3年生になっても、僕は変わらず教室の隅の席を確保した。窓の外を眺めながらノートを取り、休み時間は文庫本の世界に浸る。ああ、変わったことといえば、ずっと好きだった女の子と、また隣の席になったことだ。クラス替えの時に席が近くなって、当時は初対面だった彼女に優しくされたのは嬉しかった(尤も、僕の女友達と同じ部活だから、向こうは僕のことを知っていたが)。
そんな僕にとって、放課後のあの公園のベンチは、騒がしい日常から隔絶された大切な場所、いわば「聖域」だった。
綾香さんと会うのは、相変わらず週に一度か二度。夕焼けが空を染め始める5時前。僕たちは、とりとめのない話をする。学校でのできごと、最近読んだ小説の感想。綾香さんは、刑事の仕事のこと、時折キックボクシングの練習について話してくれた。
彼女の言葉は、いつも冷静で、飾り気がない。でも、その奥には、じんわりとした温かさが感じられる。事件の話や、社会の不条理を聞くこともあるけれど、綾香さんの語り口は常に淡々としていて、感情的な色彩はほとんどない。それでも、その言葉の端々から、強い正義感と、人に対する深い優しさが滲み出ているのを感じるのだ。
夏休みが近づいてきたある日、いつものように公園のベンチで並んで話していると、綾香さんがふと、何か考え込んでいるような表情を見せた。
「あのね、翔太」
珍しく、彼女が僕の名前を呼んだ。いつもは「あなた」とか「君」と呼ぶことが多いから、心臓が少し跳ねた。
「うん?」
「もし、何か困ったことがあったり、誰かに相談したいことができたら……いつでも私に連絡してきていいからね」
そう言って、綾香さんは小さなメモを僕に差し出した。見ると、彼女の携帯電話の番号が、丁寧に書かれていた。
「刑事の仕事は忙しいから、すぐに返信できるとは限らないけれど……でも、話を聞くことくらいはできると思うから」
僕は、そのメモを両手で大切に受け取った。まさか、綾香さんの連絡先を教えてもらえるなんて、夢にも思っていなかった。陰キャで、人付き合いが苦手な僕にとって、それはまるで、暗闇の中で差し出された一筋の光のような、特別な贈り物に感じられた。
「ありがとうございます」
顔が少し熱くなるのを感じながら、僕はそう言った。
「別に、大したことじゃないわよ」
綾香さんは、少しだけ頬を赤らめて、そっぽを向いた。でも、その言葉の奥にある、紛れもない優しさは、しっかりと僕の胸に届いた。
3年生になって、学校生活は少しだけ慌ただしくなったけれど、あの公園のベンチで綾香さんと過ごす時間は、僕にとって変わらない心の避難場所だった。彼女の静かで確かな存在が、僕のモノクロームな日常に、柔らかな光を灯してくれていた。そして、あの時にもらった連絡先のメモは、僕にとって大切なお守りになった。いつか、本当にどうしようもないことが起きたら、勇気を振り絞って、この番号に電話してみよう。そう、心の中でそっと誓った。
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