2年生に進級してしばらく経った、初夏の陽気が心地よいある日のことだった。いつものように公園のベンチに座って文庫本を読んでいると、少し離れた場所から聞き慣れた声が聞こえてきた。
「あれ、翔太くん?」
顔を上げると、ポニーテールを高く結び、カジュアルな服装の綾香さんが立っていた。刑事というよりは、近所に住む綺麗なお姉さんといった雰囲気だ。
「綾香さん、こんにちは」僕は慌てて立ち上がった。「今日は私服なんですね」
「うん、今日は非番なの。ちょっと近くまで買い物に来てね」綾香さんはにこりと微笑んだ。「こんなところで会うなんて、偶然ね」
「本当にそうですね」
僕たちは自然な流れで、いつものようにベンチに並んで腰を下ろした。今日の綾香さんは、いつもよりリラックスしているように見える。刑事という肩書きを意識させない、穏やかな笑顔が印象的だった。
「学校生活はどう?」綾香さんが優しく問いかけた。
「まあ、ボチボチです。クラス替えがあって、少しだけ環境が変わりましたけど」
「新しいクラスには慣れた?」
「はい、まあ。でも、やっぱり前のクラスの方が落ち着きました」
そんな他愛ない会話を交わしているうちに、ふと僕は、ずっと心の中に引っかかっていた疑問を口にしてみようと思った。
「あの……綾香さんには、好きな人とか、いるんですか?」
自分の唐突な質問に、少しドキドキしながら綾香さんの反応を待った。彼女は一瞬、驚いたように目を丸くしたが、すぐに柔らかな微笑みに変わった。
「好きな人、ね……」
綾香さんは遠くの景色を眺めながら、ゆっくりと話し始めた。
「昔は、いたわ。すごく真面目で、ちょっと不器用な人だったけど、優しい心の持ち主だった」
彼女の言葉は、どこか懐かしむような、そして少し切ない響きを持っていた。
「その人とは、どうなったんですか?」僕は思わず身を乗り出して尋ねた。
綾香さんは少しの間、沈黙した後、静かに答えた。
「色々なことがあって、別れてしまったの。もう、ずいぶん前の話だけどね」
彼女の横顔には、ほんの少しだけ陰りが見えた。僕は、それ以上深く尋ねるのをためらった。
「そうですか……」
「でもね」綾香さんはすぐに顔を上げ、優しい笑顔を僕に向けた。「過去のことは、今の私を作っている大切な一部だと思っているの。それに、人を好きになる気持ちは、色褪せるものじゃないわ」
その言葉を聞いて、僕の胸の奥にじんわりと温かいものが広がった。綾香さんの過去の恋愛の話を聞いて、少しだけ彼女が遠い存在に感じてしまったけれど、最後の言葉が、また僕の心を繋ぎ止めてくれたような気がした。
「ありがとうございます」僕は小さく呟いた。
「どういたしまして」綾香さんは微笑んだ。「翔太くんは? あの、前に言ってた好きな人っていうのは、どうしてるの?」
ドキッとした。まさか、あの時の話を覚えていてくれたとは。
「えっと……まだ、何も変わってないです」僕は照れくさそうに答えた。「ただ、遠くから見ているだけで……」
「そっか」綾香さんは深く頷いた。「焦らなくてもいい。自分の気持ちを大切に、ゆっくりと進んでいけばいいと思うよ」
彼女の言葉は、いつも僕の背中をそっと押してくれる。刑事という立場でありながら、こうして僕の悩みに真剣に耳を傾け、温かい言葉をかけてくれる綾香さんの存在は、僕にとってかけがえのないものだった。
この日、僕は綾香さんの過去の一端を知り、少しだけ彼女との距離が縮まったような気がした。同時に、自分の秘めた想いを改めて意識し、どうすればいいのか、また少し考え込んでしまうのだった。
ある日、クラス替えで同じクラスになった美咲が、僕に話しかけてきた。小学校の頃からの友人だったし、なんなら小学校高学年の頃、席が隣だったこともある。
「ねえ、翔太くん」
美咲の屈託のない笑顔が、僕の少し陰鬱な気持ちを明るく照らしてくれるようだった。
「あの公園で、いつも綺麗なお姉さんと一緒にいるよね?」
ドキッとした。まさか、誰かに見られていたなんて。
「え、ああ…まあ、時々、知り合いの人と…」
僕は曖昧に答えるのが精一杯だった。綾香さんのことを、クラスの友達にどう説明すればいいのか分からなかった。ただの知り合い、というのも違う気がするし、ましてや「刑事さん」なんて言ったら、きっとみんな驚くだろう。
「そのお姉さん、すごく美人だよね! スタイルもいいし。翔太くんと並んでるところ、なんか絵になるなあと思って」
美咲はそう言って、にこりと笑った。悪気のない、純粋な好奇心からの言葉だと分かったけれど、僕は内心穏やかではなかった。綾香さんのことを、そんな風に他人から言われるのは、なんだか複雑な気持ちだった。
「そ、そうかな…」
僕はぎこちなく笑い返すのがやっとだった。美咲は特に気にすることもなく、すぐに別の話題に移っていったけれど、彼女の言葉は僕の心に小さな波紋を残した。
(他の人から見ても、綾香さんは特別な存在なんだな…)
改めてそう認識した時、胸の奥に今までとは少し違う感情が湧き上がってきた。それは、単なる憧れや尊敬の気持ちだけではないような、もっと複雑で、少しだけ苦いような感情だった。
それからというもの、僕は以前よりも少しだけ、綾香さんのことを意識するようになった。公園で会う時、彼女の横顔をそっと見つめたり、話す声に耳を澄ませたり。彼女の何気ない言葉や仕草の一つ一つが、以前よりも特別な意味を持っているように感じられた。
2年になっても、僕と綾香さんの、あの公園での特別な関係は、ゆっくりと、けれど確実に、その形を変えつつあったのかもしれない。
※元投稿はこちら >>