「村山紀子さん…」
益美の家の玄関度を閉めて、冷え込みの強くなった、駅までの道を、身体を寄せ合って
歩いていた時、多香子がポツリとした声で言った。
「ん…?」
僕は冷気で赤くなり出している、鼻を擦りながら、多香子に顔を向けた。
「あなたとのことで、私、あの人には勝てないと思う」
「何だい、急に?」
「私にないものを、あの人は持っている」
「何を持っているって?」
「それが何かは、私も上手く言えないんだけど…うーん、あなたへの思い方って言うの
かな?」
「何だい、それ?」
「今まで、正直ね、私、他の女性の人って、何事でも意識したことなかったの。…でも」
顔を前に向けて、何か達観したような声で、
「村山さんの、あなたへの接し方って、全部が自然なのよね。変な作為もなくて、まる
で血の濃く繋がった者同士っていうか、それでいて姉弟って感じっでもない雰囲気があっ
て…」
笑みを浮かべるように白い歯を覗かせ、穏やかそうな目で言ってくる多香子に、少しだ
け怖気を感じた僕だったが、
「でも、あなたとこうなっても、不思議に嫉妬の気持ちが湧いてこないの。上手くは言
えないんだけど、それがあの人には勝てないって、思った原因の大きな一つだわ」
と想定外の言葉を言ってきたので、
「俺は多香子も好きだよ」
と思わず、身勝手な言葉を返していた。
「私といる時は…私だけのあなたでいて」
多香子はそういって、暗い寒空の下で両頬を赤らめて、両手を僕の身体に廻してしがみ
ついてきた。
遅い時間に帰宅して、玄関口で母親からの小言を一分近く聞いて、二階の自分の室に入
って、ベッドに倒れ込んだ時、思い出したのは、益美の家からの帰路で、多香子が吐露し
た、わかったようなわからないような言葉だった。
多香子の言った言葉の意味を、もう少し掘り下げようと、思考態勢に入ろうとした僕だ
が、女の人の心の微妙さなど、単細胞の僕にわかるはずもなく、すぐに諦めてポケットか
らスマホを取り出した。
電車の中で見た時には、入っていなかったメールが二件入っていた。
紀子と奥多摩の尼僧の綾子からだった。
いつもなら紀子のを先に見るのだが、多香子と内緒の時間を過ごしたこともあって、さ
すがに僕も、少し気が引けるところがあって、綾子からのメールを先に見た。
綾子からは、どうせまた、会いたいとかいう未練がましい文面かと思っていたら、意外
な内容だったので、僕は二度読み返した。
(早稲田大学の歴史学を研究しているとかいう、栗田教授という人から、突然に連絡を
いただき困惑しています。あなたが以前に、夏休みの宿題か何かで、お寺の古文書とか文
献を基に書いたレポートの中の、平家の武士の名前について、その古文書は今もあるのか
というお問い合わせでした。中味はわからないが、古文書はあるとだけ申しておきました
が、後日、あなたにも連絡させてもらうとのことでしたので、取り敢えずはご報告まで)
読み終えた後、時刻を見たらもう十一時前だったので、返信は明日にすることにした。
綾子からの、メールの意味がよくわからなかったこともあって、紀子からのメールを見
るのを忘れて、僕は風呂に入りそのまま眠ってしまった。
あくる日の朝、校舎の玄関に行くと、僕の靴箱の真ん前で、紀子がほっぺたを膨らませ
て立っていた。
紀子の不機嫌そうな顔を見て、僕は昨夜のメールを見ていなかったことを思い出した。
「おはよう」
僕のほうから、挨拶の言葉をかけていた。
「昨日は随分とお忙しかったみたいね」
多香子といたという弱みもあって、いつもなら反発する僕の口はおとなしかった。
「あ、ああ、家で親父と色々話し込んじゃって」
苦しい言い訳を言うと、それには取り合おうともせず、
「奥多摩の、あなたのお婆ちゃんちへね、今度の土曜日に、私行くことにしたの」
「えっ?」
「残念だけど、あなたははぶけ。陸上部の友達二人を連れて、また、お婆ちゃんと、お
野菜を収穫することになったの。その二人がどうしても行きたいって言うから、お婆ちゃ
んに言ったら、招待してくれたの。それをメールしたのに、返信ないから、怒ったのかと
思ってたのに、その顔じゃ読んでもいないみたいね、さよなら」
人の多い玄関で、また何人かの興味深々な視線を浴びながら、一方的にまくし立てられ、
そのまますたすたと遠ざかられ、僕はただ唖然と立ち尽くすだけだった。
放課後までおもしろくない一日を過ごした僕が、帰宅部の本領発揮で誰より玄関に行く
と、運動着用のダウンのコート姿の紀子が、また待ち伏せしていたように一人で立ってい
た。
朝の文句でまだいい足りなかったのかと、少し身構えた顔で相手を見ると、
「さっきクラブの顧問から、この前から依頼がきてた、雑誌のインタビューや取材が取
りやめになったって。雄ちゃん、何かした?」
唐突な問いかけに、僕は心の中の微かな動揺を隠し、
「な、何にもしてねえよ」
とぶっきらぼうに言うと、
「だよね。そんな力のある人じゃないもんね。とにかくそういうことになったから」
言うだけ言って、紀子はまたすたすたと僕から離れて行った。
下校の道を一人で歩きながら、僕は多香子のことを思っていた。
紀子への取材が中止になったのは、きっと彼女の差配であるのは間違いなかった。
多香子の純な気持ちを、僕は無論理解したが、それはそれで、また後に尾を引くことに
なったのかと、ある意味、贅沢な悩みに一人で苦笑するしかなかった。
区立図書館の芝生公園のベンチに座り、僕はスマホのディスプレイに尼僧の綾子の名前
を出し、ボタンを押した。
「こんにちわ、お久しぶりです」
「元気にしてたかい?」
「ええ、あなたは?」
「相変らずさ。歳にも似合わない悪さばかりしてる」
「若い時は、何事も経験よ」
「ところで、メールの件で驚いてるんだけど」
「ご、ごめんなさい。私のほうも何が何だかわからないまま、変なことが起こってて」
綾子自身がまだ戸惑いの中に、どっぷりっと使っているようで、しどろもどろな説明だ
ったが、要約すると、以下の通りだった。
早稲田大学の、歴史学専門の栗田という教授から、突然の電話が奥多摩の高明寺に入り、
「順序が違うのだが、平家伝説の古文書があるというのは本当か?」
といきなり切り出されたというのである。
自分は歴史学の、鎌倉時代の源平合戦を研究していて、壇ノ浦の合戦で源氏に敗北して、
日本中のあちこちに落人として逃亡した、平家の落ち武者の何人かを追跡研究している者
で、本来なら、その古文書を基に執筆したレポートの作者に、最初に連絡しなければなら
ないところを、どうしても先にその古文書の有無を確かめたくて、失礼を承知で寺のほう
へ連絡させて頂いた、とのことのようである。
綾子のほうはその古文書の中味も何もわからないまま、あるとだけ応えたようなのだが、
その教授は、近々にそのレポートを書いた作者と連絡を取り合った上、ぜひ、その古文書
を見せて頂きたいというのだ。
僕の書いた平家伝説に纏わる、勝手な憶測だらけのレポートは、国語教師の沢村俶子が、
都の教育委員会が主催した「高校生レポート作品展」に、勝手に応募して、佳作か何かに
選出されて、教育委員会が出版した雑誌に掲載されたと聞き、あの当時、僕のことをいつ
も小馬鹿にしていた母親に、どうだ、と自慢したという覚えがあるだけで、実を言うと、
レポートの内容に付いては、あまりよく覚えていないというのが実状だった。
「うーん、まだ俺んとこへは何も連絡はないけど、その古文書って、ひょっとしたらと
んでもないお宝物だったりしてな。その教授から連絡あったら、電話するよ。余計なこと
に巻き込んでしまって悪かった」
僕にとってもそれは確かに思いがけないことだったが、書いた本人が何を書いたのかも、
よく覚えていないというのでは、笑止千万なことだった。
綾子のほうも、源平合戦とか古文書とかの話は、意識の中にあまりあるようではなく、
「あなたとこうして、お話しできるだけで、私は嬉しいの」
と女としての気持ちを、甘えたような声で吐露するするだけだった。
そこへ絶好のタイミングというべきか、スマホにキャッチが入り、ディスプレイに未登
録の番号が浮かび出た。
綾子にそのことを告げて、僕は初めて見る固定電話の番号の着信ボタンを押した。
「ああ、上野雄一さん?」
学者にしては野太い、大きな声が聞こえてきた。
早口で喋る人で、一通りの自己紹介を終えると、
「君の書いたレポート、たまたま見せてもらったんだが、歴史上でもなかなか興味深い
ことが書かれていてね。どうだろう、ぜひ一度会ってもらえないだろうか?」
と強い物腰で言ってきた。
「ああ、で、でも、先生が僕のレポートのどこが気に入られたのか知りませんが、僕は
あの古文書や文献を基にして、勝手に自分の想像を書いただけで、そんなに深くは掘り下
げて、何て言うか、研究なんかしてませんよ」
あまりレポートの中味を、それこそ深く追及されると、僕のほうの記憶が忘却の彼方に
いっているので、やんわりと断りの意思表示を示したのだが、
「聞けば、君はまだ高校二年だとか。そんな君に、あれだけの空想をさせる、あの古文
書には歴史の真実というか、重みのようなものが、内包されているということだよ」
栗田教授は一方的にそういって、僕がまだ高校二年のガキと侮ったのか、近いうちにぜ
ひ自宅へ来てくれと、また強引に話を進めてきて、多少の興味もなくはなかった僕はその
申し入れを受け入れて電話を切った。
折り返して、途中で切った綾子に電話を入れて、栗田教授から連絡が、今、会ったこと
を報告してやった。
「そのことで、あなたとまた会えるのだったら、私はそれだけで嬉しい」
平家伝説の古文書の件は、綾子にとっては無用の長物で、僕に会うことだけが、女とし
ての切なる願いのようだった。
公園のベンチの周りを見渡して、人がいないことを確認して、
「綾子は今、何してる?」
喉の奥に唾を一つ飲み込んで、僕は聞いてやった。
「本堂の畳の拭き掃除終わって、居間でお茶してるところ。二日がかりで大変」
「ああ、まだ守役の人いないのか?」
「もう、お守役は沢山…」
「竹野って言ったっけ、今でも思い出す?」
「え…?」
「恥ずかしいこと一杯されたから」
「いや、そ、そんなこと言わないで」
「今、ここで俺が竹野になってやる」
「………」
「聞こえてるのか?」
「は、はい」
「法衣姿だな?」
「はい…」
「帯を解いて、全部脱げ」
「はい」
電話に絹の擦れるような音が聞こえてきていた。
僕のほうの淫靡な意図を、綾子は早くも承知しているようだった。
「ブラジャーは?」
「していません」
「自分でやって、いい声聞かせてくれ」
暫く、無言の間が続いた。
「ああ…」
小さな声が漏れ聞こえてきた。
ベンチの周辺をもう一度見渡す。
誰もいないのを目で確認して、
「どこ触ってる?」
と聞くと、
「お、おっぱいを…ああ」
「いい声だよ。そちらへ飛んでいきたいくらいだ」
「き、来て」
「いい声だよ、綾子」
何かが動いてるような音が耳に入るが、綾子の声は聞こえなかった。
「い、今…ショーツを」
「脱いでたのか?」
「は、はい…」
「今はどこを?」
「し、下のほうを…」
「下って?」
「ああっ…わ、悪い人」
「綾子の口から聴きたい」
「…お、おマンコ」
「綾子のおマンコ、もう濡れてるんだろ?」
「え、ええ…あ、あなたを思い出して」
それからの綾子は、自分で自分の壺に嵌ったように、間断なく激しい喘ぎと悶えの声を
吐き続け、最後にはまるで、僕への当てつけのように、僕の名前を何度も呼び続け、
「ああっ…ゆ、雄一さん、き、来て…は、早くここにきて、わ、私を抱いてっ」
狂ったようにそういって、絶頂に達したようだった。
「近いうちに、またそちらへ行って思いきり抱いてやる」
と宥め労わるように言って、僕は電話を切った。
電話の向こうでの、綾子の生々しく欲情的な声とは、全然裏腹に、緑の枯れきった芝生
公園は静かで清新な空気が漂っていた。
帰ろうとベンチを立ち上がった時、ふいに祖母の顔を思い出した。
僕はもう一回ベンチに座り直し、スマホを弄った。
例によって一回コールで祖母は出た。
「今度の土曜日に、紀子がそっちへ行くんだって?」
挨拶もそこそこに、少し恨めしげな声で、僕は祖母に聞いた。
「あ、そう、そうなのよ。学校のお友達二人連れてくるって」
「そのこと、何で言ってくれなかったの?」
「ああ、それは、紀ちゃんに、内緒にって頼まれてたからよ」
悪びれる風もなく祖母は言って、
「畑でお野菜の収穫が、どうしてもしたいんだって。都会の子たちねぇ」
と笑いながら付け足してきた。
「あいつ…」
祖母に向かって、言うべきことではない言葉がつい出てしまった。
「何?また喧嘩でもしたの?」
「い、いや、何でもない」
「あっ、そうだ。あなたに言わなきゃと思ってたことが」
「何?」
「今日の朝ね、ほら、あの吉野さんの無二の親友って言ってた、稲川さんって人から
お電話もらったの。ほら、あの古村さんが来て、料亭の女将にどうのこうのって話、今
度はその稲川さんって人が尋ねてくるっていうから、私、はっきり断ったんだけど、ど
うしても会いたいって言うから、私一人では会えませんって言ってやったの」
「うん」
「お孫さんの顔も見たいからぜひって、先に言われてしまって」
「ああ、俺のほうは全然いいよ。婆ちゃんで、日を決めてくれたら」
「どなたが来られても、答えはわかっているんだけどね」
「婆ちゃんに会えるからいいよ」
僕のその声に、祖母は声を詰まらせていた。
祖母との電話を終わり、家までの道を歩きながら、
「あいつめ…嘘つきやがって」
と僕は口に出して、紀子の顔を思い浮かべて呟いていた。
自分がもっと大きな嘘を、彼女についていることを、僕は完全に忘れていて、明日の朝、
自分が学校の玄関で待っていて、悪態をついてやろうかと考えたのだが、部活の早朝練習
で、紀子は七時半には学校に来ていることに気づき、それは止めることにした…。
続く
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