この間言った、ずっと好きだった女の子。水谷美那――その名前を心の中でそっと繰り返す。彼女はショートカットが似合う、元気で活発な女の子だ。
クラス替えで席が隣になったあの日、初めて言葉を交わした美那は、まるで春の陽だまりのように優しかった。内向的な僕に、気さくに話しかけてくれた時の、あの温かい笑顔は今でも鮮明に覚えている。もっとも、彼女は僕の女友達と同じバレーボール部に所属しているから、僕のことを全く知らなかったわけではないらしい。それでも、初めて間近で接する彼女の優しさは、僕にとって特別なものだった。
隣の席になってからというもの、ささやかな会話を交わすようになった。授業中に分からないところを教えてくれたり、休み時間に好きな漫画の話で盛り上がったり。彼女の明るい声が、僕のいつも静かな日常に、小さな彩りを添えてくれるようだった。
もちろん、心の中では色々な感情が渦巻いていた。ずっと憧れていた女の子が、こんなにも近くにいる。話しかけるたびに、ドキドキしてしまう。でも、陰キャの僕には、どうすることもできないもどかしさがあった。彼女は明るく、誰にでも優しい。僕だけに特別な感情を抱いているわけではないだろう。
それでも、隣の席になったという、ただそれだけのことが、僕の毎日に小さな希望の光を灯してくれたのは確かだった。学校へ行くのが、少しだけ楽しみになった。授業中に、ふと彼女の横顔を見てしまう時間が増えた。
あの公園のベンチで綾香さんと話す時も、美那の存在が、時折僕の話題に上るようになった。「クラスの隣の席の子がね……」「今日、その子に面白い漫画を貸してもらったんだ」と。綾香さんは、僕の言葉を静かに聞いて、時折「へえ、そうなんだ」と相槌を打ってくれる。彼女が、僕の淡い恋心に気づいているかどうかは分からない。
でも、美那と隣の席になったことは、僕にとって、停滞していた日常が、ほんの少しだけ動き出したサインだったのかもしれない。相変わらず目立たない隅っこが好きな僕だけれど、彼女が近くにいるという事実が、僕の心に小さな勇気をくれた。いつか、この気持ちを伝えられる日が来るのだろうか――まだ、そんなことは想像もできないけれど。
公園のベンチに並んで座り、いつものように他愛ない話をしている時だった。夕焼けが空をオレンジ色に染め始め、周囲の喧騒も少しずつ静まっていく。そんな穏やかな空気の中、僕はふと、最近クラスで隣の席になった水谷美那のことを話し始めた。
「あのさ、綾香さん」
少し躊躇いながら、僕は口を開いた。
「ん? どうしたの?」
綾香さんは、いつものように優しい眼差しで僕を見つめる。その視線が、僕の心の内を見透かしているようで、少しドキッとした。
「クラス替えで、また水谷さんが隣の席になったんだ」
「へえ、そうなんだ」
綾香さんの声は、いつもと変わらず落ち着いている。でも、なぜだろう、僕はまるで秘密を打ち明けるような、後ろめたい気持ちでいた。
「水谷さんって、ショートカットが似合う、すごく明るい子で……」
僕は、美那の元気な笑顔や、分け隔てなく誰にでも優しいところを、少し早口で説明した。話しているうちに、なんだか自分が浮ついているような、落ち着かない気分になってきた。
「そうなんだ。素敵な子ね」
綾香さんは、相槌を打ちながら、僕の話を聞いてくれている。でも、その表情はどこか冷静で、僕の内心のざわつきとは対照的だった。
「うん……クラスでも人気があるし……一緒にいると、すごく楽しいんだ」
僕は、自分の気持ちを言葉にするのが、なんだか気恥ずかしかった。綾香さんに、他の女の子のことを話すのは、まるで長年連れ添った恋人に、別の異性のことを告白するような、そんな罪悪感に近い感情が湧き上がってきたのだ。
(俺は何を言っているんだろう……綾香さんは、ただ話を聞いてくれているだけなのに……)
心の中で、そんな自己嫌悪のようなものが湧き上がってくる。綾香さんとの間には、言葉にはしないけれど、特別な繋がりがあると感じていたからこそ、他の女の子の話をすることが、裏切りのように感じてしまったのかもしれない。
「そっか。翔太にとって、大切な友達なんだね」
綾香さんのその言葉に、僕はハッとした。そうだ、僕はただ、友達のことを話しているだけなのに。なのに、なぜこんなにも心が騒つくのだろう。
「うん、まあ……友達、かな」
僕は、曖昧な返事をして、視線を空に向けた。夕焼けの色が、さっきよりも濃くなっている。隣に座る綾香さんの横顔は、相変わらず静かで美しい。
僕は、一体何を恐れているんだろう。ただ、好きな女の子のことを、信頼できる人に話したかっただけなのに。それなのに、まるで不倫をしているかのような、そんな奇妙な罪悪感に苛まれている自分が、なんだかおかしくて、そして少し情けなかった。
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