多香子の反応は、僕も驚くほどに早かった。
会った翌日の夕方にはメールが届いていて、嫌も応もない積極的な書き出しで、僕に早く
返事を寄こせというものだった。
(あなたに初メール。嬉しい。祖父に別荘のこと頼んだら、即OK。明日にでも別荘の管理
会社に連絡して、草刈りと掃除を頼んでおくとのこと。私のほうはどんなことがあっても、
あなたの決めた日に合わせます。お早いお返事を)
僕は少しばかり顔を曇らせながら、
(りょ)
とだけ返信した。
多香子という女性がどういう人なのか、少しわからなくなっていた。
あれだけの美貌と知性があって、周囲には僕よりもはるかに教養豊かで、僕よりもイケメン
で、家柄的にも優れた男性たちがいたはずだろうに、僕如きに何でこんなに積極的にアプロー
チしてくるのかが、先ず最初にわからないことだった。
現に、学校在籍時には当時の生徒会長で、東大合格も間違いなしと言われていた生徒との交
際が既成事実のように囁かれていたはずなのに、ことここにきて、僕のような平民に触手を伸
ばしてくるのは、明らかに座興に過ぎると、僕は思った。
多香子に纏わる男性の噂は引きも切らずで、野球部のエースピッチャーとか、高校総体で陸
上のハイジャンプで優勝した選手とか、バレーボールのエースアタッカーとかの、校内に名の
知れた生徒が何人も恋人候補に挙がっていたはずだ。
勿論、僕は完全にノーマークである。
メールを受け取ったその日の夜、零時前に僕のスマホが、メール着信を告げてきた。
(もう寝てる?寝てたらごめんなさい。こう見えて、私、料理得意だから。あなたは何が好
きなのかな?まだ起きてたらおやすみなさい)
僕はすぐに返信を送りつけた。
(今週の土日OK。干渉されるのは嫌いだ。好きなものはすき焼き)
多少の怒りも込めたせいか、それに対する返信はなかった。
翌日が水曜日だった。
父が泊まり出張でいなくて、母親と二人だけの朝食の時、今週の週末に友達の家で進学の対
策と相談があるので泊まってくる、と事前工作をしておく。
進学の話は嘘だが、友達というのは、多香子も今はまだその範囲内であることで、僕は自分
を納得させた。
「あらそう。で、あなた大学はどこを目指すの?」
「そんなのまだわからないよ」
「国立は無理なんでしょ?」
「そうかも…」
小さな声で応えて僕は箸を置いた。
自分の親さえがこうだ。
東大などと口に出したら、間違いなく熱を測られる。
登校して一時間目の授業が終わった時、一番前の席に座っている、三上恒夫が廊下に出よう
としていた僕を呼び止めてきて、袖を引っ張るようにして、人のいない階段の踊り場まで連れ
ていかれた。
「何だよ」
恒夫の話は、大抵が生徒間の噂話である。
真剣に聞く気もないような声で、僕が尋ねると、恒夫が丸い目をさらに丸くして、妙に嬉し
そうな声で、
「お前、中々やるじゃんか」
冷やかし気味に言ってきた。
「は?」
「あの俺らの憧れの細野多香子と、お前、デートしたんだって?」
「な、何言ってんだよ」
「一年生の女の子がな、風邪で学校休んで、母親と病院へ行った帰りに入った喫茶店でな、
お前ら二人を見たっていう話が、もう二階まで伝わってきてるらしいぜ。楽し気に笑い合っ
てたというオマケ付きでだよ」
「何、ヨタ言ってんだよ。会ってなんかいないよ、俺は」
「目撃者が一年の女の子だからな。お前も顔も知らないだろうし、帰宅部のお前と、学校
のマドンナとの釣り合いが、どうしてもとれないから、俺も眉唾だとは思うんだけどな」
「何だい、バカにしてんのか?」
「そ、そうやってムキになると、余計怪しまれるぜ。じゃあな」
そういって恒夫は逃げるように教室に戻っていったにのが、一年生の女の子の顔までは、
僕も覚えていなくて、まして制服でなく、私服では、僕にも気づくはずはなかった。
恒夫の話を聞いた最初から、僕の頭に浮かんでいた顔は、当然に紀子だった。
まだぼくたち二人の交際は、学校内にはほとんど知られてはいないと思うのだが、今の恒
夫みたいに、何の悪意もなしに、紀子に注進していく奴がいるかも知れないと思うと、背筋
の辺りが薄ら寒くなった。
こればかりは止めようがないので、僕も諦めた顔で教室に戻った。
昼休みにもう一つのニュースが、担任の教師からクラス全員に入った。
国語教師の俶子が、今日から二週間の特別休暇に入ったというのだ。
月末の結婚準備のためということだったが、これにも僕は疑問符を抱いた。
俶子はある事情で、結婚はしないと思っていたし、俶子自身の口からも、確かにそう聞か
されていた。
ある事情というのは、学校内でも僕しか知らないことで、あまり大っぴらに口に出せない
ことだった。
そういえば、僕も最近は俶子との、秘密の連絡も取り合ってなかったので、少し腑に落ち
ない疑問が残った。
ヤキモキした気分で、下校しようと玄関の靴箱に行ったら、
「雄ちゃん」
と背中のほうから、聞き覚えの間違いなくある声に呼び止められた。
振り返ると紀子だった。
黒のジャージの上下にダウンジャケットを羽織っていた。
顔がにこやかに笑っているのを見て、僕は内心で思いきり安堵しながら、
「おう、部活か?ご苦労さん」
と少しばかり横柄な声で返してやった。
「帰宅部は、いつも早く帰れていいわね」
屈託のない声で言いながら、こちらのほうへ近づいてきた。
周囲に数人の、同学年の女子生徒の塊りがいて、そのうちの何人かが、不思議そうな顔でこ
ちらを見ていた。
紀子のほうはそんな目を気にすることなく、僕の目の前まで来たかと思うと、いきなり手を
伸ばしてきて、曲がっていたワイシャツの襟を直してきた。
その後、さよなら、と笑顔を見せて、小走りでグラウンドのほうへ飛び出していった。
あいつの神経はどうなっているんだ?と思いながら、僕は高門をとぼとぼと出た。
多香子からメールが届いたのは、金曜の朝の登校時だった。
最初に、
(メールいいですか?)
と確認の短文で、この前の僕の警告めいたメールを、気にしてのことだわかっていたが、こ
のことは無視して、次のメールを促した。
(明日の出発は、東京駅九時三十二分発の北陸新幹線の二十三番ホームです。一時間で着き
ます。東京駅まで二十分だから、九時に駅の改札口で待っています。切符は往復で用意してま
す。楽しみにしています)
馴れ馴れしさを抑えたような、丁寧な文章だったが、最後は多香子の本当の気持ちだと、僕
は勝手に解釈して、次のような返信を送った。
(両親に俺と二人だと言ってあるのか?)
(女性友達何人と…)
(男だよ、俺は)
(男のあなたが好きです)
(何をするかわからない)
(何をされても…)
高校生同士とは思えないやり取りを、僕と多香子は交わしていた。
面と向かって会ったのは一度だけで、言葉では、一度話しただけの多香子のはずなのに、電
極のプラスとマイナスが繋がって灯りが点くように、いつの間にか、二人の行く手を照らす何
かが、二人の心の中に灯ったようだった。
軽井沢へ行く手順の何もかもを多香子に任せて、僕は着替えだけを入れたスポーツバッグを
肩にして、格子模様のシャツに黒のVネックセーターの上に、紺のダウンジャケットとジーンズ
姿で駅の改札口に、約束の七分前に行くと、もう多香子は待っていた。
ピンクの毛糸の帽子に、赤のダウンジャケットとジーンズという、似たようないで立ちを、挨
拶言葉の後、多香子は、この前会った時よりも赤が際立つ唇を、にこやかに緩ませて喜んだ。
「私、うっかりしてあなたに言うの忘れてたんだけど、軽井沢の冬ってとても寒いの。このダ
ウンの下に、私、セーター二枚着てるんだけど太って見えない?」
微かな遠慮の表情を見せながら、それでも嬉しさに勝てないように、声を弾ませて聞いてきた
が、外見的にはまだまだ細く見えたので、
「全然だよ。よく似合ってる。美人は得だね」
と僕もおどけた顔で笑ってやった。
ホームは休日のせいか、朝のこの時間帯にしては、それほどに混雑はしていなかったが、
「ねぇ、腕組んでいい?」
と眩しそうな顔で僕を見て、甘えるように言ってきた。
少しキザっぽく、僕は薄笑みを浮かべて、顎を小さく頷かせた。
周りの客の何人かが、多香子の色白の整い過ぎている顔を見て、芸能人に会ったような表情を
見せていた。
東京駅について新幹線乗り場まで歩いた時も、多香子は僕の腕をずっと掴み続けていた。
多香子のバッグは僕が肩に担いでいた。
新幹線は何とグリーン車だった。
乗客は半分程度で、僕たち二人の周囲には誰も乗っていなかった。
乗車時間は一時間だと多香子が言った。
「私も軽井沢は久し振りなの。高校一年の時、家族で来て以来」
「軽井沢って、俺らの感覚では、金持ちばかりが住んでる町という概念しかないね。ここに別
荘を持ってる人と知り合えたのは、お前が初めてだよ」
「私が持ってるんじゃないわ」
「貧乏人のひがみの言葉だよ、気にするな」
この新幹線が、どこをどう走っているのかもわからないまま、漫然と窓の外を見ている、僕の
鼻孔に多香子の身体から、香水のような豊潤で妖艶な匂いが漂ってきていた。
窓側に座っていた僕は、通路側の多香子のほうに唐突に顔を向けた。
驚いたように多香子が僕を見返してきたので、
「キスしていいか?」
と僕は平易な口調で言った。
多香子は驚いた顔で、周囲を見渡す仕草を見せて、それほどの躊躇もなく、真剣な眼差しをし
て、白い顔を頷かせてきた。
僕の口から零れ出たその言葉も、僕が事前に考えを巡らせていたものではない。
僕の身体の中の、もう一人の僕が、言い方はややこしいが、僕の口を借りて発して出た言葉だ
った。
ジーンズの上に手を置いて、多香子は黙って目を閉じた。
周囲に客がいようといまいと、僕はどうでもよかった。
顔を多香子の顔に近づけると、あの香水のような妖艶な匂いが一段と強く、僕の鼻先と身体の
中の血流を刺激してきていた。
多香子の赤い唇に、僕の唇が当然だが音もなく触れた。
柔らかな感触と口紅そのものの、心地のいい匂いに、僕は内心でひどく興奮していた。
だが、その昂ぶりを抑制する気力が、いつの間にか僕に、備わっているのがっはっきりと自覚
できたので、焦ることなくゆっくりとした動作で、多香子の唇の中の歯を、抵抗なくおし開くこ
とができた。
多香子の歯が、抵抗もなく開くということは、彼女の気持ちの中にも、僕と同じような感覚が
生じてきていることを、僕は半ば以上に強く確信していた。
この女の内面の本心は、年齢の若さに関係なく、辱められ虐げられるのを待っている、という
ことを、ここで僕は喝破できたような気がしたのだ。
本当は、僕も多香子も気づいていなかっただけで、初めて会った時から、そういう妖しげで淫
靡な感覚が芽吹いていたのかも知れなかった。
それが、あの時に、お互いが電流が走ったと、図らずも言わしめた、要因の一つではなかった
かと、僕は今にして思うのだった。
多香子の舌も滑らかで触れ心地がよく、吐く息の温かさも気持ちがよかったが、電車の中とい
うこともあり、僕のほうからわざと未練がましげに、顔と唇をゆっくりと離していった。
「好きだから来たんだよ」
またキザっぽい言葉を僕は言ってしまっていた。
「私…泣いてしまいそう」
多香子は瞳の奇麗な目を、何度も瞬かせながら、本当に泣きそうになっていた。
僕たちを乗せたこの新幹線が、今、どの辺りを走っているのか、そのことへの関心は、残念な
がら僕には、いや、きっと多香子も一緒だと思うが、あまりなかった。
軽井沢という町は裕福な人たちが、四季折々に風情のある景色の中で、選ばれし者という感覚
で優越感と高揚感に浸りながら優雅に暮らすところだという、浅薄な知識しか、平民の僕は持ち
合わせていなかったのだが、駅を降りて改札口を出ると、原宿辺りの商店街のミニ版みたいに、
賑やかな店が幾つも建ち並んでいて、女性の数が圧倒的に多い感じがした。
昔は中山道の要衝として、それなりの威厳や日本的な風格も備えていたのだろうが、すっかり
と俗化の波に洗われた観光地に変貌しているという印象だった。
右も左もわからず戸惑っている僕の腕を、多香子は姉のような顔をして、慣れた足取りで、洒
落た店が多く並んでいる通りへ、僕は引き連れていかれた。
前に紀子と原宿の店舗街を歩いた時も、
「もっと楽しそうな顔できないの?」
と言われたこともあるくらいに、僕はショッピングというか、目的もなく人の多いところを歩
くのが、苦手で好きではなかった僕だったが、それは押し殺して、相変らず腕をがっしと掴まれ
ながら、多香子に引き回されるように歩かされた。
十六ながら僕の感覚が古いのか、俗化の波そのものの小洒落た店先のどこを見ても、同じ色に
しか見えないままの、僕の表情を察したのか、
「お昼もね、予約してあるの。行きましょ」
と気遣うように言ってきて、駅から山のほうへ向かう道を歩き出した。
十分ほどで着いたのが「軽井沢プリンスホテル」だった。
我儘な僕への気遣いに、多香子は大変だったようで、ホテルのレストランでも、前以て僕が何
を食べたいのかを、聞かなかったことまで詫びてきたが、有名レストランの料理で不味いものな
どあるはずがなく、僕は正しく子供のように目を輝かせ、魚肉類が次から次に出てくる料理に舌
鼓を打った。
テーブルに向かい合った多香子が、満面の笑みを浮かべながら、
「こんなに美味しそうに食べてくれる人って、私、初めて。お陰でお腹一杯」
と嬉しそうな声で言ってきた。
ホテルから乗ったタクシーで、駐車場のだだっ広い、大型のスーパーに寄って、タクシーを待
機させて今夜の夕食の食材を買い込んで、山のほうに向かってひた走った。
二十分ほど走ったところの、なだらかな山の斜面に、L字型で一部が二階建ての少し大きめの、
まだ真新しい感じのログハウスが見えてきて、積雪の跡が幾つも見える広い庭の前でタクシーは
止まった。
玄関の鍵を多香子が開けて、買い物袋を抱えて中に入ると、広い玄関口から幅の広い廊下が左
右に伸びていた。
玄関口に一番近いところのドアを開けると、洋風の大きな広間があって、瀟洒な感じのダイニ
ングと、食事用の広いテーブルがあり、その向こうに、中央にあるガラステーブルを挟むように、
高価そうなソファーが四方に置かれていた。
畳にして何畳だろうか、わからないくらいの広さだった。
意匠的な木目も露わな板壁に、これも値の張りそうな洋風の箪笥や本棚が、気品よく並び置か
れていて、外国映画の場面に出てきそうな雰囲気に、僕はただ圧倒されるだけだった。
「そこに座ってて。片付け終わったら、コーヒーでも入れるわ」
多香子はソファーを手で指して、自分は着ていたダウンジャケットを脱いで、買い込んできた
食材を冷蔵庫に入れたり、水で洗い物をしたりと、独楽鼠のようにせかせかと動き廻っていた。
座ったソファの前の壁に、五十インチの大型テレビがあったので、リモコンスイッチを入れて、
僕は大型画面を観るともなしに観ていた。
多香子が室に入ってすぐにつけた暖房が効き出した頃、コーヒーのいい匂いが漂ってきて、彼
女が盆に載せたカップをガラステーブルに置いてきた。
広い応接セットなのに、多香子は僕の真横にくっつくように座り込んできていた。
来る時の駅で言ってた通り、多香子はタートルネックの薄水色のセーターの上に、濃紺のVネッ
クの薄地のセーターを着こんでいた。
片付け仕事に精を出した多香子の奇麗な額と、髪の生え際の辺りに汗のようなものが、小さく光
るように滲み出ていた。
「暑い…」
手にしていたハンカチで顔を仰ぎながら、呟くように言って、コーヒーを上品な唇で啜っていた。
「案外、家庭的なんだな」
僕もコーヒーを啜りながら、見直したような顔で声をかけた。
「お嬢様育ちで、何もできないと思ってた?」
「うん。でも、そうだとしても、君のその顔では嫌味には見えないだろうけどな」
「祖母がね、両親より祖母のほうが躾は厳しかったの」
「お婆ちゃんって幾つ?」
「六十七かな」
僕は自然に、自分の祖母を思い出していた。
橙色の帯をして紺地の寝巻姿の祖母が、自分の寝室の鏡台の前に座っているところが、何故か、僕
の頭の中に浮かんでいた。
続いて、祖母の紺の寝巻の襟がはだけて、小柄な身体とは、不釣り合いな感じの膨らみをした真っ
白な乳房が思い浮かび出て、思わず啜ったコーヒーを口から零しそうになった。
「どうしたの?」
「い、いや、お、俺の婆ちゃんをちょっと思い出して」
正直にそういったが、詳しくは勿論、話せなかった。
「お婆様も一緒に住んでるの?」
「いや、田舎で一人暮らし」
「田舎って、どこなの?」
「あ…お、奥多摩」
話が何となくまずい方向にいきそうなので、僕は頭のギアシフトをチェンジして、
「いい匂いがする」
と言って、顔を多香子に近づけ、犬のようにクンクンと鼻を鳴らした。
「ほんと、暑いわね」
僕の子供じみた行為を嫌がる素振りもなく、また手に持ったハンカチで顔を仰ぎ出した。
「セーター脱いだらいいじゃん」
「え…?」
「全部脱ぐか?」
そういって、僕は多香子の驚いたような目に、何かの意思を込めたような強い視線を送った。
僕のいった言葉が、冗談なのか本心なのかをおし測っているようだったが、表情に怒りのような
気配は見えなかった。
「脱ぐの?」
「嫌ならいい」
僕は多香子から、視線を逸らさずに言った。
「今からは、お前は俺の奴隷になる」
多香子に拒絶はないと、僕は確信して、独り言のように言った。
僕のその声に、多香子の上半身がビクンと震えたのが見えた。
決め手の言葉だと、僕は内心で自画自賛していた。
いつの間にか僕は、自身の性格の裏モードに入っているようだった。
黒い瞳を瞬かせるようにして、真横から僕の目を凝視していた多香子が、小さな息を一つ吐いて、
僕から視線を逸らした。
朝からずっと僕の目の前を、美しい体型をした若鮎が蠱惑的な目をして、夢幻の境地へ誘うよう
に寄り添ってきているのだ。
これを道義的な理性で制御できるくらいなら、僕はハナからこの旅行には出かけてきてはいない。
元より、僕はそれほどに賢い人間ではないのだった。
一度僕から逸らした目を、もう一度顔を上げて向けてきた、多香子の黒い瞳が妙に潤んでいるよ
うに見えた。
焦点も僕に合わせているようで、どこか違うところに向けられているような気がした。
濃紺のVネックのセーターの裾を掴んでいた、多香子の手が静かに上に向かって動いた。
細長い首と顔からセーターが脱げた。
多香子の手はさらに動き、薄水色のタートルネックの裾を掴んでいた。
目は虚ろな感じだったが、黒い瞳は妖しげな光を放って、あらぬ方向を見ているようだった。
喉の奥が渇いたような気がしたので、僕はコーヒーの残りを一気に飲み干して、目をまた多香子
に戻した。
多香子の手に躊躇はなく、柔らかな毛糸のセーターも首と頭から脱げ、見ただけで滑らかさと沁
みや無駄肉のまるでない、真っ白で張りのある肌が露わになった。
濃い水色のブラジャーが、白い肌と好対照に映えて見え、僕の喉の奥でごくりという音がしたよ
うな気がした。
僕の視線が多香子を横から見てるので、ブラジャーに覆われた、彼女の乳房のかたちの良さと、
膨らみの豊かさがはっきりと見え、僕の気持ちをかなり動揺させた。
多香子は目を少し下に向け、無表情を装っているようだったが、細い首筋と尖った顎と耳朶の辺
りに、それまでにはなかった朱色が指しているのがほの見えて、彼女が恥ずかしさに堪えているの
が垣間見えた。
この春からは晴れて大学生になる、二十歳前の娘には過酷で恥辱的な、僕の指示だったかも知れ
なかったが、僕は自分のもう一つの推測を信じることにして、敢えて何もいたわりや制止の言葉は
かけずにいた。
多香子の心の奥底に潜んでいるはずの、被虐嗜好に賭けたのだ。
あの喫茶店で初めて間近で会って、直接、言葉をかけ合った時から、そのことを僕は何の根拠も
脈絡もなく肌に感じ、自分なりに看破したつもりでいたのだ。
ここへ来る電車の中で、僕が強引にキスを強要した後で感じたことの、それは延長線上にあった
のだ。
軽井沢という場所もさながら、昨日までに振ったと思われる積雪の跡もある冷え冷えとした窓の
外だが、室内の暖房は適度な温みになっていて、僕と多香子の異常なやり取りの熱気も相俟って、
上の衣服を脱いだ多香子への気遣いは不要のようだった。
僕の非情な目が、多香子のジーンズに向いたことを、多香子は察知したのか、一呼吸の後、彼女
は徐にソファから立ち上がり、ジーンズのホックに手をかけていた。
雪のように白くて細長い足が、付け根のところまで露呈し、ブラジャーと同色のショーツの小さ
な布地まで露わになった。
細くて雪のように白い全身を、竦めるようにして立っている多香子の顔と目が、僕に向けられて
きた。
恥辱に堪える憤怒の表情にも見えたが、切れ長でやや奥目がちの目の瞳は、どこか陶酔を窺わせ
るような光りを放ってきているように、穿った見方かも知れなかったが、僕にはそう見えた。
多香子のそんな眼差しを無視して、僕は不平を意思表示するように、窓のほうに目を向けていた。
窓に向けた僕の目の端に、多香子の細い両手が背中に廻っているのが窺い見えた。
顔を少し戻すと、ブラジャーのホックを外しているところだった。
細身には不釣り合いなくらいに、膨らみの豊かで、丸く張りのある乳房が、ぶるんと震え出るよ
うにして露呈した。
その動きの続きで、ショーツまで、多香子は何かの意を決したように、一気に下に下ろし、両方
の足首から脱ぎ去った。
機嫌を直したように、僕は窓に向けていた目を元に戻し、多香子に目を振って、口の端に薄笑み
を浮かべながら、
「いい子だ。こっちへ」
と大人びた声で言って、招き呼ぶように両手を前に差し出した。
ソファに座っていた僕に崩れかかるようにして、多香子は抱きついてきた。
裸身にされた羞恥をおし隠そうとしてか、多香子は僕の胸の中に蹲るようにしがみついてきていた。
「こういうの、初めてだよな?」
多香子の顔を、上から覗き込むようにして尋ねると、多香子は今にも泣き出しそうな顔で、何度も
顔を頷かせてきた。
「俺もな…ほんとのところ、こういうのって初めてなんだよ。何でこうなったのかは、俺にもよく
わかってないんだけどな、原因はお前にもありそうだぜ」
僕が不可思議そうな顔をしてそういうと、多香子は当然のように、どうして?という顔で睨みつけ
てきた。
「つ、つまりだ。男をそういう気にさせる、何かを、多香子は身体や心に持っているんだよ、うん」
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