【16】
「お帰りなさい。最近早いのね。」
キッチンで夕飯の支度をしていた陽子は居間に入ってきた孝史を一瞥する
と、そう言って鍋の方へ向き直り、また淡々と料理の続きを始めた。
「ああ・・・。」
孝史は、陽子の後ろ姿をぼんやりと見つめながら低く抑揚の無い声で答え
た。
孝史は未だに陽子に問い詰める事が出来ないでいた。
頭で何度もシミュレーションしてみた。
恐らく陽子は、確実な浮気の証拠を持たない孝史に対してウマく誤魔化す
か、正直に全てを話し、子供達を連れて出て行くか、どちらかの選択をする
だろう。
どちらにしろ、その一言が陽子との関係を後戻りの出来ない状態にしてしま
うのは間違いない。
かと言ってこのまま黙っていては何の解決にもならず、自分を苦しめ続け
る。
孝史はどうすべきかの決断を自らに迫るが、結論は出ないまま時間だけが過
ぎていく。
そして、時間がたつにつれ、孝史の心の奥深く、深層の片隅には、『自分が
黙っていれば今の生活は壊れない。自分さえ我慢していれば・・・。』とい
う思いがジワジワと膨らんでいた。
今でも孝史は陽子を愛している。
出会った時と変わらずに愛し続けている。
いや、浮気を知った時からは、彼女の心が自分から離れていくのを感じ、尚
更に陽子を離したくなくなった。
「あなた、何ボーっとしてるの?大丈夫?疲れてないんなら買い物頼みたい
んだけど。」
陽子の声に我に返った孝史は、足にしがみついてじゃれている子供達の頭を
撫でながら陽子を見た。
「トイレの電球切れちゃってて・・・。悪いんだけど買ってきてくれな
い?」
いつもと変わらない調子で話しかけてくる陽子。
後ろで束ねた髪は、少し茶色に染まり、緩いパーマが当てられている。
服装こそいつもと同じスウェットにジーンズだが、やはりここ最近で変わっ
たように見える。
『綺麗になったな・・・。』
ボーっと見つめている孝史に陽子は、
「どうなの?行ってくれるの?」
と少し語気を荒げて聞いた。
「あ・・ああ、いいよ。電話くれたら帰りに買ってきたのに。」
「・・忘れてたのよ。」
孝史は子供達を順番に抱き上げると薄いコートを羽織り、「買い物に行って
くるから」と言って、玄関を出てから車に乗り込んだ。
『近くのスーパーなら電球ぐらい売ってるだろう。』
歩くには距離がある。
孝史はエンジンをかけると注意深く左右を確認し家の前の路地に出てスーパ
ーに向かった。
一番近くにあるスーパーは孝史の会社と自宅の中間ほどにある。
住宅街の一番市街地に近い国道沿い。
スーパーの方へ右折する為、車線を変えた所で前方の信号が赤に変わった。
この交差点の角にスーパーはある。
孝史は、ネクタイを緩めながらここからも見える駐車場を眺めた。
「まだ車が多いなぁ。」
時計を見ると7時を過ぎていた。
信号が青に変わり、対向車がいないことを確認すると交差点を右折し始め
た。
と、丁度曲がり終えた時に前方の横断歩道を自転車が渡り始めた。孝史は車
をゆっくりと止めると目の前を通り過ぎていく自転車を見た。
『あ・・・!この娘・・確かこの前覗いてた・・・。』
紺色のブレザーの制服に身を包み、ショートの黒髪を風に靡かせながら車の
前を通り過ぎていく少女は、確かに「あの時」に孝史の行為を覗いていた少
女に間違いなかった。
ピピーッ!!
少女の姿を目で追っていた孝史は、後方から右折して来た車にクラクション
を鳴らされ、ハッとして車を発進させた。
駐車場に車を止めて中に入ると、孝史は電球を探した。
普段買い物などしない孝史は、天井から吊された商品のカテゴリーが書かれ
た看板を一つ一つ確認し、50ワットの電球が置いてある棚を見つけると、
2つ手に取りレジにならんだ。
孝史の前には若い男女が食料品の入ったカゴをレジに載せ、順番を待ってい
る。
カップルなのか兄弟なのか、男は大学生か社会人一年生くらい、長髪で背が
高く、胸がV字に開いた白いカットソーの上に黒いジャケットを羽織り、首
にはストールを巻いている。細身のジーンズをブーツに入れた足がスラリと
長い。どうみてもモテそうだ。
女の方は一目瞭然、女子高生だ。紺色のブレザーにさほど短くないスカート
と白いソックス。背は高くなく、少しぽっちゃり気味の、どこかボーっとし
た不思議な印象を与える顔だ。
「あたし料理得意なんだよぉ~。多分ほっぺた落ちるね。ぜぇ~ったい落ち
るかんねぇ~。」
女の子は男の腕にしがみつくように体をピタリと寄せて、男の顔を見上げな
がらニコニコして話している。
顔は二人とも全然似ていない。
孝史は、その女の子が着ている制服が先程見た「あの時」の少女のものと同
じ事に気がついた。
買い物を済ませ家に向かう車の中で、ふと「あの時」の少女のことを思い浮
かべた。
『なんか独特の魅力のある娘だったな。あの娘、この辺りに住んでるのか。
何年生だろ?見た限りじゃ中学卒業したばかりっていう感じだよな。で
も・・ああいう美しさを持つ女の子って、そんなにいないよな・・・。』
気がつけば、孝史は家に着いていた。
帰ってくる間、ずっとあの少女の事を考えていたようだ。
車から降りた孝史は、途端に、またあの憂鬱な重苦しい感情が心に押しかか
り、息が苦しくなるような閉塞感を感じながら玄関を開け家の中へ入ってい
った・・・。
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