初夏になった6月のある時、俺は上着を脱ぎ、一刻も早く自宅に戻ろうとしている。
綾香さんと会うのは、だいたいが部活が終わり家に帰る途中の、時間で言うと5時の少し前か。会う頻度は、週に1回か2回ぐらいだ。
そんな時、ふと「綾香さんと佐藤宏美先生の喧嘩」を思い出した。
「そうだ、久しぶりに宏美先生のところに行ってみようかな。」
宏美先生と会うのはおよそ1年ちょっとぶりか。というか、小学校に行くの自体が久しぶりだ。
とりあえず職員室に行く。
「こんにちは。一昨年卒業した木戸翔太です。」
「ああ!翔太くんか!」5・6年の時に僕のクラスの担任の先生だった伊藤裕紀先生が。
「翔太久しぶり。元気だった?」伊藤先生の元気さと優しさを兼ね備えた声が。
「はい。相変わらず運動は苦手ですが」運動が苦手な俺に対して、伊藤先生は体育が得意だった。女性としては長身なところや、プールの授業とかで「高校時代にスイミングクラブに通っていた」と話していたことが、それを物語っている。
「あの…佐藤宏美先生と、ちょっと話ししたいんですけど…」
「佐藤先生ね。」
僕は図工や音楽、家庭科などのいわゆる「専科」の授業が好きだった。僕がいた頃は宏美先生が担当ではなかったが、中学校の音楽の先生と宏美先生は親交が深いらしい。
別館1階の図工室、佐藤先生が教卓に座っていた。
窓を叩く翔太。
「こんにちは。宏美先生。久しぶりですね。」
「ああ、翔太さん?久しぶりね。」
「今日は、先生にお礼が言いたくて来たんです」
「お礼?」宏美先生は不思議そうな顔をした。
「はい。小学校6年の時、先生が顧問だったイラストクラブにいたの覚えてますか?あの時、先生が『自由に表現することが大切なんだよ』って言ってくれた言葉が、すごく心に残っていて。中学校に入ってからも、音楽とか美術とかの授業が好きなんです」
少し早口になった自分を自覚しながらも、僕は続けた。「あの時、先生が色々な画材の使い方とか、表現の仕方を丁寧に教えてくれたおかげで、絵を描くのが楽しくなりました。本当に感謝しています」
宏美先生は、僕の言葉をじっと聞いて、目を細めた。
「そうだったの。覚えていてくれたなんて、先生は嬉しいわ」
先生の優しい笑顔に、僕の胸は温かくなった。
「そういや、宏美先生、修学旅行行った時に滝沢 美紗から腕相撲挑まれてましたよね(笑)」
滝沢美紗。俺の小学校の頃の同級生で、恰幅のいい女子生徒だ。うちの学年の陸上部のエース・宮本一人と付き合っているらしい。
「そんなこともあったわね。私、一見よわよわに見えるでしょう。意外と強いのよ」
「分かってますよ。(笑)ああ、元気にやってるみたいで、何よりですよ」
「君の方も。中学校でも頑張っているのね」宏美先生は嬉しそうに微笑んだ。「何か困ったことがあったら、いつでも学校に顔を出しなさい。先生でよかったら、いつでも話を聞くわ」
「ありがとうございます」僕は頭を下げた。先生の温かい言葉が、胸にじんわりと広がっていくのを感じた。
少しだけ立ち話をした後、僕は宏美先生に改めてお礼を言い、図工室を後にした。廊下を歩きながら、心は少し軽くなっていた。綾香さんのことを話すつもりで来たわけではなかったけれど、こうして先生に会って、感謝の気持ちを伝えることができて本当によかった。
校門を出て、夕焼け空を見上げた。明日もまた、いつもの公園で綾香さんに会えるだろうか。そんなことを考えながら、僕は家路を急いだ。
その後も僕と綾香さんの関係は続いたが、夏休みに入ると会わなくなってしまった。もちろん部活とかで学校に行くこともあったが、猛暑だったから母が送り迎えしてくれたから、あの公園がある道を通ることはなかった。
夏休み、僕は父とその職場の同僚・岸山さんと、プロ野球の試合を観に来ていた。確かに野球にも興味があるが、普段はインドア派の僕にとって、球場の熱気と歓声は少しばかり場違いな気がしたけれど、父の楽しそうな顔を見ていると、まあ悪くないか、と思えた。
ビール片手に盛り上がる大人たちを横目に、僕は売店で買ったカレーを頬張っていた。周りの観客は皆、贔屓のチームのユニフォームを着て、試合の行方に一喜一憂している。その熱狂ぶりは、僕には少し遠い世界のことのように感じられた。
ふと、通路の方に目をやると、背番号2のユニフォームを着た見慣れた長身の女性が、こちらに向かって歩いてくるのが見えた。あのポニーテールは。間違いない、綾香さんだ。こんな場所で会うなんて、まるで偶然のようで、心臓が少しドキドキした。
彼女も僕に気づいたようで、少し驚いた表情をした後、にっこりと微笑んで近づいてきた。
「あれ、翔太くん?こんなところで会うなんて、珍しいね」
「あ、綾香さん。こんばんは。父の会社の皆さんと来たんです」僕は少し照れながら答えた。
「そうなんだ。お父さんと仲が良いんだね」綾香さんは優しそうな眼差しで僕を見た。
「まあ…たまには、こういうのも悪くないかなって」
「ふふ、そう?」綾香さんは楽しそうに笑った。「私は今日、友達と待ち合わせなの。すぐそこみたい」
そう言いながら、彼女は少しだけ周囲を見回した。
球場の熱気は相変わらずだったけれど、さっき綾香さんと少しだけ話せたことで、僕の中の何かが少しだけ色づいたような気がした。偶然の出会い。それは、いつもの公園とは違う、特別な場所での、予期せぬ出来事だった。
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