【28】
「おはよう、お母さん。」
「あ・・お・・おはよう・・。」
いつもと変わらず、制服を着て朝の挨拶をする香奈の姿を見て、母親は持っ
ていた菜箸を落としてしまった。
「あ・・あの・・香奈?もう・・大丈夫なの?・・学校に・・行くの?」
不安と驚きの混ざった表情で心配そうに尋ねる母親を見て、香奈はなるべく
明るく振る舞いながら答えた。
「ゴメンね、お母さん。ちょっと色々あって悩んでたんだけど、もうスッキ
リしたから。」
「そ、そう・・。それなら良かった。あ!朝ご飯・・?」
突然の香奈の変化についていけないような困惑した表情の中に僅かな安堵の
笑みを浮かべながら母親が聞いた。
「いい。今日は早く出るから。行ってきます!」
そう言うと香奈はさっさと玄関を出て行った。
家を出た香奈は近くのバス停に向かい、駅前行きのバスに乗った。
駅は香奈の学校をだいぶ通り過ぎた所にある。
香奈は学校に行くつもりは無かった。
今日一日、街を歩き周り気分を変えようと決めていた。
部活のバッグの中には私服と外出用のバッグを入れてきた。
まだ早い時間の為、学生達はバスに乗って来ない。
バスは、まだ車の少ない国道をゆっくりと走る。
香奈は窓から見える空を眺めた。
灰色の雲に覆われているが所々に薄青の空が覗き、柔らかい日射しが差し込
み始めている。
初冬の空。
風は無く、冷たく乾燥した空気を割きながらバスは駅前へと走っていく。
香奈は、久々に外に出た爽快感と学校をさぼって市街へ向かう罪悪感に幾分
かの興奮を覚え、憂鬱な気分が少しだけ晴れていくような気がした。
バスは駅前に到着した。
香奈はバスを降りると、急ぎ足で駅の構内のトイレに向かった。
取り敢えず用を足すと、バッグの中から私服を取り出し着替え始めた。
私服といってもスキニージーンズとニットにカーディガン、モッズパーカー
というボーイッシュなもので、香奈の私服の殆どはそのようなカジュアルな
ものが大半を占めていた。
制服を丁寧に畳んでバッグに入れると、財布と携帯、ハンカチ、ティッシ
ュ、リップクリーム等を赤い革製の手提げ鞄に入れ、個室を出てコインロッ
カーに向かい学校の鞄とバッグを入れた。
制服を脱いでしまうと何故だか開放感を感じてきた。
少しお腹が空いたので駅の構内にある何だか聞いたこともないハンバーガー
ショップに入り、チーズバーガーとオレンジジュースを注文し、通路側の席
に座って食べた。
ガラスの向こうでは人々が慌ただしく行き来している。
この人達は、これからそれぞれの会社や学校に向かうんだろう。
そして、それぞれの時間を過ごすんだ。
そこには様々な出来事があって、泣いたり笑ったりするのだろう。
そして、夕方になれば、その日の思い出を持って、またここを通り過ぎて行
くんだろう。
まるでベルトコンベアーに乗って運ばれる荷物のように、規則的な流れに乗
って決められた動きをしているように見えるけども、そこには多種多様の思
いがある。
行き交う人達を眺めながら香奈はそんな事を考えていた。
『あたしも明日からこの流れの中に戻る。戻りたい。でも、今日は自由なん
だ。』
香奈はしばらくガラス越しに通路を眺めていた。
だが、余り長居していると知り合いに会うかもしれないし、何より補導され
るのが怖い。
香奈はトレイを戻すと、そそくさと駅を出て、近くのネットカフェに向かっ
た。
殆どの店は10時オープンだろうから、それまで漫画でも読んで時間を潰す
つもりだった。
無愛想な冴えない眼鏡を掛けた若い男の店員が上目遣いに香奈をジロジロ見
ながら利用条件を聞いてきた。
香奈は人に見られないよう個室を選び、別の店員に案内され個室に入った。
荷物を置いてから外に出て数冊の漫画を適当に選び個室に置くと、今度はカ
ウンターでチョコレートを買い、ドリンクコーナーでコーヒーを注いでから
また個室に戻り、リクライニングに深々と腰掛けてから漫画を読み始めた。
しばらく漫画を読むのに没頭していたが、ふと顔を上げ冷めてしまったコー
ヒーを啜っている時、隣の個室から男女の声が聞こえた。
それは小さく囁くような声だったが、小さく流れるBGMに時折かき消されなが
らも香奈の耳に届いてきた。
「やだ・・やめてよ・・こんなトコで・・見られたらどうすんのよ。」
「誰も見やしねーよ。」
「だって・・誰か通ったら丸見えじゃん。」
「ばーか。だからいいんじゃん。」
「だめだって・・・あっ・・・。」
『やだ・・何してるの・・こんな朝から・・。』
香奈は隣から漏れてくる囁きと衣擦れの音に大体の察しはついたが、よりに
もよってこんな朝早くから若い男女が隣の個室でそんな事をするとは思いも
よらず、ついつい耳を済まして聞き入ってしまっていた。
しかし、今までの香奈であれば性的な興奮を覚えていたはずだが、ここ最近
の出来事のせいで体は拒否反応を示すようになっており、隣で行われている
行為に嫌悪感すら抱き始めた。
『気持ち悪い・・。』
聞こえてくる小さな甘い吐息が香奈には不快感を与え、モニターの横に掛け
られたヘッドフォンを掛け耳を塞いだ。
『やめてよ!こんなとこで・・他の人の迷惑くらい考えてよ!』
しばらく聞こえないようにヘッドフォンで耳を塞いでいた香奈は、腹立たし
さを覚え、立ち上がるとワザと音を立てながら申し訳程度についている小さ
なドアを開けると、飲み物を取りに個室を出た。
隣の個室からはバタバタと慌ただしい音と共にクスクスと笑う声が聞こえ
た。
暖かいココアを注いで戻った香奈は、椅子にもたれ掛かると背を倒し、ヘッ
ドフォンを掛けてテレビをつけ、普段なら見る事のない朝の情報番組をしば
らくぼーっと眺めていた。
ふと携帯をバッグから取り出し、時間を見た。
8時48分。
まだそれ程時間は経っていない。
香奈は目を瞑った。
不規則な生活をしていた為か、今朝早起きしたせいか、眠気が襲ってきた。
香奈は、ぼーっとする頭で学校の事を考えた。
今頃みんなは一限目の授業の最中だ。今日は金曜だから一限目は古典のは
ず。
『退屈だろうな。メグミは、きっとまたノートに落書きでもしてるんだろう
な。住田君は頭いいし、真面目だからちゃんと聞いてるかな。中村君は・・
やっぱり寝てるだろうな。』
クラスメート達の事を想像してみる。
しかし、意識は中村の事に集中していく。
中村の屈託のない笑顔。広い肩幅。
滑舌の良い歯に布を着せぬ口調。
そして、時折見せる切なげな表情。
『中村君に会いたい・・・。』
もし、今隣の個室にいる男女が自分と中村だったら・・。
もし、ここに中村がいたら・・。
香奈は目を瞑ったまま想像した。
悪戯っぽく笑いながら、自分の肩に手を掛け、引き寄せられる。
唇を奪われながら乳房をまさぐられる。
その手は下腹部へと移動し、ジーンズのボタンをはずし始める。
先程まで感じていた性的な事に対する不快感は不思議と感じなく、寧ろ興奮
を覚えだした香奈は、右手をジーンズのファスナーから股間に入れ愛撫し始
めた。
下着の上から陰部を擦ると久々の快感が股間を熱くし、下着の脇から指を入
れ、割れ目にそって動かすと確かにそこは濡れていた。
『そっか・・好きな人の事を考えると気持ち良くなれるんだ・・・。』
香奈は中村とのセックスを想像しながら夢中で股間を愛撫した。
スキニーのジーンズが肌にピッタリと張り付いていて指の動きが制限され、
ひどくもどかしかったが、この場所で脱ぐわけにはいかず僅かにもぞもぞと
指を動かしながら、それでも絶頂へ近付いていった。
ふいに隣の個室からガタガタと大きな音がして、香奈は我に返り急いで姿勢
を正すと、慌ててジーンズのファスナーを閉めた。
どうやら隣の男女が出て行ったようだ。
水を差された香奈は、大きく溜め息をつくと、携帯を開けて時計を見た。
9時47分。
そろそろ駅前のファッションビルが開店する時間だ。
香奈は鞄を持つと個室を出て会計を済ませ、再び駅の方へ歩いていった。
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