ほんの数秒後、亜季が大きく息を吐いた。
「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁー」
その時、俺の下腹部がじわっと熱くなった。とっさに手で確認すると、亜季がおしっこを凄い勢いで噴射していて、それと連動するみたいな、まるでしぼむような感じで倒れ込んできた。
おしっこはどんどん出続けて、さっきまでの激しい痙攣が止まった。呼吸はまだ荒いけど、ピンチは脱したように思えた。でも俺の恐怖は続いていて、亜季を抱きしめながら震えるばかりだった。
徐々に亜季の呼吸が落ち着いてきて、次第にそれは寝息のようになっていった。
「亜季、大丈夫か?亜季」
との問いかけに亜季は答えない。まだ意識は戻らないのか。でもすっかり表情も穏やかになって普段の寝顔と何も変わらないように見えた。
『大丈夫そうだ』
ちょっと安心したその時、玄関のチャイムが鳴った。
ギク!!
「なんだよ、朝っぱらから、こんな状態で出られるわけないだろ」
誰かは知らないけど黙っていれば帰るだろう、と思ってじっとやり過ごす。
ピンポーン、ガチャガチャ、ドンドン、ガチャンガチャ
なかなかしつこい客である。
ドンドン、ドンドン「お父さん!亜季!ねえ、いないの!?」
『っ!? 裕未!?』
一気に血の気が引く。なんでこんなに早く裕未が帰ってくるんだ!?全くもって突然の生涯最大のピンチである!
「お父さん?亜季ー?」
裕未が家の裏手に回ったのが声で分かる。
「大丈夫だ、勝手口も鍵をかけてある、大丈夫だ」
娘が家に入れない状況に何が大丈夫なのかさっぱり分からないが、パニクった俺はそう念じるしかなかった。だって、今の状況を裕未に見られたら、俺の人生が終わるのはもちろん、裕未の人生も、亜季の人生も終わってしまいかねないのだ。
カチャ「なーんだ、開いてるじゃん♪お父さん?亜季ー?ただいまー、まだ寝てんの~?」
なんで勝手口開いてんのーっ!?マジ!?裕未もう家ん中だよ、ヤバいよ、これ本当、ヤバすぎる!
「亜季ーいるー?お父さん部屋にいないんだけどー」
とうとう階段昇ってくる。どうする?どうする?どうする!
「亜季ー、寝てんのー?入るよー」
どうする?どうする?どうするー!俺!?
ガチャ!
「なーんだ、お父さんいるんなら、返事してよー」
「あ、裕未か、お帰り、どうしたんだ?えらい早いじゃないか」
亜季をベッドに寝かせ掛け布団で覆って、俺は椅子に座って看病してる風を装った!
「え、だって外、大雨だよ。この天気じゃ中止にもなりますって。亜季どうかしたの?」
「ああ、ひどい熱を出してな。今また寝たところだ」
「えー、大丈夫なん?」
「あまり寄らない方がいい、夏風邪は厄介だからな」
「はーい」
「後はお父さんに任せて、裕未は早く寝なさい」
我ながら何を言ってるのかと思う。トンチンカンもいいとこだ。
「ねえ、お父さん」
「なんだい?」
「ちょっと教えて欲しいんだけど」
「何をだい?」
「どうして、 お父さん、 裸なの?」
「はっはっは、何を言っているんだ、お父さんが裸なわけないだろう」
「どうして、 この部屋は、 イカ臭いの?」
「はっはっは、何を言っているんだ、ぜんぜん臭わないぞ」
「ねえ、 お父さん、 亜季は本当にそこにいるの?」
「もちろんだとも、亜季は熱を出して寝ているんだ」
「亜季も、 裸なの?」
「はっはっは、何を言っているんだ、亜季はちゃんと制服を着ているぞ」
もう、いっぱいいっぱいだった。完全に詰んでいた。この時、もう泣いていた。
「ねえ、 その布団、 まくって見せてよ」
「何を言ってるんだこの娘は、まったく」
「ねえ、お父さん、いいでしょ、お父さん」
どんどん近づいてくる裕未、来るな!来るな!来るな!
もう歯をむき出しにして笑みを浮かべ、涙を流してガタガタ震えるだけになってしまった俺。
裕未の手が布団を掴んで、がばっとまくりあげる!
「うわあああああああああああーーーーん!・・・・・・・・」
何もかもが、終わった。ああ、終わったのだ・・・・・。
「・・・・・・」
「・・・・・」
「たっくん・・・たっくん」
「?」
不意に俺を呼ぶ声がする。悶死した俺を由希子が迎えにきたのだろうか。
「たっくん!ねえ、たっくん!大丈夫!?ねえ、たっくんてば!!」
恐る恐る目を開けると、そこには亜季がいた。
「ん?」
「ん?じゃないよ、おはよ、もう9時だよ」
「ん?」
「すっごいうなされてたけど、怖い夢でもみたの?」
「ん?」
「たっくん!寝ぼけてないで、起きてよ」
「んん?お?」
「お?じゃないよ、起きないならまた寝れば?また怖い夢に戻れば?」
「嫌です」
即座に飛び起きた。俺の部屋だった。亜季も俺もちゃんとパジャマを着ていた。
『夢!?』
まさかの夢オチ?まだ心臓がバクバクしてる。
「たっくん、どうかしたの?ぼーっとして」
普段どおりの亜季が俺の顔を覗き込んでくる。ついさっきまで繰り広げられていた『みだらで激ヤバな行為』がフラッシュバックして亜季の顔をまともに見れなかった。
「あ、いや、なんでもない」
どうやら本当にアレは夢だったようだ。でも、だとすると、どこからなんだ?
「あ、亜季。俺、亜季に何か、変な事してない、よね?」
「はい?」
「いや、変な夢だったもんで、ちょっと混乱してて」
「踊ったり歌ったりはしてませんけど、エロい事ならかなりされました」
「ちょっと死んでくる」
「嘘です。残念ながら何もしてきませんでした。ヘタレもいいとこです」
「本当に?俺、本当に何もしてない?」
「たっくんはしてきませんでした。けど、私からは色々させていただきました」
何を言ってるのだ、コイツは。ドキンドキン。何をしたっていうんだ、まさか、あのフェラは本当だったのか?
「お、俺は、何をされたのかな?」
「え、あの、その、あまりに溜まってたみたいなんで」→脈拍92
「・・・え?」
「したことなかったんですけど、勇気を出してやってみたんですよ」→脈拍108
「・・・な、な、何をしてくれたのかな?あはは」
「やっぱりうまくできなくって大変だったんです。なかなか深く入れられないんですよ」→脈拍125!
「頑張っちゃったんだ、あは、あは、あは」
「びっくりしました、あんなに出るなんて」→脈拍148!!
うぇぇええーん!やっぱり俺終了だああぁぁぁ・・・。
「ほら、これです」
「・・・ん?」
「見えますか?この大物。こんなの見たことないですよ」
ティッシュの上に鎮座ましますそれは、液体ではなく、固体だった。
「あの、亜季さん、これって?」
「耳くそです」
「耳垢と言え!女子が!」
「びっくりしたんですよ~。あまりに大きいので、鼓膜を取ってしまったのかと思ってビクビクしてたんです」
「本当に鼓膜だったらどうするつもりだったんだ!」
「逃げる用意はしておきました」
「お前って何気にヒドイ奴だよな」
「あーん、たっくんがヒドイ事言ったー。傷ついたー、いじめられたー」
「覚えておけよ、世の中、した事はされるんだからな!」
「たっくんって、本当、優しくて素敵です。尊敬してます、大好きです」
いつものノリで言ってるんだと判っていても、大好きと言われてドキッとしてしまった。
「え、あ、うん・・・」
「なんですか!い、いい大人が顔を赤くしないでくださいよ、恥ずかしい」
「いや、うん。俺も、亜季のことは尊敬しているし、大好きなんだぜ」
しっかり目を見て言ってしまった。これは自分でもびっくりした。
目を丸くして固まった亜季。見る見る顔が赤くなる。あは!やべー、この亜季可愛すぎる。
「な、な、な、何を言ってるんですか!大人が子供をからかってどうするんですか!」
「からかってないよ。俺は亜季が大好きだ。とても可愛いと思ってる」
「やめてください!乙女に告白していいのは童貞だけです」
「その理屈がわからない」
「だって、たっくんは、たっくんは・・・」
「あ、亜季?」
まただ!あのヤバそうな表情になっている。咄嗟に抱きかかえたと同時に亜季がふにゃっとなった。
「大丈夫だから、何もしなくて、大丈夫だから・・・」
「亜季!」
「えへ・・・」
弱々しい笑みを残して亜季は気を失った。何もしなくていいって言われても・・・。
体中から血の気が引いて、どんどん冷たくなる。あっという間に死人になっていくみたいで怖いことこの上ない。
『1分だ。1分だけ待ってみよう』
そう思って枕元の時計を見る。亜季を抱えながら、じっと待つ。もう無理だと思い始めた時、亜季が静かに呼吸を始めた。
「?」
急激な咳き込みも体の動きもなく、グラデーションでもかけたように、静かに呼吸が回復していく。
「亜季、亜季」
呼びかけにはまだ反応しない。血色も体温も徐々に回復してきて、ひとまず不安は解消された。
『これは一体なんなんだ?』
5分ほどして、亜季がうっすらと目を開けた。
「亜季、亜季、大丈夫か?わかるか?」
「・・・」
虚ろな目のまましばらく俺を見つめた後、ゆっくりと首を回し部屋を見る。まるで『ここはどこなんだろう』とでも言いたげな仕草だ。
「亜季、俺がわかるか?」
「・・・」
また俺の顔をぼーっと見て、
「おんぶ」
と言った。
「ん?」
「おんぶして」
「え、あ、ああ、いいぞ、おんぶだな」
と脇を抱えて立たせてやり、背中を向けて両手を構えた。すんなりと身を預けてきたので、よいしょっと立ち上がり、お尻を支えた。
肩に顎を乗せ、べったりとくっついてる亜季。俺の額からは汗が流れていた。だって、こんな亜季、見たことないんだもん。
「亜季、どうした?」
「おりる」
と言うので、降ろしてやる。
「だっこ」
「お、だっこだな、ほい、よしよし」
コアラのように俺に抱きついてる亜季の頭を撫で撫でしてやる。
『なんなんだ?これ??』
亜季はそのままじっとして、やがて眠ってしまった。
ひとまず死んでしまう心配はなさそうだったので、布団に寝かせて様子をみた。
トイレに行こうとして、はたと立ち止まる。パンツの感触が気持ち悪かった。
「うわ、これは・・・やってしまったか」
目で確認するまでもない。夢精していたのだ。
『あんな夢じゃ当たり前だわな』と苦笑するしかなかった。
トイレを済ませ、シャワーを浴び、パンツを履き替えた。汚れたパンツはシャワーで洗って干しておいた。このパンツを亜季や裕未に洗わせる訳にはいかなかった。
俺の部屋に戻ると、亜季はおらず、布団も片付けてあった。
「亜季!どこだ!」
「ここだ!」
と元気な声がしたのは台所だった。
「おいー、お前、大丈夫なんか?」
「大丈夫、大丈夫、すっかり元通り、ほれ、この胸の張りを見よ!」
うん。いつもの亜季だな、これは。
「何やってんの?」
「朝ご飯の用意ですよ。お腹空いたでしょう」
「それもいいけど、体はなんともないのか?」
「体?たっくんの体臭が染みついて売り物にならなくなった程度です」
「うん、それについては俺は全力で謝罪すべきなのだろう、だが、俺が言ってるのはそうじゃなくて・・・」
「ん?」と首をかしげる亜季。
「あ、昨日もさっきも、あんなふうに気を失うのってオカシイだろ?」
「あー、平気なんだって、あんなのたまーになるだけだから」
「でも、あとで病院行こうな」
「今日、日曜日ですよ」
「あ」
「それに、こんな元気で可愛いプリップリの亜季ちゃんを診ても、お医者さんは困っちゃうと思いますよ」
「そこは元気だけでいいだろ」
「お医者さんが元気になっちゃうかも」
「お前はお医者さんに何をするつもりだ」
「たっくんは平気なの?」
「何が?」
「見ず知らずのお医者さんが、私の胸を触るんだよ」
「触るって、聴診器を当てたりするだけだろが」
「後ろでたっくんが私のシャツを捲り上げて、対面に座っている頭テカテカの太ったお医者さんがハァハァ言いながら聴診器で私のおっぱいを弄ぶの図なんか完全にR18、見せられないよ指定です!」
「お前の頭の中が心配だよ!」
「高学年女子の妄想力をなめてはいけませんよ」
「中学生男子には勝てまい」
「ふっ、中学生といえども所詮男子の知識は偏っている上に浅いのです。そんな脆い土台しかない妄想など取るに足りません!」
「お前は知らないのだろう、あんな事やそんな事、更にこんな事まで」
「どれもこれも結局最後は自己の快楽を満たして終わるだけではありませんか?」
「うっ」
「エンディングが同じシリーズなんて誰も見ませんよ」
「うっ」
「女子は子供を生めるんですよ」
「うぐぅ」
「そのための仕組みを体の中に持っているんですよ」
「うぐぐ」
「育てるためのミルクタンクまで備え付けなんですよ」
「ぐぐぐぐ」
「生命の神秘は女性なくして語れないのです!」
「そ、それは認めよう。しかし、中学生男子は」
「まだ言いますか、ではこう言えばいいですか」
「なんだ」
「小学校で女子だけが受ける授業があるのをお忘れではありませんか?」
「はっ」
「男子だけ教室に残されて、女子だけが視聴覚室に集められて何を見せられるのか知っているのですか?」
「し、知らない」
「全ては、あの授業があるかないかの差なのです」
「そんなに決定的なのか?」
「たっくんが今見ても絶叫すると思いますよ」
「そ、そんなにハイレベルなのか」
「永久に放送禁止です」
「一部だけでも」
「冒頭の挨拶からピーーー!です」
「どうすれば見れるんだ!?」
「女児に生まれ変わってその日が来るのを気長に待つしかないでしょう」
「そんなの無理だ!それに、それが目的だってのが、なんか嫌だ」
「仕方ありませんね」
「何かあるのか!?」
「私にアイフォンを持たせてくれれば全て記録して差し上げましょう」
「俺の為にそこまでしてくれるのか!」
「お望みとあらば生中継さえも!さあ、今すぐ!」
「買わないよ。」
「ちっ!今日はいけると思ったのに」
「長げーよ!お前のフリ」
最近、亜季は何を見たのかしらないけど、やたらiPhoneを欲しがるようになった。俺は携帯は折り畳み式の使い勝手が好きで、まだまだ替えるつもりはないし、小学生の分際でiPhoneを持つなんぞけしからんと思っている。それに、裕未ならまだしも、亜季にあんなもの持たせたら、本気で凄い悪用しそうな気がするし。
「お前、昨日スマホなんか必要ないとか言ってたじゃねーか」
「そんなこと言ってませんよ。何の話ですか」
「あれ?そうだっけ? 『あ、あれも夢か』 でもお前、iPhoneなんか何すんの?」
「決まってるじゃないですか。たっくんと裕未ちゃんとでLINEするんです」
あんまり意味を感じないなー、それ。
その時、玄関の呼び鈴が鳴った。
「貴志ー、いるー?」
聞き覚えのある声なので、誰なのかはすぐわかった。
「ほーい、おるよー」
出てみるとやはり同級生の柿畑穂子(かきばたけみのりこ)だった。
「よー、ホーコじゃねーか」みのりこが言いにくいんで同級生はホーコと呼んでいる。
「よっ!あのね、今度、花屋さん始めたんだけど、思ったよりお客さん来なくてねー」
「あー、今時商売はきついよな」
「でさ、売れ残りで悪いんだけどー、買ってくんない?」
「俺んち花飾るような家じゃねーぞ」
「知ってる。だからお仏壇にと思って」
「あ、なるほど、それ、ちょうどいいわ。買う買う、いくら?」
「・・・」
「ん?どした?」
「あの子、誰?」
穂子の視線の先には廊下の隅っこでちょこんと座ってる亜季がいた。
「ああ、色々あって一緒に暮らしてる子だ。亜季っていうんだ」
「へー、由希子の親戚とか?」
「なんで由希子が出てくるんだよ。お隣の子だ」
「え?赤の他人ってこと?」ちゃんと声を潜める穂子。
「そういうことだ。一家全滅で身寄りなしなんだから下手なこと言うなよ」
「へー・・・亜季ちゃん!こんにちはー」
「こんにちは」とペコっと会釈する亜季。いつからそこにいたんだろう?
「財布、財布っと、いくらだっけ?」
「ちょっと、こっちきて」
と腕を掴まれ強引に外に出された。
「あの子、貴志の何?アンタまさか、あんな子供に手出したんじゃ!」
穂子の頭を平手で叩くのに何の躊躇いもなかった。
「次はグーで顔面な」
「いったーい、か弱い女子になんてことすんのよ」
「か弱い女子?」
「こら、そこ!真顔でキョロキョロするんじゃない!」
「お前が馬鹿なこと言うからだ」
「ごめんなさい。でも、あの子の本妻オーラ凄いんだもん」
「オーラ?ああ、お前見えるんだったっけ、そういうの」
「オーラっていうか、プレッシャーっていうか、『何この女』みたいな嫌悪感っていうか」
「亜季はまだ小学生だぞ。何なんだその『本妻オーラ』って。おまえの能力も衰えたんじゃね?」
「あは、あはは、この年頃の女子に、衰えって禁句なんだけどなー」
「じゃ垂れてきた、でいいのかな」
「チチ揉ますぞ!」
「セクハラ花屋め!買わねーぞ」
「うそうそうそ、半額にしときますから~」
「おいくらですか?」
いきなり亜季が現れてびっくりした。
「え!?あ、1000円で結構です」
「わーい、ありがとう、おばさん。はい、1000円」
いつの間にか俺の財布を持ってる!
「おば!」
愕然として亜季に花を渡す穂子。やけに多くねーか、それ。
「わーい、得しちゃった~、おばさん、帰っていいよ、たっくん、焼きナス作って」
「え、あ、ああ、そうだな」
「おば さん・・・」
「ホーコ、すまん、もうすぐ裕未が帰ってくるんでメシ作ってるんだわ」
「おば さん・・・」
「花、ありがとう、助かったよ」
「たっくん!」
「ああ、今行く。じゃ」
「・・・お ば さ ん・・・」
一人玄関先に取り残される柿畑穂子38歳独身であった。
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