医療用ドリルの聞き慣れた甲高い音が、咲の手元から響いてくる。今日の治療が済んだ患者がほっとしたように口の中を洗い流し、診察室を去っていく。
マスクを外した咲がひとつ息を吐いて、不意にあのときのことを思い出していた。もう最初に抱いた恐怖心はないが、我が身にあまりにも唐突に訪れた出来事が未だに信じられなかった。
ヒリヒリするような緊張感と羞恥心に悩まされながら、されるがままになるしかない時間は、ある意味で生き地獄だった。彼に手渡された紙片、それを持って然るべき場所に訴えることはできた。
実際、本気でそうするつもりだったのだ。
でも、出来なかった。時間が開いて落ち着けば怒りが再燃すると思ったのに、自分でも意外なことにそうはならなかったのだ。もちろん訴え出れば自分が受けた被害を詳細に語らなければまならず、それではセカンドレイプになる。証拠のひとつでもある紙片を突き出してやろうかとも思ったものの、やはり出来なかった。
悔しいけれどあの目眩く官能の世界に、惹かれる自分がいたのだ。手の中の紙片を見て、こんな物は破り捨ててしまおうとしたが、それも出来ない。咲は自分でも信じられなかったが、そこに記された連絡先で接触を試みて、短いやり取りをしていた。
………連絡をくれて、ありがとう…
………あんな不躾なことをして、ごめんなさい
………僕は病気を持っていませんし、妊娠をさせることはしません
………貴女のような人を見て、自分を抑えられませんでした
都合のいいことを並べ立てた文面が、続いていた。
……魅力的な貴女に正攻法で近づいたとしても、貴女からすれば若過ぎる僕は相手にされなかったでしょう
………一時でいい、貴女を自分のものにしたかった
………身勝手ですよね……
本当に、身勝手な男だと思った。恋愛にすり替えて歪んだ愛をセックスに昇華させたというのか。
咲は激しい怒りを覚えたが、それも一瞬のこと。
咲は去り際に見た彼の横顔を、思い出していた。
長い睫毛が印象的な美青年といった若者で、彼なら放っておかない年相応の女性はいくらでもいるでしょうにと、首を傾げたくなる。彼は咲のことを魅力的な貴女といった。彼からしたら私は既にもう、おばさんなのに………。
………もし、これからもお赦し頂けるならスカートやワンピースで電車に乗車して下さい、お嫌ならパンツを履いて、僕の手を振り払って下さい、僕はもう、手を引きますから
もちろん咲は、翌日からパンツを身に着けて通勤を始めていた。どういうわけか彼は朝から咲を見つけ出し、お尻に触れてきた。パンツどういうこともあり、咲の勝手にはさせないという意思表示を察した彼は、手の温もりをを伝えてくるだけに留めてくれていた。
もちろんそれは咲が彼の手を、振り払ったりするような真似をしなかったからだ。実は咲はその時まで彼の手を冷たく振り落とすつもりでいたはずだったのに、出来なかったのだ。それは彼の手の温もりを感じたその瞬間、息をするのも苦しいほどの快感が、フラッシュバックしたからにほかならない。
朝も帰りも電車の中で、彼は咲の腰やお尻に手の温もりを伝え続けてきた。咲は目眩がしそうになるほど胸が高鳴り、黙って体が熱くなるのを感じていながら我慢していたのだ。でも、それはそろそろ限界を迎えそうになっていた。
咲はマスクを直して次の患者を迎える準備を整えながら、明日は何を着ていこうかと考えていた。
明くる日の朝、駅のホームで見かけた咲は、卓をときめかせる服装をしていた。
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