野外での露出。
確かに奴隷を晒して恥ずかしがらせる精神的な責めとして、SMの中ではありがちな責めだ。
しかし、これは主と奴隷の1対1とは基本的に違う性質のものではないか。
そこには、裸の奴隷を見るかもしれない第三者の存在がある。
主からなら、見られても良い。
恥ずかしくても耐えられます。
そんな二人だけの世間から隔離された空間での責めとは違うのだ。
世間の人の視線に晒されるのは、羞恥心だけでなく、社会的な制裁も課せられる可能性がある恐怖心を伴うものだ。
更に、世間の人が服を着ているのに、自分だけが裸体であると言う被差別的な屈辱感も甚だしい。
ゆうかは中学生の時に、友達の家族と海に行き、浜辺から友達の親が車を停めていた駐車場まで、水着で歩いたことがある。
水着と言ってもスクール水着で、季節も夏であり、海から駐車場まで数百メートルを歩くのに其ほど不自然さは無かった。
しかしゆうかは、ロリコン趣味らしい男性のいやらしい視線、祖母くらいの年令の女性からの「女の子なのに、はしたない」と責めるような視線、子供からの「何故このお姉ちゃんは水着で歩いてるの?」と言うような視線が、肌に刺さるように感じたことがある。
もちろんその時は、友達のお母さんが側に付き添って歩いてくれたら、恐怖は無かった。
しかし、不自然で激しい羞恥は感じた。
アンドロメダに憧れるゆうかにとって、海辺で人から裸体に近い姿を見られたことは、激しい興奮にも繋がり、その夜に自分の部屋で裸になり、そっと自分の身体を触っていた。
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