深沢亜樹はOL時代、恵理子の父・深沢忠義の秘書を務めていた。
若くして一流商社の役員に抜擢された忠義は本当に優秀な人だった。
普段は人当たりも良く、物静かだが、一たび仕事となると的確な判断を下し、
驚くほどの実行力を備えている。
亜樹とて新卒2年目で役員付きの秘書を任せられる才媛だったが、彼から教わることは
彼女自身を著しく成長させ、亜樹の彼に対する尊敬と敬慕は揺ぎ無いものだった。
恋愛感情が無いと言ったら嘘になるが、しかし彼は仕事だけでなく人間的にも優れていた。
愛妻家で一人娘の恵理子を目の中に入れても痛くないほど可愛がる良き家庭人だった。
亜樹はよく自宅に招かれ、奥様に親しくしてもらったし、当時まだ小学生になったばかりの
恵理子もよく懐いてくれて、亜樹の特別な気持ちは秘められたものになった。
忠義の妻が急な病で亡くなったのは5年前である。
彼と彼の娘の悲しみは深く、痛々しかった。
すこしでも2人の心を癒したい。
亜樹はただその思いだけで、公私に渡り献身的に尽くした。
少しでも彼と恵理子の心を癒せればそれで良かったのだ。
3年前、亜樹は正義にプロポーズされた。
二十代最後の年だった。
年も離れ、子持ちの再婚だけど…遠慮がちな忠義に、抑え続けて来た亜樹の恋情が一気に甦った。
亜樹は忠義の伴侶となり、恵理子とは姉妹のような母娘となった。
昨年、忠義が重役の身でありながらニューヨーク支社に赴任した時、亜樹は日本に残ることにした。
家族全員で渡米する選択肢もあったが、恵理子の進学を思うと光教学院に在籍するのが最善だった。
「亜樹さんもパパについて行きなよ、私は大丈夫だから。」
そう強がっていたが、恵理子の寂しさはひしひしと伝わって来た。
亜樹にとっては忠義も恵理子も同じくらい愛しい家族だった。
高校生の恵理子を一人ぼっちで置いて行く訳には行かなかったし、亜樹にはそれが当然だった。
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「お久しぶりです、亜樹さん。」
広木彩香が訪ねて来たのは土曜の午後、亜樹は趣味のケーキ作りをしているところだった。
恵理子の幼馴染で一番の親友の彩香とは亜樹も結婚前から親しくしている。
「恵理ちゃんなら、昨日は小谷先生のお宅に泊めていただいたのよ。
今日も先生の家で補習があるから帰りが遅くなるって電話があったばかりなの。」
亜樹は最近恵理子が予備校に来ないことや不良と付き合っていることも知らないようだった。
彩香はそういったことは亜樹には言えなかった。
恵理子の気持ちを確かめる前に告げ口をしたと思われたくなかったからである。
「あぁ、そうでした…恵理ちゃん、先生の家で勉強するって言ってたっけ。
それじゃ私先生の家に行って来ます。
どうしても今日中に恵理ちゃんに話したいことがありますから。」
努めて明るく振舞う彩香に、亜樹は弾んだ声で言った。
「だったら私も一緒に行くわ。
先生にお礼を言いたいし、一所懸命勉強してる子にケーキの差し入れ。
美味しく焼き上がったから、彩香ちゃんも一緒に召し上がれ。」
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