梅雨入りした6月のある日、部活を終えた僕は、蒸し暑さに辟易しながら上着を脱ぎ、一刻も早く涼しい自宅に戻ろうとしていた。
綾香さんとあの公園で会うのは、たいてい部活帰りの午後5時少し前。週に1、2回程度の、短いけれど大切な時間だ。
ふと、あの時の会話が頭をよぎった。「綾香さんと佐藤宏美先生の喧嘩」。まさかそんなことがあったなんて、今でも信じられないような話だった。
「そうだ、久しぶりに宏美先生のところに顔を出してみようかな。」
宏美先生に会うのは、小学校を卒業して以来だから、1年ちょっとぶりになるだろうか。そもそも、小学校に足を踏み入れること自体が久しぶりだ。
少し緊張しながら小学校の門をくぐり、職員室へと向かった。
「こんにちは。一昨年卒業した木戸翔太です。」
「ああ!翔太くんか!」
温かい笑顔で声をかけてくれたのは、5・6年生の時の担任の先生だった伊藤裕紀先生だ。
「翔太久しぶり。元気だった?」
伊藤先生の、あの頃と変わらない元気で優しい声が、懐かしさとともに胸に響く。
「はい。相変わらず運動は苦手ですが」
運動音痴の僕に対して、伊藤先生は運動神経抜群だった。女性としては長身で、プールの授業では高校時代にスイミングクラブに通っていたという話を聞いて、なるほどと思ったものだ。
「あの……佐藤宏美先生と、少しお話ししたいんですけど……」
「佐藤先生ね。」
僕は、国語や算数よりも、図工や音楽、家庭科といったいわゆる「専科」の授業が好きだった。僕が小学校にいた頃、宏美先生は担任ではなかったけれど、中学校の音楽の先生と親交が深いという話は聞いたことがあった。
伊藤先生に教えてもらい、別館1階の図工室へ向かう。教室の奥、教卓に座って何かの作業をしている宏美先生の姿が見えた。
僕は、窓を軽く叩いた。
先生が顔を上げる。少し驚いたような表情をした後、「まあ!」と目を丸くした。
「こんにちは。宏美先生……いや、もう佐藤智恵先生は異動されたから、佐藤先生でいいか。久しぶりですね。」
佐藤誠子先生とは僕の卒業の時までいた理科教師でをされていた人。僕はよく理科準備室に入り浸っていたが、理科準備室にパンチングボールが置いてあって驚いた記憶がある。佐藤先生は結構身長が高かったから、きっと力も強かったんだろうな。
「ああ、翔太さん?久しぶりね。大きくなったわね!」
先生は立ち上がり、優しく微笑んでくれた。
もちろん、ここで綾香さんの話をするつもりはなかった。ただ、あの時の意外な話を聞いて、先生に直接会って、昔のことを少し話してみたくなっただけなのだ。
「そういえば佐藤先生、修学旅行で喫茶店に行った時、滝沢美紗に腕相撲挑まれてましたよね。確か右手では佐藤先生が勝って、左手では美紗が勝ってましたよね。」
滝沢美紗とは、小学校の頃から同級生で、恰幅がいい。俺の同級生で、陸上部のエース・宮本一人と付き合っているらしい。
「ああ、そうだったわね、翔太さん、よく覚えてるわね!」
宏美先生は、目を細めて懐かしそうに笑った。
「美紗さんは、本当に力持ちだったから。まさか左手で負けるとは思わなかったわ。私も結構自信があったんだけどねえ」
恰幅がいい、というのは、確かにその通りだった。滝沢美紗は、小学生の頃から体格が良く、運動神経も抜群だった。腕相撲も強かったのは、今となっては納得がいく。
「あの時、周りのみんなもすごく盛り上がってましたよね。佐藤先生も美紗も、真剣な顔してて」
当時の光景が、鮮明に蘇ってくる。修学旅行先の旅館の一室で、クラスメイトたちが輪になって二人を取り囲み、腕相撲の行方を固唾をのんで見守っていた。右手で宏美先生が勝った時も、左手で美紗が勝った時も、歓声が上がったのを覚えている。
「ふふ、懐かしいわね。あの頃は、みんな若かったわ」
宏美先生は、少し遠い目をして言った。
「そういえば、佐藤先生は何かスポーツとかされてたんですか?」
ふと、綾香さんに同じ質問をした時のことを思い出した。あの時は、まさかキックボクシングをやっているとは想像もしていなかったけれど。
「私はねえ、昔は剣道をやっていたのよ。中学と高校の時ね」
宏美先生の口から出たのは剣道という答えだった。確かに防具が似合いそうだし、俺の性癖に刺さる。
「へえ、そうなんですね! 」
「いつも負けてたけどね」
そう言って、宏美先生は少し照れたように笑った。
さすがに綾香さんとの喧嘩の話をするつもりはなかった。
「何か悩んでることがあるなら、いつでもこの学校に来てね。私でいいなら、いつでも相談乗ってあげるよ。」
宏美先生のその言葉は、夕焼け色の教室に、温かい光を灯してくれたように感じました。
「ありがとうございます」
僕は、少し照れながらそう答えた。小学校を卒業してからも、こうして気にかけてくれる先生がいるというのは、本当に心強いことだ。
「何かあったらいつでも、遠慮しないで顔を見せに来なさい。先生はいつでも、翔太くんのこと応援してるから」
宏美先生の優しい眼差しが、僕の背中をそっと押してくれているようだった。あの公園のベンチで話す綾香さんの言葉も、宏美先生の言葉も、僕の心にじんわりと染み渡る。
「はい」
僕はもう一度、しっかりと頷いた。
「今日は、久しぶりに先生の顔が見られて、本当に嬉しかったです。そろそろ、家に帰ります」
立ち上がって、頭を下げた。
「気をつけて帰りなさいね、翔太くん」
宏美先生の温かい声に見送られ、僕は図工室を後にした。廊下を歩きながら、心の中に小さな灯がともったような、そんな穏やかな気持ちになった。また、いつか、この場所に来よう。そう思った。
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