(村山紀子さんを、あなたは顔だけしか知らないって言ってた。彼女、スポーツも勉強も
できて素敵な人。でも、私は負けない。…こんなメ出ール初めてだから、読んだらすぐに消
してね。 多香子)
車の走り抜ける音や窓を叩く風の音が、一瞬、途絶えたような気がした。
やはり、あの日の朝、校庭で無邪気な声で僕を呼びつけて、紀子が駆け寄ってきたのを、
細野多香子はしっかりと目に焼き付けていたのだ。
ベッドに仰向けになりながら、片手でスマホを顔の上に翳し、僕は多香子からの思いがけ
ないメール画面を見入っていた。
ふいに、同級生でひょうきんな恒夫のおどけた顔が浮かび、全く、帰宅部一筋で、友達も
少ないお前のどこがいいんだろうね、俺に一人くらい回せ、とぼやく声が聞こえたような気
がした。
返信はしないまま、勝手に瞼が閉じかかった時、室の外のほうから、ご飯よ、という母の
現実的な声が聞こえてきた。
あくる日の朝の、校舎の玄関口で靴を履き替え廊下に出ようとした時、
「雄ちゃん、おはよう」
と背中のほうから声をかけられ、何故か、昨日の多香子のメールが、ふいに思い浮かんだ
僕は、
「こんなとこで、雄ちゃんは止めろって言っただろ」
と振り返る前から、不機嫌な声で言った。
キョトンとした顔で紀子は見つめてきたが、僕のしかめっ面も意に介することなく、
「ね、私も土曜日から、雄ちゃんと一緒に行ってもいいんだけど?」
顔を五十センチもないくらいにまで近づけてきて、僕の目を窺い見てきた。
「部活あんだろ?」
つれなくいうと、
「今、友達に聞いたんだけど、部室の改修工事、土曜からやるみたいで、練習休みになっ
たの」
嬉しそうに白い歯を目一杯に見せて、今にも腕を掴み取ってくるような感じだったので、
「ああ、ま、考えとくわ」
ととってつけたようにいい残して、僕は逃げるように階段を駆け上がった。
僕が自分で撒き散らした老婆心が、思わぬ方向へ進んでいきそうな、嫌な予感を抱きなが
ら、午前中の授業は、何一つ頭にも身にも入らないまま、終わっていった。
昼休みに、また、あのお騒がせ娘が、僕の不機嫌な気分を逆撫でするようにやってきた。
購買へパンでもと思って廊下に出ると、紀子が遠いところから、脱兎の如くこちらへ走っ
てきているのが見えた。
廊下で百メートル競走かよ、と小馬鹿にした目を逸らそうとした時、
「雄ちゃんっ」
とまたしても、悪魔の声が聞こえてきた。
廊下に出た生徒の何人かが、驚きと奇異の目で、こちらへ走り寄ってくる紀子を注視して
いるのがわかった。
案の定、紀子は僕の前で、急ブレーキをかけるようにして止まると、片手に持っていた青
い小さな布袋を、周りの注視の目を気にすることなく差し出してきた。
「奥多摩へ誘ってくれた私からのお礼」
ここで下手に上擦って、突き返したりするのは愚の骨頂と、僕の脳波は賢明に判断し、
「ありがとう」
の言葉が素直に出た。
「砂糖入りの卵焼き、ちゃんと入ってるからね」
随分と昔のことを、まだ寝に持っているような捨て台詞を残して、紀子は何事もなかった
ように、背中を向けて歩い行った。
代わりに寄り付いてきたのが、ひょうきん男の恒夫だった。
「すげえな、お前。次期マドンナの手作り弁当って」
僕が手にした青い布袋を、食い入るように見つめながら言ってきた。
「お前、何とも思わないの?こんな名誉な弁当」
「売ろうか?」
「マジか?」
「三千円」
「高級料亭並じゃねえかよ。でも、買おうかな?」
「バァカ、売らねえよ」
「ケチ」
不貞腐れた声を残して、恒夫は離れていった。
五限目が現代国語の時間だったが、教師は俶子ではなく、代用教員の五十過ぎの痩せた男
性教師だった。
俶子の結婚式が来週の木曜日だ。
クラスの女子生徒の二、三人が、休み時間に、窓側の席に群がって何かを話し込んでいた。
人目を窺うようにして、一人の身体の丸っこい女子が、
「…この前にさ、私、沢村先生を見たの。先生がマンションから出てくるのを。それも男
の人と一緒に。それが婚約者みたいに若くなくて、六十代くらいの白髪の叔父さんだったの
よ。先生の住んでるマンションと、私、家が近くじゃん。あれ、婚約者のお父さんだったの
かなぁ?」
「結婚式前に、先生が浮気ってか?あの先生、派手な顔立ちだけど、結構、賢い人だよ。
それはない」
他の女子生徒が、笑いながら口を挟むと、言い出しっぺの生徒が、
「うーん、そうだと思うけど、その時は叔父さんが満足そうな顔で、先生が顔を俯けてた
んで、おや?って少し思ったんだけどね」
女子生徒の塊りから、少し離れた自分の席に、僕は顔を突っ伏して寝たふりをして、彼女
らの話を聞いていた。
六十代の男というのは、俶子の長文メールに必ず出てくる、不動産会社の副社長の横井と
いう人間に間違いないと、僕は思った。
意に染まぬ結婚に、心ならずも踏み切った俶子に、何もしてやれない自分がひどく情けな
く思えたが、せめてもの罪滅ぼしではないが、彼女からの、これからも届くであろう、本心
を吐露した長文メールは、最後まできっと読んでやろうと、僕は教室で眠たい目を擦りなが
ら、小さく決意した。
下校時、紀子に弁当箱を返すのを忘れていたので、玄関口のところで、たまたま見た同級
生で陸上部の女子生徒に、返却を頼もうとしていたら、コソ泥のように後ろに立っていた恒
夫が、
「俺が返しといてやるよ。陸上部の部室に用があるから」
と言って、僕の手から、青い布袋を取り上げて、急に顔を耳に寄せてきて、
「お前、気をつけろよ。あの、細野多香子が、お前の情報収集とかで、在校生の何人かを
使ってスパイ活動してるって噂だぜ。脇が甘いからな、お前」
と意外なことを喋ってきた。
「今から俺が訪ねてく陸上部の奴も、昨日だったか、お前のこと何かと聞いてきたから、
知るかって一喝してやったけどな。週刊誌のカメラに気をつけろよ」
と笑いながら言って、すたすたと離れていった。
多香子のどこにも欠点のなさげな、大人びた感じの、色白の整った顔が頭に浮かんだ。
他人が自分のことをどう言おうと、何をしてこようと、僕は何も思わない。
何せ、まだまだ、十六の未成年で、大人のように、人の心を探るということもよくできな
いし、自分がすることの良否の判断の区別も、幼い分だけ、当然に危ういところは一杯ある
野だと思う。
そんな幼い自分でも、人にされて嫌なことの一つに、束縛を受けるということで、もう一
つ付随的に言うなら監視されるというのも嫌な一つだ。
自分に清廉潔白さがないからではない。
そんなものは自分にないのは、僕には百も承知のことで、自分自身が一番熟知している。
単細胞の僕は、多香子への思いが、干潮のように引きかけていた。
帰宅すると、母が買い物に出かけるところだった。
明日の奥多摩行きを、まだ親に話していないこともあった僕は、自分から進んで買い物同
行を申し出ると、母の顔がキョトンと虚ろになっていた。
母の運転で大型スーパーに出かけ、食料品や日用品を買い込んでいる最中に、何げない口
調で奥多摩行きの了解を取り終えた。
口実は未だに、あの高明寺の平家団説の再調査だった。
「まるで本でも発行しそうなくらいの熱心さね」
厭味はその一言だけで済んだ。
それでも母は母で、自分の実の親である祖母を慕って、半ば定期的に近いかたちで、息子
が訪ねてくれるのを、内心で快く思ってくれているようだった。
実際のところは、天と地ほどに中味は違うのだが…。
夜八時頃、祖母に電話を入れると、やはり一回コールだった。
祖母の嬉しそうな声が、何故か耳に沁みた。
「母さんがね、婆ちゃんに毛糸の帽子編んだから持ってて」
「そう、ありがとう」
「それからさ、今、婆ちゃんちの畑で何が採れるの?」
「何がって、小さな畑だから、白菜とネギと大根よ。あ、今年はキクナも植えたけど」
「いや、一緒に連れてく紀子がね、畑仕事してみたいって言うんで」
「あら、感心なことで…じゃ、来たらすぐに畑に出かけましょうか?」
「どうせ思い付きで言ったことだから、役に立たないと思うけどね」
「ネギが採れ頃だから、若い力で引っこ抜いてもらおうかしらね」
「で、古村さんって人は何時に来るんだっけ?」
「二時とか仰ってたけど」
「ほんとはね、俺一人で行きたかったんだけど、ごめんね」
この言葉には僕は誠意を込めて言った。
祖母も、きっと同じ思いだろうと思っていたが、
「ううん、雄ちゃんの大事な彼女だもの。美味しいもの作らなきゃね」
と大人の声で優しく返されて、僕は少し胸を詰まらせた。
祖母との電話の前に、紀子に明日の列車の、時間確認だけで電話をしていたのだが、勿
論、それだけで済むわけがなかった。
「私も畑仕事やってみたい」
紀子は遊び事みたいに言ってきた。
「今は積もった雪の中から、野菜採るんだから大変なんだぞ」
畑仕事など一度もしたことのない僕が、紀子に諫めるように言って、一人で笑いを堪えた。
もう一つ、紀子が微妙なことを呟くように言った。
「ね、私たち、夜寝る時って、どんな配置になるのかな?」
「は…?」
「普通で言えば、私とお婆さんが女同士で一緒に寝るのよね」
「何だ、俺と寝たいのか?」
「バカ、オタンコナス」
「俺んちの婆ちゃん、ハイカラで捌けてるからな。楽しみだ」
正しく捌けた口調で僕は言ったが、それぞれの関係を唯一知っているのは、僕一人である
ということに改めて気づかされ、僕は笑うに笑えない奇妙な気持ちになっていた…。
続く
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