彼が15時に出向くところと言っていたのは、花井さんのところだったようです。約束の時間まで、あと1時間もありませんでした。あの花井さんのことですから、今日は機嫌が悪くて、そんな中、彼が約束の時間に遅れでもしようものなら、どんなに彼が怒鳴りつけられるかわかりません。
「ご、ごめんなさいね。もうこんな時間ね。早く行かなきゃね。時間、大丈夫?」
「大丈夫です、心配しないでください。ここからなら、30分あれば着くはずです。…でも、本当にいいんですか?花井さんの会社で働くの…」
「大丈夫よ。それで何とかみんなが助かるなら…。私が夫を亡くして方にくれてた時、快く私を雇ってくれた社長に、恩返しできるんだから。」
「…富美代さん。…でも、そうなれば本当に淋しくなります。」
「何弱気なこと言ってるのよ。会社が代わるだけで、私はここにいるんだから。もし淋しくなって、…谷本くんの気が変わっていなければ、…またいつでもうちに来てくれればいいんだから。」
「ほ、本当に僕なんかでいいんですか?」
「もうっ!…もう何回も言わせないで、…恥ずかしいから。あなたの方こそ、止めるなら今のうちよ。後になって、やっぱり…なんて嫌よ。」
「あ、ありがとうございます。」
そう言うと、彼は玄関へ向かいました。靴を履くと私の方へ振り向いた彼に、私は自分から軽く唇を重ねました。
彼は嬉しそうに、にこっと笑いながら、玄関の扉を開けて、車に乗りました。私は、家の前で彼の車が見えなくなるまで、ずっと見送りました。彼の車が見えなくなると、まだ信じられませんでしたが、すごく嬉しい気持ちと、彼がいなくなった淋しさで、胸がドキドキしました。早くまた彼に会って話がしたい、二人だけの時間を過ごしたい、そんな期待を膨らましている私がいました。
家に入りしばらくすると、電話の呼び出し音が鳴りました。私は受話器を取ると、社長からでした。
「山本くん…君には本当に申し訳ない。うちとしても、今君のような頼りぬる人材を失ってしまうのは、本当に辛いんだが…。私が不甲斐ないばかりに、君に迷惑をかけてしまって…。すまない。」
「そんな風に言わないでください。私も夫を亡くして一番苦しい時に、社長が手を差し伸べてくれたおかげで、ここまでやってこれたんですよ。お礼を言わなければいけないのは、私の方です。気にしないでください。」
「…ありがとう。今、谷本が花井さんのところへ向かって、その君の返事を伝えに行っている。何か詳しいことがわかったら、話が済み次第、谷本に連絡させるから…本当にすまない。よろしく頼むよ。」
そう言うと、社長は電話を切りました。
本当は、このまま今まで通り勤めたい、
今までの関係とは違う、彼の側で一緒に仕事がしたい…。でも、会社のみんな、
もちろん彼も仕事を失ってしまうのを避けるには、こうするしかありません。花井さんの会社に、彼はいませんが、会いたくなれば、これからはいつでも、彼と二人きりにもなれる…そう自分に言い聞かせ、会社を移ることになった現実を受け入れれるよう自分に言い聞かせ、気持ちを切り替えようとしました。気がつけば、もうすぐで18時になりそうで、外はすっかり日も沈み、薄暗くなっていました。電話が鳴り、私は受話器を取りました。谷本くんでした。
「もしもし?」
「あ、もしもし?富美代さんですか?谷本です。花井さんにお伝えしました。さっそくなんですが、明日にでも一度、会って話がしたいとおっしゃってました。今、体調を崩して、今週はお休みしてるとは言ったんですが…」
「私はもう大丈夫よ。それより…そんなこと言って、花井さんの機嫌悪くなって怒鳴られなかったの?」
「…まぁ、多少は…。でも、もう大丈夫です。富美代さんが心配することはないですから。」
「…それならいいんだけど。これからまた、会社に戻るの?」
「いいえ。さっき会社へ結果を報告したんですが、今日は大変なことを全部任せてしまったから、早く帰って休め、と言われました。」
「そうなんだ。あ、お昼、結局食べずだったけど、お腹は大丈夫なの?」
「そうでしたね。すっかり忘れてました。どおりでお腹がグルグル鳴るはずですね。」
そう言う彼に、私は恐る恐る、聞いてみました。
「…それなら、今から…うちで…夜ごはん…一緒に食べる?」
「えっ!?お、お邪魔していいんですか?」
「…待っるから…気をつけて来てね。」
そう言うと、私は電話を切りました。胸のドキドキがおさまらないどころか、どんどん激しくなりました。谷本くんとつきあうことになったのは嘘ではなく、紛れもない現実なんだと、改めて思いました。そして、彼の帰りをまだかと待ち、
夜ご飯の支度をせっせとしている私がいました。
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