俶子からの三通のメールを、僕は最初は、また彼女の僕へのぼやきか、愚痴、文句の類
だと思って、流し読むようにスクロールしていたのだが、長い文章の中に、刺激的で生々
しい表現が、随所に出てきているようだったので、これは只事ではないと直感し、ベッド
から身体を起こして、室を出て一階に下り、ダイニングの冷蔵庫からミネラルウォーター
を取り出し、また室に戻った。
ペットボトルの水を一口飲んで、ベッドに俯せになり、改めてパソコン画面に目を向け
熟読態勢に入った。
(独りよがりで自分勝手で、そのくせ何故か憎めない風来坊さんは、どうしているのか
な?私が結婚すると言ったから、もうお見限りなのかしら?そんなことないよね?…きっ
と他で青春を謳歌してるのね。私のほうは、正直言うと、少し参ってる。前にあなたに、
嫌なものは嫌ってはっきり言って、決まったことでも断ればいいじゃん、と言われて、私
もその気になって、相手の彼に、結婚を断るつもりで会いに行ったの。…でも、二人だけ
で会うといっていた場所に、あの男がいたの。後見人とかいう立場で彼が連れて来ていた
の。料亭のお座敷で会ったんだけど、後継人の彼の顔を見た時、私は愕然とした思いにな
って、暫く言葉が出なかったんだけど、それでも、結婚相手の彼に、二人で会うという約
束を破ったことを詰って、そこから出ようとしたの。…立ち上がった私の手を握って、引
き留めてきたのは、結婚相手ではなく、私が一番恐れていた、後見人を名乗った男だった
の。…男に手を握られた瞬間、私にはその経験はないのだけど、痴漢防止のスタンガンを
撃ち込まれたようになってしまったの。男の手を振り払うこともできず、私は婚約者を残
すかたちで、別室に引き込まれてしまったの。…ほんとに、何もできなくなってしまって
いたの。…別室へ連れ込まれて、すぐに…私は彼にキスされてしまって。それでも、私、
何もできなくて、男の粘い舌も口の中に受け入れてしまっていたの。高校教師が鼻で笑う
くらいに、馬鹿で愚かな女よね。おまけに、その時の私の頭の中を駆け巡っていたのは、
大学を出て間もない私を犯し、長い間、性奴隷のように虐げられていた、あの頃の屈辱の
行為の幾つかだったの。唇が離れた時、男が私に言ったの。「うちの甥っ子と結婚しろ」
って。…私は黙って頷いていたの。その夜、男にホテルに呼び出され、私は男に抱かれた
の。…ごめんなさいね。あなたみたいな未来のある若者に、こんなどす黒い、大人も聞き
たくはない話をしてしまって。私よりもずっと年下のあなただけど、何故か安心した気持
ちで、あなたには書けるの。今、そんな私の、恥ずかしいことばかりだけど、私小説的な
ものを、誰に見せるというのでもなく書いているの。一応、国語教師だからね。純なばか
りのあなただけど、どこかに怖いというか、不可解な面も持っているあなたに…いえ、あ
なたにだけ読んでもらえたら、私的にはもう最高です。最後になりましたが、愚かな女の
結婚式は予定通りの日程です。 俶子)
一通目を読み終えただけで、僕は喉がカラカラになっていた。
ペットボトルのミネラルの塊りを、二度、喉の奥に飲み込んで、メールの二通目を開いた。
「ふ、二人だけって言ったのに…」
怒りと恨みを露わにした目で、私は目の前で座ったまま竦み切っている、婚約者の横井孝
に向けて声を荒げて言った。
結婚式まで後二週間しかない日に、私は婚約者の横井孝に、結婚の破談を申し入れ、自分
の正直な気持ちの説明と、謝罪の気持ちも含めて、名前の知れたこの料亭に足労を願ったの
だった。
だが、気弱でおとなしい性格の横井は、自分一人で、結婚の破談話を聞くのが堪えられな
かったのか、声がけした私に事前の相談もなく、後継人としての名目で、自分の叔父である
横井正和を伴って、この場に来たのだった。
こちらからの、ある意味、一方的な破談の申し入れなので、式場のキャンセル料を含めた
諸々の費用の負担は、当然にすべて私のほうで受けて処理するつもりだった。
それでも私的には、自分のこれからの人生を考えたら、貧しくなったとしても、そのほう
がより人間らしく生きられると、そう決断してのことだった。
それより何よりも、私が横井孝との結婚の破談を決意した、唯一無二の根幹が、婚約者の
横で平然とした顔で座り込んでいる、横井孝の叔父の横井正和にあることを、相手の婚約者
にも話すことのできないという究極のジレンマに、私はその場で陥ってしまっていたのだ。
「私、帰ります!」
意を決して、私が立ち上がり廊下へ出ようとした時、
「待ちなさいっ」
と怒声のような鋭い声が、背後からいきなり飛んできた。
それまでずっと黙っていた、孝の叔父の正和の声だった。
私の全身が見る間に凍り付き、足が一歩も前に動かなくなっていた。
婚約者の孝のほうは、完全に委縮してしまっていて、細身の身体を猶更に竦ませ、青白い
顔をひたすら俯かせたままのようだった。
正和が席を立って、私のほうに近づいてくる気配があった。
それでも私の足は一歩も動かなかった。
「俶子さん、こちらへ」
そういって、正和がいきなり私のツーピースの袖を掴み取ってきた。
正しくスタンガンを突き当てられたように、私の全身は、意識の残ったままの凍結状態に
なってしまっていた。
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