3年生の夏休みが終わり、少しだけ涼しくなった9月のことだった。いつものように公園のベンチで綾香さんと並んで座っていた僕は、彼女の口から告げられた言葉に、思わず息を呑んだ。
「あのね、翔太。私、来月から異動になったんだ」
その言葉は、予想もしなかった強風のように、僕の心の中に吹き荒れた。異動。つまり、もうこの公園で綾香さんと会うことはなくなる、ということ。
「え……異動、ですか?」
僕の声は、情けないほど震えていた。今まで、週に一度か二度、他愛ない話をするだけの関係だったけれど、綾香さんの存在は、僕の日常に欠かせない、静かな光だったのだ。
綾香さんは、僕の動揺を感じ取ったのか、優しい眼差しで僕を見つめ、静かに頷いた。
「うん。少し遠くなるから、ここに来ることはできなくなると思う。」
僕と綾香さんの間に、重たい沈黙が落ちる。夕焼けが、いつものように空を赤く染めているのに、その色は今日に限って、ひどく寂しげに見えた。水谷美那のことを話した時の、あの奇妙な罪悪感も、今はどうでもよかった。ただ、綾香さんがいなくなる、その事実だけが、僕の心を支配していた。
「……そうですか」
絞り出すように、僕はそれだけを言った。もっと何か言いたいのに、言葉が見つからない。感謝の気持ちも、寂しさも、何もかもが喉の奥で詰まって、声にならない。
「でもね、翔太」
綾香さんは、少しだけ顔を近づけ、僕の目をじっと見つめた。その瞳は、いつもと変わらず澄んでいて、でもどこか温かい光を宿していた。
「君は、君の道をしっかり進むんだよ。高校に行っても、色々なことがあるだろうけど、君ならきっと大丈夫。自分の気持ちに正直に、前向きに進んでいけば、きっと良い未来が待っているから」
その言葉は、まるで魔法のように僕の心に染み渡った。綾香さんの声は、いつも冷静で、でもその奥には、僕を信じてくれる強い気持ちが込められているように感じた。
「あの時、連絡先、教えてくれたじゃないですか」
僕は、自分の財布に入れたまま、一度も使っていないメモを思い出した。
「うん。困ったことがあったら、いつでも連絡してきていいからね。いつでも、君の話を聞く準備はできているから」
綾香さんは、僕の頭を、大きな手でそっと撫でた。その手のひらの温かさが、僕の心にじんわりと広がっていく。まるで、これからの僕の未来を、応援してくれているかのようだった。
「はい」
僕は、目に滲むものをこらえながら、強く頷いた。
綾香さんが異動してからの日々は、僕にとって、まるで何かが抜け落ちたかのように感じられた。あの公園のベンチに行っても、もう彼女の姿はない。それでも、僕の心の中には、綾香さんとの思い出と、彼女がくれた言葉が、ずっと残り続けていた。
そして、季節は巡り、僕は高校への進学を決めた。新しい環境、新しい出会い。きっと、楽しいことも、辛いことも、たくさんあるだろう。
高校生活が始まった。最寄りの駅から電車に揺られ、初めての電車通学だ。もう、中学校の頃のように、汗だくになりながら自転車を漕いで、あの公園のベンチで休憩することもないだろう。あの場所は、僕にとって、綾香さんとの思い出が詰まった特別な場所として、心の中に大切にしまっておくことにした。
綾香さんにもらった連絡先が書かれたメモは、今も財布の奥に大切にしまってある。一度も連絡することはなかったけれど、そのメモがあるだけで、なんだか心強かった。まるで、困った時にいつでも相談できる、見えないお守りのようだ。
高校の入学式の日。真新しい制服に身を包み、僕は期待と少しの不安を胸に、学校の門をくぐった。あの公園で、綾香さんと過ごした日々は、僕の中で大切な思い出として、これからもずっと生き続けるだろう。そして、僕のポケットには、今もあの日もらった綾香さんの連絡先が、お守りのように入っている。
高校には、知っている顔がいくつかあった。
クラスは違ったけれど、中学校1年生の頃に同じクラスだった鈴木莉英がいた。彼女は相変わらず明るくて、すぐに新しい友達を作っているようだった。見かけるたびに、少しだけ安心する。
そして、もう一人、僕と仲の良かった野球少年の林大介も一緒だ。ああ、うちの高校は野球部が結構有名で、現役のプロ野球選手もいる。
高校生活はまだ始まったばかり。新しい教科書、新しい先生、そして新しい友達。中学時代とは違う、もっと広い世界が広がっている。あの公園での日々は、僕の過去のページに刻まれた、大切な記憶だ。そして、これからの僕は、新しい場所で、自分なりの道を歩んでいく。
完
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