例によって、祖母は一回のコールで電話に出た。
「やぁ、婆ちゃん、元気?」
「元気よ。身体の丈夫なところだけが取り柄だから」
「寒いんだろうね、今頃の奥多摩」
「あなたが小さい頃は、雪の中でも泥んこになって遊んでたじゃない」
祖母の少し掠れたような、いつもの声を聞いて、僕の心の中のもやもやが、川の水で洗わ
れていくようだった。
同時に、祖母の色白の小さな顔と、何故か祖母の左側の乳房の上辺りにある、小さな黒子
が、僕の頭の中に浮かび出た。
何かの用があって電話したのではなかったので、少し声を詰まらせると、
「あなたのほうこそ、この頃は何かと忙しいみたいね」
と痛いところを見透かされたように、祖母に話の主導権を取られた。
「学校が忙しいの?…それならいいんだけど」
「あ、ああ、そうでもないんだけどね、何やかやとあって」
「春からは三年生ね。大学は行くんでしょ?…どこ狙ってるの?」
「ま、まだ、そんなの決まってないよ」
さすがに、口に出して言っただけで、準備も心構えもできていない今の状況で、いくら身
内といっても、東大を、と大それたことは言えなかった。
「あ、そうそう、あなた、あの古村さんって人覚えてる?」
「古村さん?…あ、ああ、あの亡くなった吉野さんに秘書みたいに仕えてた人」
「そう、その古村さんから、一昨日に、思いがけなく電話くれてね。で、何か私に相談し
たいことがあるっていって、急なんだけど明後日の土曜日に、村に来るって言うの。…それ
で私もあなたに連絡しようと思ってたんだわ。だめね、歳とると、物忘れがひどくなって…」
「ふーん、何なんだろうね?」
わざとかどうか、祖母は名前の出た古村氏のことは、少なくとも僕よりは強い印象で記憶
に残っているはずなのに、空とぼけたような言いかたで喋ってきていた。
去年の夏休み、弱冠十六歳の僕が、初めて大人の生々しい性行為の現場を、図らずも盗み
見というかたちで、目撃した時、一番強く印象に残っているのが、祖母と古村氏の激しい抱
擁の時の光景だった。
その後の祖母と古村氏の関係は、僕の知らないところだが、夏休みのあの時、僕が目の当
たりにした、あれだけの、お互いの気持ちの籠ったような抱擁の光景は、まだ今でも記憶の
中に鮮やかにあるのだ。
結果として、祖母は病で他界した吉野という初老の男性に、身も心も捧げるkとになったの
だが、古村氏の気持ちがどうだったのかは、僕もあの時は深くは詮索をしなかったので、よく
はわかってはいない。
「今度の土曜日?…じゃ、僕も奥多摩へ行こうか?」
僕のその一言で、祖母の声に喜色が籠ったのがすぐにわかった。
「ほんと?嬉しい」
「でも、古村さん、僕が付添人みたいにいて、いいのかな?」
「どうして?」
「もしかして、古村さん、婆ちゃんにプロポーズしてくるかも?」
その思いと、まさかという思いの半々で僕は言った。
「ま、まさか、そんなことあるわけないじゃない」
と祖母は心底から、一笑に付すような口調で返してきた。
「じゃ、土曜日は朝から出かけるよ」
そこまで言って、僕ははたと思いついた。
「あ、それからね、婆ちゃん。日曜に、あの…学校の友達の、あの、紀子を呼んでもいい
かな?」
声を詰まり詰まりさせながら、僕は祖母にお伺いを立てるように言った。
「あら、一緒に来ないの?」
「あ、あいつ、土曜は部活あって。この間から、奥多摩に連れてけって、煩いもんだから」
僕の声はどうしても、何故か及び腰のようになっていた。
「いつぞや、丁寧なお手紙くれたお嬢さんね。大歓迎よ」
祖母の顔は、きっと喜色満面になっていると、僕は確信して電話を切った。
忘れないうちに、紀子に電話を入れた。
祖母と同じように一回のコールで出た。
部活を終えて帰宅して、室で着替えを済ませ、階下に降りようとして、スマホを手に取っ
たら、僕からかかってきたのだという。
「何かで繋がってるみたいだね、私たち」
大仰な声で子供じみたことを言って、
「こんな時間に珍しいけど、何か?」
と嬉しそうな明るい声で聞いてきた。
「今度の日曜って、部活か?」
「ううん、部室の改修工事をするとかで休み。デートのお誘い?」
「うん、まぁ…そんなもんかな」
「ほんとは、日曜は部員の何人かと、今度の卒業生に贈り物をするのに、買い物行く予定
してたんだけど」
「あ、そう。じゃいいわ」
「いつも放りっぱなしで、めったにお誘いのない雄ちゃんだから、そっちをとる」
「俺、土曜日に婆ちゃんから、畑仕事で大きな木を切ってくれって頼まれていくんだけど、
日曜の朝から、お前が来れるんならと思ってさ。この前内緒で行って怒られたから」
「行く、行く。お婆ちゃんにも会いたいし」
中学生の娘みたいにはしゃぐ紀子に、それだけ言って、早々に電話を切った。
女と子供の入り混じったような、紀子の声を聞いて、小煩いと思いながらも、心のどこか
がほっと和むのはいつものことだった。
だが、好事魔多しの例えの通り、その夜の九時頃、細野多香子からのメールが入ってきて、
僕の心の中に、冷やりとした氷水が流れ落ちた…。
続く
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