一方で、政府こども庁は少子化が「子育てコスト」が少子化の根本原因と考え、子供のマネタイズを模索してきた。子供の可愛らしさをビジネス化しようというもので、数々の社会実験を重ねてきたがどうしても日本の伝統文化ともいえる「子どもの性の商品化(特に女の子)」に行きついてしまう。しかしこれは「少女の性教育革命」と一体化して考えればビッグチャンスでもあった。
そこで政府の肝いりで国営放送ドラマが始まる。
主人公は東京郊外に住む11歳小五の少女、遥。都心の小中高一貫教育の名門女子校に通う彼女は性に目覚め始めていた。それは幼いころからなじんできた一輪車によってもたらされたものだが、人に気づかれているように思い、一輪車から自然と離れていく。
しかし、いったん芽生えた性への関心を抑えることは11歳の少女には難題だった。少女は夜な夜な指を無毛のふっくらした恥丘に滑らせるようになる。
女子校に通う遥にとって密かな愉しみは通学時の満員電車だった。小五とは言え、早熟で胸の膨らみも目立つ遥はしばしば痴漢被害にあうことがあったのだが、そのことに気づいてさりげなく遥を守ってくれる男性が現れたのだ。彼の名は時折目に入るスーツのネームですぐわかった。「久市」という名だった。
彼は遥を電車の中で見かけてすぐに気に入った。間もなく遥に恋愛感情を抱くようになる。そしてすぐに遥が痴漢被害にあっていることに気づく。しかも遥をターゲットにする男は3人ほどいて、毎日のように遥の胸に肘をつけたり、手の甲で遥の尻に触れたりする。露骨さがない代わりに「痴漢」と断定しづらい悪質さがあった。
久市はある日、そんな男と遥の間にさりげなく割って入る。別の痴漢が遥に近づいてくるとそれもブロックする。あくまでさりげない行動だったため、偶然かと考えていた遥も、そんなことが続くと自分を守ってくれる久市の存在に気づく。そして父親ほどの年齢の紳士と時折目を合わせ、笑顔を交わす様になる。次第に電車内の周辺は2人が本当の親子だと信じ、遥の痴漢被害は皆無になった。
しかしある日大きくダイヤが乱れ、車内が超満員になったとき二人の関係が激変するでき事が起きる。何時ものように遥を覆い包むようにしていた久市だが、あまりの満員でいつもは遥との間に作っていたクリアランスを保つことが困難になる。その日、遥はドアにもたれるように久市に背を向けていた。久市はドアに手を当て必死に遥とのクリアランスをとろうとしていたが、時折襲ってくる背後からの圧力に負け、遥の後ろに自分のカラダをぴったり密着させる形に。。。
実は久市とは俺のことだ。この小説は俺の体験の告白なのだ。
早熟で小学生ながら比較的長身で足の長い遥の尻は、ちょど巨大な圧力ですこしかがみむような姿勢の俺のペニスに密着する形で固定されてしまった。俺は困った。しかしこの姿勢でいれば普通の男は勃起する。しないとすれば、それは紛れもなくその少女に「異性」を感じていないことを意味する。それはこのあまりに可憐な少女にとって大いなる侮辱ではないか?少し考えたのち、俺はそう結論した。
俺は遥の耳元で「遥ちゃん、大好きだよ」と彼女にしか聞こえない小声で愛を告白し、プリンとした彼女の尻に血管の浮き出た肉棒を押し付けた。俺は遥の呼吸が次第に荒くなることを確認すると、次の駅で遥の手を取り下車した。
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