そう、人は「落ちる」のだ。
屈服、絶望、敗北感、服従、脱力感。
支配される立場、敵わないと悟る、従属。
落ちた人間は全てが変わる。
支配された人間の前で、反抗心など無くなるのだ。それこそ「無」なのである。万が一にも、反抗の意志など見せてはならない。更なる、苦しみと辱しめをあらゆる手段を用い行われるのだから。これは、過去私が経験したイジメから学んだものと、現在部下に行っている教育を観察しての結論とも言える。
私は部下二人に対して、その手段を選ばず、抵抗する意思を反抗する気持ちを摘んでいった。
この時、留意する点は「恐れられても、恨まれてはならない。」と、言うことである。手段を選ばずとは、基本的にその範囲内でなければならない。
落としたとしても、殺意を持たれ…後ろからグサリでは、あまりに本末転倒である。
他にも注意する点は、あまりに多くあった。集団行動、グループ行動をして来なかった私には学ぶべきことが思いの他、累積していた。
それらを、歴代の書物とインターネットから学び、実際に社内で使うことで現場で仕様出来るのかを研究した。
部下の掌握に、そこまで時間を費やすなど愚の骨頂ではないか。
そう考える方もいるでしょう。しかし、私は今まで虐げられてきた人間なのだ。人間のクズと呼ばれ続けたモノなのだ。
それが、支配する側の人間になったのである。
初めて部下を落とした時の事は、生涯忘れないだろう。
抵抗の意志を絡め取った。彼の心構えが見てとれる。身体の動きで何を考えているかが読み取れた。
逆に、彼は私の思考が解らない。支配され敗北感しかない彼は、私の顔など見たくないだろう。だが、私の一挙手一投足に目が離せない。目を離せば、私の挙動を見過し機嫌を損ねてしまうかもしれないのだから。
その時の、私の感覚は筆舌し難い快感だった。スポーツの勝利より、商談の成功より、賭博の配当より、性行為より
純粋な「快感」だった。私は、その時満たされた。スマイルは下卑た笑みを浮かべたに違いなかった。
過去、私を虐げた者達の快楽が分かった。彼等の愚行は、この快楽を欲するが為の行為立ったのだ。私のこれ迄の人生が無駄に思えてしかたなかった。
私は支配する快感に、目覚めたのである。
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