由香里がポーズするうち、次第にピンクのサマーセーターの裾が持ち上がり、由香里のくびれたウエスト、おへそがあらわになるとそのセクシーさは「ローティーン少女」のレベルをはるかに超えている。
というか、基本的にマンコの露出は日本ではご法度だ。しかし、この歴史上もっとも寛容な輝かしい時代は俺たちの「芸術創作」を可能にした。成人女性のマンコ露出を禁じる一方で思春期少女のマンコ露出を政権が許したのは単なる偶然ではなく、俺たち芸術家に天が与えた千載一遇のチャンスなのだ。
少女ヌード愛好家の中には「少女ヌードは芸術ではない」と主張するものがいる。少女ヌードを「愛し」「消費」している彼らが何故そういうのか?彼らは口を揃えてこう言う。
「現に俺たちは少女ヌードで抜いているではないか?少女ヌードは芸術ではなくポルノなのだ。」と。
しかしそれは間違いと断言できる。現に俺は幼いころ「ミロのヴィーナス」を美しいと感じ、勃起したし、抜いてもいる。若い女性の裸像が芸術分野の範囲内にあるなら必然的にエロスを感じさせるものであるはずだ。逆にエロスを伴わない女性の裸像があったなら、それはモデル女性に魅力がないことに他ならず、魅力のない作品ということになる。魅力の無い芸術作品??そもそも芸術とは言えない。芸術的裸像は必然的にエロイのだ。その芸術的魅力の核心がまさにエロスなのだ。
俺は撮影中、平易な表現でそんなことを語りながら、この幼いモデルを、言い方は不適切かもしれないが、洗脳した。そうすることで、男たちの前で裸身を晒すことで実は性的興奮を覚えているこの13歳の少女の心の片隅にある「罪悪感」を取り除いた。
少女モデルは多くは裸身をカメラマンやスタッフ、そして不特定多数の前に晒すことに性的興味を覚え応募してくるのだが、いざ撮影となると恥じらいが頭をもたげ、うまくいかないことが少なくない。
実はこれまでのk岡作品の多くも「上手くいかなっかった」例がほとんどだ。何とか少女たちにワレメを晒させ、写真に収めるため撮影現場では性的なニュアンスをことごとく消し去ってきたのだ。そのためにカメラマンは言うまでもなく、撮影スタッフも全員女性にしてきた。そうすることであっけらかんとワレメを晒す少女の写真を制作してきたが、k岡先生はそれで良いとは思っていなかった。
モデル少女に「いやらしいポーズ」を取らせ、そうすることで性的に興奮させてもっとスケベな写真が撮りたい、そのためk岡先生は俺を採用したのだ。
k岡先生は今回の由香里の本撮影に先立ち、俺に「由香里のあそこ本当可愛くて綺麗だけど彼女は処女じゃないよ」とわざわざ告げてきた。俺はその意図をすぐに理解した。さきほど、由香里の脱毛処理時、俺が由香里とセックスしてることにk岡先生は気づいていた。俺は撮影前のモデルとセックスしてしまったことを先生に小声で「すみません」と謝罪したが、先生は首を横に振り、「グッジョブ」と返してきた。
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