学校の昼休み、この前とは逆に、僕が紀子の教室を訪ね、奥の階段の踊り場に呼び出した。
明日の土曜日に、紀子が友達二人を連れて奥多摩へ行く前日だった。
「すまん、俺、婆ちゃんの帽子家に忘れてきた」
後ろをついてきた紀子を振り返り、両手を拝み合わせて、僕は思いきり頭を下げた。
僕の母が祖母のために編んだ毛糸の帽子を、前に僕が奥多摩へ出かけた時、バッグに入れて
いって渡すのを忘れたので、明日、奥多摩へ出かける紀子に、渡してもらう約束だったのを、
僕がまた家に忘れてきたことを、平身低頭で詫びを入れたのだ。
「で、どうすんの?」
さもありなんという、微かに蔑んだ目で、紀子が聞いてきたので、
「お前、部活、何時に終わる?」
奥歯を小さく噛んで、僕は縋る目で問い返した。
「四時半」
「俺、家に帰ってとんぼ返りするから、どこかで待ち合わせて…」
僕の言葉を遮って、待ってましたというような口調で、
「雄ちゃんがいつも降りる駅裏にね、パスタとピザの美味しい店オープンしたの知ってる?」
と嬉しそうな笑みを浮かべて言ってきた。
「あ、ああ、クラスの女子どもが言ってた」
「そこで待ってる」
紀子はしてやったりの表情だった。
月末で財布の中身が少し心配だったが、自分で蒔いた種だと僕は諦めた。
「ちょうどよかった。ちょっと相談乗ってほしいこともあるし」
そういって、紀子は何かの勝負に勝ったように、スキップを踏んで戻っていった。
帰宅部の本領発揮で、放課後、一番に校門を出た僕は真っすぐ帰宅し、紙袋に入れた祖母の
帽子を持って、ジーンズとダウンジャケットに着替えて、もう一回家を出た。
駅前のアンダーパスを潜って、坂道を上がり切った正面に、周辺の景色とは異質な感じのイ
タリア色丸出しの派手な外装の店が見えた。
去年の年末にオープンしたばかりで、学校の生徒の評判では、色々な野菜を細かく刻んで、
本場のチーズをたっぷり載せた、ピザが美味しいとのことだったが、残念ながら僕は名前を知
らなかった。
店内も外装と同じでイタリア色満載で、客は六割程度の入りで、若い女性客が大半だった。
店の一番奥の、窓に面したテーブルの前で、紺色の丈の長いダウンジャケットを脱いでいる
紀子が見えた。
今、着いたばかりのようで、後ろに束ねた長い髪を揺らせながら、こちらのほうに顔を向け
て座り込み、すぐに僕に気づき、白い歯を目一杯見せて両手を大袈裟に振ってきた。
ごく時折だが、僕でもどきりとするような、十六歳の少女らしくない妖艶な表情を見せるこ
とのある紀子だったが、今は小学生みたいな、色気も何もない無邪気な笑ってきている。
僕は先に祖母への届け物の紙袋を渡してから、
「何か食べるか?」
と少し気の進まないような声で言うと、
「ミックスベジタブル、ビッグ」
とハナから決め込んでいたように紀子は、メニュー表も見ずに言ってきた。
飲み物も忘れず、緑のソーダ水の上に果物が零れるほど載ったもので、
「このビッグピザ、とてつもなく大きいから半分こしよ」
とまるで自分が奢るような口調で言ってきた。
「で、何だい、お前の相談って?」
お互いにピザが最後の一切れになった時、紀子に目を向けて聞いた。
「え?…あ、ああ、大したことじゃないんだけど…」
言うのをやめようか、どうしようか、という思案顔になって、紀子は小さくはにかんだ。
「何だよ。誰か好きな人でもできたっていうような顔して」
「え?そんな顔してる?…やだ」
勿体ぶった末、紀子が告白したのは、僕の最初の問いかけの逆パターンのようなことで、今年、
卒業していく三年生の男子の一人から、思いも寄らない交際の申し込みをされて、少し弱ってる、
ということだった。
「へぇ、モテる女は違うね」
冗談口調を交えて最初は聞いていたのだが、話を詰めて聞くと、相手はかなり真剣で、誰に聞
いたのか紀子の電話番号やメアドを知っていて、相当な頻度で連絡してきたので、彼女ははっき
りと交際申し込みを断り、電話もメールも着信拒否にしますと宣言したにも拘わらず、この頃は
部活をしているところを、遠くから見に来ていたり、学校の登下校の時も意味もなく尾行された
りして、最近は少し怖い思いをしているとのことだった。
「何て奴かわかってんの?」
さすがに僕も真剣な声で尋ねると、二年、三年と生徒会の書記をしていた三村則夫という人物
だと紀子は言った。
僕はその人物は、顔だけぼんやり憶えているだけで、学校では一度も喋ったことはなかったが、
関西の京都大学への入学が決まっているとのことのようだった。
髪を真ん中で分けて、アスパラみたいにヒョロリとした体型で、色白の優男風の男だったよう
な気がしたが、父親がどこかの銀行の取締役をしているそうで、紀子に最初の頃に着ていたメー
ルでは、自分は京都大学へ行くので、君もぜひ、出来れば京大か、京都近辺の大学を受験してほ
しい、と独りよがりで身勝手な文言を送ってきていたとのことだ。
学校では男子生徒相手でも、ズケズケと意見を言ったりして、怖いもの知らずだと思っていた
紀子も、この三村という一年先輩の男子からの、まるでストーカーまがいのアタックには手を焼
いているというか、少々怖気づいてる感じだった。
「来週で俺がケリつけてやるよ。だから安心して、奥多摩行ってこい」
頭では全然思ってもいない言葉を、僕は言ってしまっていた。
紀子のほうも少し驚いたような目で、僕を見つめてきた。
引っ込みのつかない言葉を言ってしまって、心の中でしまったと思っていた僕を、紀子がうっ
とりした顔で見てきていたので、
「まぁ、自分の彼女に手を出されて、知らないふりしてたら、男の沽券にも拘わるからな」
とまたいわずもがなの台詞を、僕は言ってしまった。
「あなた、喧嘩もあまり強くなさそうだから、無茶なことしないでね」
あてにされているのか、期待されていないのか、わからない言葉を紀子は臆面もなく言ってき
たが、目が嬉しそうに笑っていたので、文句は言わないでおいてやった。
財布に二百五十円しか残らなかったが、どうにか食事代は払えて店を出ると、紀子は駅裏にも
ある改札口に行かず、僕が帰るアンダーパスの道を、片腕を痛いくらいに掴み取って、僕に密着
して歩いてきた。
「痛いよ、お前。改札口、そこだぜ?」
手を振り払おうとすると、
「表まで恋人歩きしてあげる」
「いいよ、誰かに見られるぞ」
「恋人同士なんだからいいじゃない。それに…」
「それに何だい?」
「私のこと、一番に思ってくれてるのわかったから」
「そんなこと、俺、言ったか」
「目が言ってた。嬉しかったわ」
べたべたとしがみついてきていた、紀子を駅表で見送って家までの道を歩いていると、つい最近
にスマホに登録したばかりの番号から電話が入った。
人通りの少ない路地に入って電話に出ると、まだ聞き覚えのあるあの野太い声が聞こえてきた。
「明日の君の来訪だがね。すまんが、午後の六時にしてくれんか?もっと早い時間にと考えてい
たんだが、大学で野暮な会議が急に入ってね。その代わり、家の近所にある鰻屋の特上丼をご馳走
するから、ぜひそうしてくれたまえ」
「あ、ああ、お忙しいんだったら、僕は別の日でもかまいませんよ」
「そうもいかんのだよ、君。君の話をじっくり聞いた後、奥多摩の、高明寺だったかな?そこへ
行ってあの古文書を借り受けてこなければならん。家に泊まっていってもらってもいいから、すま
んがよろしく頼む」
ほとんど一方通行みたいに、会話は忙しなく終わっていた。
家に帰ると、父が早く帰ってくるといって、母は夕食作りに大わらわだった。
久し振りに三人での夕食の時、母のほうを向いて、
「明日の夜さ、夕食はいらないからね」
というと、
「どこへ夜遊びに行くの?」
とそっけなく言われたので、早稲田大学の歴史学の教授の家に、去年の奥多摩の平家伝説の件で
興味持たれて、詳しく話を聞きたいと招待されたと言うと、父親のほうが横から口を挟んできて、
「雄一、その教授って、もしかしたら栗田教授っていう人じゃないのか?」
と聞いてきた。
「父さん、知ってるの?」
訝りの表情で問い返すと、そこから暫く、父の独演会みたいになり、栗田教授のこれまでの経歴
を延々と喋り続けたのだった。
栗田教授は、歴史学会では異端児みたいな人で、特に日本の室町時代から江戸時代までの、有名
な歴史上の人物は勿論、これまでの通説とされてきた出来事に、独自の綿密な調査研究を基に、特
異な理論を投げかけて、その類の書物を何冊も出しているという有名人だと言って、そんな人のメ
ガネにかかったという僕を、珍しく褒めそやしてきた。
「父さんも歴史学には多少同慶が深くてな。教授の本を何冊か買って読んでるが、調査が緻密で
な、読んでいるとほんとにそうかもな、と思わされるところが一杯ある。そんな先生のお招きを受
けるなんてめったにないことだぞ」
父は嬉しそうにそういって、母に手土産をそこそこ失礼のないものを買っておくようにと、箸を
振り廻していいつける始末だった。
「雄一は知ってるか?あの先生の奥さんって、一昔か二昔前には絶世の美人女優と呼ばれた吉野
百合子っていう人なんだぞ。結婚してからは一度も、表舞台には出てきてないけど、古い映画を観
ると多くの作品に出てて、父さんたちのマドンナみたいな女優さんだったなぁ」
母のほうは呆れたような顔をして、父の話を聞いていたが、僕は僕で単純に明日の楽しみが一つ
できたと思って、わかったようなわからないような顔をして聞いていた。
自分の室に戻り、ノートパソコンに、吉野百合子の名前を打ち出すと、十以上ものアプリが出て
きて、当時のポートレートが幾つも出てきた。
父が口角泡を飛ばして言うだけのことがあるくらいに、十六の僕から見ても、ほおっと頷いてし
まうほどの美人だった。
長い髪を肩まで垂らし、真っ白な肌と黒い瞳が際立つ切れ長の目、かたちよく透き通った鼻筋と、
赤い口紅が輪郭をさらにはっきりさせた唇が、何か人恋し気に薄く開いて、奇麗すぎる歯並びの白
い歯が今にも何かを話しかけてきそうな雰囲気を湛えていて、触れただけで折れそうなくらいの細
い顎が、清純にも、また妖艶にも見える。
九州の熊本県の出身で、今の年齢は五十七歳のようだ。
十年ほど前の体型データを見ると、身長百六十三センチで、体重は四十六キロとなっている。
歌劇団を経て女優の道に入ってからは、ずっとスター街道を歩み続けていて、幾多の有名男優と
の浮き名も数限りなくあったという。
僕なりの穿った目で見ると、全体の雰囲気というか、顔や目の表情が、奥多摩の祖母に何となく
似ている感じだったので、個人的には普通よりも三倍か五倍以上の好感が持てた。
明日の僕の標的は、歴史学の有名人より、忽然と銀幕から消えたと言われる元女優に向けられそ
うな予感があった…。
続く
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