやめました。
パンとコーヒー、ハムエッグとサラダを出しました。
「コーヒーじゃなくてココア」
駿一君が不服そうな顔をして低い声で呟きました。
「あ、いつもココアを飲んでるのね? ごめんなさい」
私はすぐにコーヒーを下げてココアを用意しました。
ほとんど口をきかないと伺っていましたが、自分の要求はしっかりと主張する男の子のようです。
駿一君が食事をしている間、私は彼に聞きたかったことをいくつか質問しました。
三度の食事を何時頃にするか、好みのメニューは何か、お風呂に入る時間帯や俊君の部屋を掃除してよい時間帯、買い物で何か買ってきてほしいものはないか等々。
駿一君はそれには一切答えず黙ったまま食べ続けていました。
仕方ないので私自身が考えたそれらの予定を口頭で伝え、食べ続ける俊君をそのままにして私は掃除を始めました。
食べ終えた駿一君はスマホを持って私のところにやってくるとボソッと「LINE交換」とだけ言いました。
「あ、LINEね」私は笑顔を作ってそれに答えました。
自室に籠ることの多い駿一君は声に出してしゃべるよりも活字でやり取りする方が気楽なのだろうと思いました。
私が選択と掃除を終えたのは十二時半過ぎでした。
何しろ広い邸宅ですから一日で全部を掃除するのは大変です。
毎日掃除すべきはお風呂とトイレくらいでしょう。
駿一君の部屋は一時頃に掃除をしに行くと伝えてありますのでそれまでの時間は私は和室で一息ついていました。
そのときLINEの着信音が鳴りました。駿一君からです。
そこには次のような文言が並んでいました。
「絢子が家政婦を続けるための条件」
最初の一行がこれでした。私はドキッとしました。
「一、俺のことは名前ではなく御主人さまと呼ぶこと
一、俺が要求したことはどんな要求でも必ずきくこと
一、必要なやりとりはこのLINEですること
一、食事や部屋の掃除や風呂の時間は絢子に任せる」
駿一君と親しくなろうとした私の目論見は完全に崩れました。
「御主人さま」「絢子」――雇用主と雇人という主従関係を明確にすることで「気安く話しかけるな」と言いたいのでしょう。
私は御主人さまの「使用人」として明確に規定されたのです。
「承知いたしました」私は落胆しながらその一行のLINEを返信しました。
一時近くになると駿一君が和室の襖を開けて顔を出しました。
「ちょっと出かけてくる、部屋掃除しといて」
「わかりました、行ってらっしゃいませ」
何の前ぶれもなく襖がスッとあけられたことには驚きましたが私の口からは自然に敬語が出ていました。
そのときから彼は駿一君ではなく御主人さまとなりました。
御主人さまが出かけた後、私は彼の部屋へ掃除に行きました。
二階東側の角部屋です。
十二畳のフローリングで、勉強机、何層構造にもなっている大型の本棚、大きなテーブルの上にはパソコンのモニターやキーボード、ゲーム機器、ベッドの脇にはテレビとDVDデッキ、オーディオ関係の機器がありました。
やはり思った通り部屋の中は散らかし放題でした。
脱ぎ捨てた衣服、食べ残したお菓子類やカップ麺の容器、飲み残したペットボトルが至る所に散乱していました。
私はそれら一つ一つを全て片づけ、水拭き雑巾で拭き掃除をしてから掃除機をかけました。
洗濯した新しい衣服をクローゼットの棚にしまい、ベッドメーキングも丁寧に仕上げました。
そこまでで一時間半もの時間を費やしていました。
実は最初に部屋に入ったときから気になっていたのですが、私が御主人さまの承諾なしに片づけてよいものか迷ったものがベッドとテーブルの上にありました。
成人用DVDと成人用玩具、いわゆる大人のオモチャです。
もう中学を卒業したのですから異性に強い興味をもつ年頃ですし盛んな性欲を自分で処理することもあるでしょう。
私も一度は結婚した女ですから、離婚した夫からもこのくらいの年齢の男の子の性的欲望については聞いていました。
ゴミ箱をはじめ部屋のあちこちにあの独特の香りを含んだティッシュがたくさん投げ捨てられてありました。
ただ普通はそれくらいの年齢の男の子ならば他人にそういったことを知られたくないし恥ずかしいという気持ちをもっていると思うのです。
私が掃除をしに部屋に入ることがわかっていながらこのようなものを隠すことなく放置して出かけてしまうというのはどういうことなのでしょうか。
どう考えてもうっかりではないような気がします。
高校生になる男の子にとって私のような年齢の女はどういうふうにとらえられるものなのでしょうか。
もちろん母親ではないし恋愛の対象でもないと思います。
単なる使用人だからどう思われてもかまわないということなのでしょうか。
つまりは家政婦など道ばたの石ころ同然だから恥ずかしさを感じることもないということなのでしょうか。
私がこれらのものを片づけようが片づけまいが御主人さまは私がこれらを目にしたことは知っているはずです。
それならばこれらを片づけておかないのは却って具合が悪いことになるのかもしれません。
「なんでこれらだけ片づけなかったのか」
と御主人さまに詰問された場合、どう答えればよいのでしょう。
これらが性的な物品であることに私自身が処女のような羞恥心を感じてしまったから?
御主人さまの恥ずかしい秘密について私は気づきませんでしたよというフリをしたかったから?
そんなことであれこれ余計な思案を巡らすくらいなら他の物品と同じようにさりげなく片づけておくほうが自然でしょう。
私はそれらをさも当たり前のように、つまりはホテルの従業員の仕事と同じように普通に片づけておくことにしました。
私はDVDをすべて拾い集めると本棚に並べなおしました。
本棚はスライド式で何層か奥に本棚が隠れているのですが、見ると、成人用の漫画、雑誌類や写真集、DVDばかりでした。
ざっと見ただけでも何百冊、DVDも何百本もありました。
DVDを本棚に戻す際にパッケージがいくつか目に入りましたがどれも女性の体を男性の性的欲望のはけ口としか考えていない過激なタイトルでした。
大人のオモチャについては男性用のものがいくつか散らかっていましたが、これは使い捨てだと思われるので処分しました。
扱いに困ったのはおそらく女性用の電動式のものです。
大小何種類かあり、これを御主人さまがどうお使いになったのかわかりませんが、処分してはいけないものなのでしょう。
とりあえず洗面所へ持っていき、一つ一つ丁寧に水で洗浄して乾かした後でテーブルの上に並べておきました。
夕方に御主人さまが帰ってきました。
コンビニのビニール袋をさげていました。
おそらくゲームセンターで遊んだあとコンビニに寄ってお菓子を買って帰ったのでしょう。
御主人さまはそのまま黙って二階へ上がって行きました。
私は内心ドキドキしていました。
綺麗に片づけられた部屋を見て御主人さまがどんな反応を示すのか気になって仕方ありませんでした。
文句を言われるようなことがなければいいのですが……。
けれども私が心配するようなことは何も起こらず静かな時間が二時間ほど過ぎていきました。
私は夕食の準備を始め、夜の七時頃「お食事の支度が整いました」とLINEをしました。
三十分ほどして御主人さまがリビングにおりてきました。
テーブル前に座っても無言のまま携帯でゲームをしています。
お菓子を食べていたのでおなかがすいていないのでしょう。案の定、半分以上食べ残して二階に上がってしまいました。
食事の片づけが終わった八時半頃に「お風呂の準備が整いました」とLINEを送りました。
十時過ぎても御主人さまが下りてくる様子がなかったので、私は二階に上がって様子を見に行きました。
廊下を歩いて一番東側のドアの前に来ると、中から女性の艶めかしい声が聞こえてきました。
御主人さまは成人用DVDを観ているようでした。
ときどき何かを激しくこするような音や電動式のオモチャのモーター音や御主人さまのものと思われる低い呻き声が聞こえてきました。
部屋の中で十五歳の男の子が自慰行為をしていると思うと、私の体の中に妙な疼きが湧き起こってきました。
けれども今そんなことを考えている場合ではありません。
声をかけるわけにもいかず私は階下に下りて行きました。
といって先に私がお風呂に入ることもできないので、仕方なく自室でテレビを見ながら時間を潰すことにしました。
御主人さまがお風呂に入ったのは十一時過ぎでした。
カラスの行水のように五分ほどで上がり、また二階に上がって行きました。
私はそのあとお風呂に入り、髪を乾かしたりして布団に入ったのは午前零時を回っていたと思います。
給与は高いけれども大変な仕事になりそうだと予感しました。
御主人さまは高校受験をしていないと聞きました。
つまり四月以降も学校へは行かずにこのような自由で奔放な生活を続けることになるわけです。
私はそれをどうにか改善できる立場にはありません。
御主人さまの意に反した途端、ご主人様の機嫌を損ねてたちまち解雇されてしまうからです。
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