【26】
「なんだか久し振りによく眠れた気がする・・・。」
翌朝、孝史は何時もとは違う、何かスッキリとした気分で目覚めた。
決して問題が片づいた訳では無いが、事態を収束させる方向性を決めたこと
が孝史の憂鬱を幾分か軽減し、閉塞感を無くしたのだろう。
やるべき道筋、自分が進む方向を決断すれば、意外と悩みなどは消えるもの
だ。
昨日の夜、警察署から陽子を連れて帰ってきた孝史は、泣き続ける陽子に何
も聞かなかった。
時間を置くべきだと思ったからだ。
同僚の村田に電話を掛け、訳を話して会社を休むと伝えてからベッドに横に
なった時、意外に冷静でいる事に自分でも驚いた。
「なんだか色々ありすぎて、昨日のことが夢みたいだ・・・。」
孝史はそう呟くと起き上がり、寝室を出て洗面所へ向かった。
キッチンから音がする。
陽子が朝食の用意をしているようだ。
孝史は洗面台で顔を洗った後、ふと鏡を見た。
「ヒドい顔してるな・・・。」
鏡に映る自分の顔をまじまじと見てみる。
髪も髭も伸び過ぎ、目尻や口元にはシワが寄り、頬は少しこけて、やつれた
ようだ。
顔を洗い終えた孝史はキッチンに向かい、無言のまま陽子と二人で朝食をと
った。
孝史は、着替えると居間のソファーに座り、陽子が片づけ終えるのを待っ
た。
「・・陽子・・ちょっといいかい。」
片付けを終えた陽子を居間に呼ぶと二人はテーブルを挟み向かい合って座っ
た。
「・・・いつからだったんだ?」
孝史は伏し目がちに陽子に聞いた。
陽子も目を伏せ、しばらくしてからゆっくりと口を開いた。
「・・3ヶ月程前から・・。あなたが仕事で帰りが遅くなって・・会話もし
なくなって・・寂しくなって・・・。」
「・・・そうか。仕事は・・パートは行っていたのか?」
「パートは週に3日だから・・。」
孝史はその事を初めて知った。
いや、多分聞いていたんだろうが覚えていなかった。
陽子のパートのシフトなど気にもしていなかった。
『俺は・・なんで覚えてないんだろう?なんで陽子の休みの日すら知ろうと
しなかったんだろう?』
孝史は、自分の陽子に対する無関心さを痛感した。
愛している。
愛していた。
しかし、結婚してからは全くの根拠のない安心感を持ち、妻の出勤日すら知
ろうともせず、ただ自分のスケジュールだけしか考えずに過ごしてきた。
『その結果が・・これか。』
孝史は陽子を責める気が無くなった。
淡々と今までの経緯を聞き、ただ頷くだけだった。
自分に否があったとまでは思わないし、陽子の浮気を許すつもりも無いが、
もう何も言う気も起こらない。
あれほど嫉妬心を持っていたのに、相手の事を聞いても何とも思わなくなっ
ていた。
陽子の浮気相手、「神村明宏」とはパート先で出会ったらしい。
半年ほど前、孝史の帰宅が遅くなりだした頃、アルバイトとして同じ部署で
働くようになったという。
明宏は、見た目も良く、話も面白く、特に陽子になついてきていたらしく、
仕事仲間達との飲み会の時に関係を持ち、明宏がアルバイトを辞めた後も関
係を続けていた。
しかし、口では愛していると言う明宏に女の影を感じて、パートの休みの
日、つまり昨日、アパートへ押し掛けてみると、前日に自分と会っていたに
も関わらず若い女が部屋にいて、頭が真っ白になり、その後はよく覚えてい
ないという。
まるで昼間のドラマのような話だが、現実にそれは孝史の妻である陽子が起
こした事件であり、平凡な日常を当たり前のように感じていた孝史には、お
およそ想像もつかない出来事だった。
ひと通り話を聞き終えた孝史は陽子に言った。
「俺は離婚するつもりはない。子供たちがある程度大きくなるまでは、俺か
らはその話はしない。それは、俺やお前の為ではなくて、子供達の為だ。」
陽子は俯いたまま頷くと、肩を震わせ嗚咽を漏らし始めた。
孝史は黙って立ち上がると寝室に戻り財布と携帯を持って家を出た。
孝史の頭の中には、もう陽子の事は無かった。先程の話し合いで、既に孝史
にとっては解決した問題となっていた。
後は、あの少女を探し出さなくてはいけない。
あの少女に会って、謝らなければいけない。
孝史は行きつけの美容室へ電話をかけ予約を入れた。
そして、予約の時間まで買い物をする事にしてバスで市街へ向かった。
とにかく心機一転となるように身なりを整えたかった。
駅前のビルでブーツとジーンズとシャツ、カットソーにコート、それとベル
トにライダースジャケットを買い、それらを駅のロッカーに入れると、美容
室に向かい、長く伸び過ぎた髪を綺麗に揃え、緩いパーマを当て、髭を剃っ
た。
それから昔よく通っていたバイクショップに行き、程度の良い中古のヤマハ
の単気筒を買った。
現金は僅かしか持たなかったので、洋服はカード、バイクはローンで買っ
た。
決して裕福ではなく、そんな出費など普段なら絶対にしないのだが、今だけ
は生まれ変わる為の儀式のようなものだと考え、散財を惜しまなかった。
バイクショップの馴染みの店員に、すぐに乗って帰りたいと言い、整備もほ
どほどにバイクに跨ると市街を走り回った。
しばらく走り回ると、帰路につき、あの国道を通ってみた。
『あの少女は、またここを通るだろうか。学校の行き帰りはこの道しかない
筈。この道を探していれば、いつか会えるかもしれない・・・。』
孝史はそう考えながら夕日が射し始めた国道をゆっくりと走った。
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